夜へ⑤
そのとき、テーブルの皿が目に映った。
「あ、いくらになりますか?」
亮はポケットの財布に手を伸ばした。いつも支払っていないので忘れかけてしまったが、今日は頼みの龍胆が居ないのだ。
ところが、亮の問いにオーナーは首を振って応えた。
「けっこう。もうもらっているもの」
「え、でも龍胆は―」
七星は重ねて首を振った。
どうしてだろうか。龍胆と同様に、亮も「気に入られ」たのだろうか? それとも、先の寸劇に充分楽しませてもらったという、いわば皮肉だろうか。理由を訊きたかったが、七星がまるで外界のすべてを遮断するかのように瞑目し、下を向いたので、亮は諦めて財布をしまった。
「じゃあ、失礼します」
「また、いらっしゃい」
軽く頭を下げて一礼し、亮はきびすを返した。七星は下を向いたままやけに優しい声でそう答えた。
エム男が出てくると面倒なので、少し小走りに出入り口に向かった。
龍胆への伝言の件が少し気にかかったが、もう随分と待って、義理は果たした。それに、彼らなら結局なんとかするだろう。
重い扉を開ける。生ぬるい、湿った空気がとたんにまとわりつく。薄暗い店内よりも増して、街はすでに夜の只中にあった。雨は小降りになっているが、変わらず風はない。
亮は手すりに掛けておいた傘を手に取った。階段を下りた。宵に滲んでいたビルの明かりはあらかたが絶えてしまっていて、わずかな数だけ残った窓の光が、抜け殻となったオフィス街の静謐をかえって強調していた。
歩道の上に立って、亮はゆっくりと歩く。見上げた夜空は、もはやただの闇でしかなく、それと思えば深い穴のようにも見えてくる。ちょっと、亮は傘をずらしてみた。頬にかすかなものが感じられた。雨はもう音を立てぬほどに軽くなっている。
そういえば、と亮はふと考えた。龍胆と会わずに家に帰るのは、いつ以来だろう?
近頃は、土曜日曜でさえも共にこの道を歩いていた。御毛沼の街のどこかで出くわし、やはり静かな抜け殻となったこの往来を、皆で大声を出して歩いていた。しかしこの雨の日に限ってはその類に漏れ、帰路の道行、胸中にはやたらと「一人」の二文字が浮かび上がる。
寂しさが、あるのだろうか? 亮は首を振りたい。
しかしそれを許さぬ何かが心に挿し込まれている。寂寥ともいいきれない、強がりとも呼べない、違和感。夢から醒めたような、虚無の感覚。
どうしてだろう。どうして、会ってひと月足らずの、それも殴り殴られた間柄である少年が、こんな感覚を催させるのだろう。
龍胆というその強烈な存在は、それを前にした少年らに対して、必ず何らかのはっきりした行動を強いている。水町夏深に崇拝を、八代春美に追従を、後輩らに依存と尊敬を、京谷に憧憬を。ならば自分はどうなのだろうか。何をもって、龍胆という存在に相対しているのだろうか?
崇拝はしていない。追従する気などさらさらない。憧れているつもりもないし、といってもはや興味だけだとも考えていない。今のところ、仮定ではあれど行き着くものは、ひとつしかなかった。理には適っていないが、気恥ずかしいが、亮の語彙の中ではそれしか思い当たらなかった。それは、親愛。
(何だそりゃ、気持ちの悪い)
自らが導き出した仮定に、亮は頬を引きつらせて苦笑した。しかし否定はしなかった。それは、最も得心のゆく解答でもあるからである。それも、おそらくは一方的なものではなく思われた。
独りよがりではない。少なくともそのつもりである。偶然の邂逅以来、龍胆のほうこそが妙に親しく接してきたのだ。そしてそれは、いまなお一貫している。不機嫌にしていることも多く、仲間にその暴力性が向けられたことも一度や二度ではないと聞いているが、それが自分に向けられたことは、知り合って間もないとはいえ、今まで一度もなかった。
この関係は、いったいどういうわけか。亮にはまったく合理的な説明が出来ない。
喧嘩の末の友情など、いまどきマンガにもなりはしない。グループの皆のように同じ過去を共有していることもなければ、趣味が合うわけでもないし、上下があるわけではなく話のレベルというものも重ならない。
それでも何故か、妙にウマが合う。並んで歩くことが、いまや自然なことになっている。互いが勝手に好きなことを話し、互いが勝手に好きなように応え、懐を突っつくようなこといっては戯れ、肩を組んで笑い、気がつくと二人だけで向き合っている。
といって、心のすべてをひらいているわけではなかった。それは互いにそうだった。互いが、相手に隠し絶対に見せようとしない何かを腹に持ち、そしてそうしていることをも、互いがなんとなく気づいている。そういう意味では、いかに近づいて見えようとも、何らの核心に触れ合っていることもない。かといって、手が届かないほど離れていることもない。
気を許すと、いつの間にか目の前から消えている。と思うと、気づけばとなりに並んで立っていた。しかしそれは、よく見ると鏡だった。例えるならそのような関係であるこの関係は、何に原因があるのかと、今そうしているように亮は幾度か考えたことがある。
引き合う何かがあるのか? 何らかのシンパシーを、互いに感じ取っているのか? 何かを認め合っているのか? 共有する何かが、互いの内面に存在しているのか?
そのどれもが正解で、また、違っているような気がした。亮は龍胆の内面については何も知らないし、自身のそれを打ち明けたこともない。考えようにもその材料となるものがなく、何となく導き出したそれらの仮定の、その正誤を確かめることは、今はまだ出来ていないのだ。
歩行者信号の赤が雨粒に滲んで見えた。
顔を上げてそれに気づいた亮は、点字ブロックの上に立ち止まった。
と、その指示に従わずこちらへ向かう人影があることを、亮は認めた。向こう岸からこちらへ、一人とそれに遅れるもう一人。並んだ傘に伴う二つのそれは、見覚えがあるものだと直感がいう。
一方の影が手を挙げた。
「おう、亮」というその表情が、夜にも明らかな笑顔だったので、
「ああ、龍胆」と応えながら、亮もつられて満面に笑った。
それは龍胆と、そして京谷だった。
「何だ、店に居やがったか。帰りだろ?」
「そっちこそどこに居やがった、探したぞ」
「こっちのせりふだバカヤロウ」
龍胆は足元の水溜りを蹴って飛沫を寄越した。口を尖らせ、笑いながら、亮は同じことをして応礼した。
「まあいいや。行こう」
と、龍胆は傘で亮の後方を指した。デルフィへ向かう途中であったらしい。それもいいのだが、亮はちょっと眉間にしわを寄せた。
「いま出てきたんだよ。もう別でいいだろ?」
すぐに戻るのは、何となく気恥ずかしい。しかし龍胆はかまわず背を向けた。
「るぅっせ。腹へってんだよ」
その背は、いつものように金がない、と笑っている。そうはいうが、
「金なら―」
と、亮は口をひらいた。だがその先をすんでのところで飲み込んだ。しかしその視線は、すでに飲み込んだ言葉が示すものへと傾いてしまっていた。京谷である。京谷は、無表情にこちらを一瞥して、黙って龍胆を追っていった。
何をいおうとしたのか、京谷なら気づいたに違いない。しまったと、小さく舌を打ち亮は下を向いた。そしてすぐに龍胆に続く京谷の肩に追いつき、いまさらのように声を掛けた。しかし、京谷は「ああ」と相槌を打ったのみで、無愛想に目を逸らされてしまった。やはり感づかれたようだ。「京谷銀行」。つまりは、財布扱いをされようとしたことに。
京谷は八代春美と小学校を同じくしていたらしい。いわば幼馴染、その伝手があって龍胆と接触を持てたのだ。
京谷のほうは彼を「馬鹿」と呼んで憚らないが、八代春美はどういうわけかこの居丈高な少年を尊敬の念を交えて慕っているらしく、とにかくも仲がいい。だからグループの皆でいるとき、二人で話していることが多い。かたや、亮は龍胆と話していることが多い。それもあって、今日のように挨拶ていどの言葉を交わすことはあっても、公園での行動の理由を問い質されることも、もちろん亮がそれを弁明することもなく、今に至っている。
相対したときの京谷の明らかな不機嫌な様を、亮は敵愾心と嫉妬の現れであると理解していた。
顔をつないだ自分の面子を、あの暴挙によって潰されたこと。にもかかわらず、未だ財布扱いをされ、しかもそれを隠そうともされていない自分をゆうに飛び越えて、ヒーローと肩を並べられてしまったこと。何よりも、自らが暴力の権化、悪の華のようにも讃えた龍胆に対し、自分の後方に居たはずの亮が何の躊躇も怖れもなく果敢に立ち向かっていったこと。それらが、彼の高すぎるプライドを著しく傷つけたのだ。
むろん、京谷の言動にはっきりとそれらの根拠があったわけではない。しかし、グループ内のそれにおいて、京谷の態度にうちには亮への抵抗や反抗の臭いがはっきりと感じられた。あれだけ躍起になって自説を振りかざしたがった京谷が、今ではまったく話し掛けてもこず、教室で目を合わせることすらなくなっている。
それは結構なことなのだが、ベクトルが変わったとはいえ不快な態度があるという意味では変わらず、京谷の存在はやはり疎ましかった。といって、グループの貴重な財布の排斥を訴えるわけにはいかず、そしてこちらが何を譲歩することもないので、以前にも増した険悪な関係は、今なお続いていた。
「そうだ」
亮はあることを思い出した。龍胆が階段の上からこちらを振り向いた。
「八代たちが探してたんだ。何かあったみたいで、電話しろって」
「何かって?」扉に手を掛けながら、龍胆は言葉尻を重ねた。
「ゴタゴタみたいだな。鍵原が捕まってるっぽい」
亮は電話をするようにと勧めたが、龍胆は「ふうん」と何の憂慮も見せず扉を開けた。
「してやれよ。携帯もってんだろ?」
「いーよ。めんどくさい」
一顧の隙間もなく答え、「エム男ォ! メシだ!」と、ぶっきらぼうな大声を出す。一応は食事の注文だ。龍胆は真っ直ぐに最奥の席へと歩いていった。
しばらくしてエム男が奥から顔を出し、「うるせぇ! テメェで作れ!」と喚いたが、それは龍胆が腰を下ろすの待ってからのことである。大手をひらいて倒れ込むようにソファに座ると、龍胆は先と変わらずそこに居る七星に声を掛けた。
「よう。今日も生き延びたか」
「そうね。焦らされてばかりいるわ」
いつもの挨拶が交わされ、二人は互いを向き合って表情だけで笑った。とにかくも笑顔なのだが、それは親愛や共感ではない、まったく別の何かを含んだものに見えた。からかいでも、あざけりでもない、攻撃的な笑顔。
「おい」
と、パーティションの脇に立ちながら京谷が顎をしゃくった。となりの席に移れという。龍胆はうなずき、エム男に食事を持ってこさせるよう七星に頼み、席を立った。そして最奥のひとつ手前、つまりパーティションを隔てた席にどかと腰を下ろした。京谷がそのとなりに、亮は正面に座った。
わざわざ席を違えたのは、京谷に原因があった。彼はその粘着質の性格で七星のことを執拗に嫌っており、我慢というものを知らないので、接触することをあからさまに拒もうとするのである。おそらく、七星が例の調子で京谷のことを子ども扱いしたのだろうと、亮は推察している。だがもしかすると、京谷のその嫌悪は七星だけでなく女性全般に向けられたものかもしれなかった。彼は、水町夏深のこともあからさまに軽蔑しているのだ。
こちらから話し掛けない限り、七星が何かをいってくることはない。意識さえしなければ存在していないのと同じことなのである。だが、龍胆に並んで座る京谷の眉間には、嫌悪の証が深く残っていた。それは七星のせいなのか、もしくは自分のせいなのか、亮は判断しかねた。
「おい、連中なんか必死だったぞ。いいのか?」
亮はもういちど念を押した。龍胆は、しつこい、といわんかのように眉を寄せ、取り出した〈ラクダ〉に胸の前で火を点けた。そして天井に向かって大きく煙を吐き、ぽんぽんと腹を叩いた。
「ほっとけよ。腹へってんだ」
仲間の身より、自身の空腹のほうが問題だ。そういう姿に衒いや偽悪の痕跡はなく、残酷なほどあっけらかんとしている。その徹底した自己中心性に、失笑ではなく亮は頬を緩めた。八代春美らには可哀そうだが、龍胆は龍胆なのだから、仕方がない。
どこで何をしていたのか。龍胆は、亮を探していたのだと恨めしそうに笑った。どうやら、双方が双方を探して歩き回っていたがために、かえって出会えなかったようだ。いつもどおり、たまり場のどこかに留まっていればそんなことにはならなかったであろうのに、なぜ龍胆のほうが珍しく亮を探していたのか。訊くと、渡すものがあると歯をこぼしながらいう。
「渡すもの? 何だよ」
「まあ、たいしたもんじゃないけどな」
そういって、龍胆はとじた口の端をぴくぴくと震わせた。それは謙遜か、もったいぶっているつもりなのか。どちらにしろ下手くそで、似合わない。
よほどのものかと、期待するでもなしに邪推するが、龍胆は常のとおり手ぶらで、それらしいものを携えてはいない。京谷の傍らにそれはあった。小さな紙袋に目をやると、視線の途中で京谷と目が合った。
「ほれ。京谷」
龍胆がそのとき偉そうに顎をしゃくった。きっと振り返り、京谷は眼光鋭く龍胆をにらみつけた。無言のやり取りがあったようだが、龍胆は取り合わない。京谷は聞こえよがしに舌を打ち、そっぽを向くと乱暴に紙袋を放り投げた。
テーブルの上に二つのナイロン袋が転がった。それは携帯電話だった。
「使えよ。これでもう今日みてぇなことにはならねぇだろ」
「なんで、」と、亮は目を丸くした。
「何でもクソもおめー、なきゃこっちがめんどくせぇんだ。名義は京谷の母ちゃんになってっから、好きに使っていいらしいぞ。な」
龍胆はそういって京谷の肩に腕をまわした。ふてくされた京谷はやはり彼方を向いたままで、身を揺らすその手にも何も応えようとしなかった。
亮はテーブルの上のナイロンに手を伸ばした。
「でも、いいのか」
そして、こちらを見ない京谷にそう訊ねた。ひと言も喋らないほどに不機嫌だった理由は、これにあったのだ。龍胆に強要されたのだろうが、いわば敵のようにも考えているであろう亮のために金を使わされるなど、この男の性根が許すはずもない。
「いーよ。だって俺のもそうだしな」
確認に応じたのは龍胆だった。自身の携帯電話を取り出し、そういって笑うが、亮は、だからといってすぐに応と答えることも出来なかった。遠慮だけではない。これを受け取るのは、京谷に借りを作ることのように思われて、二の足を踏んだのだ。
「ふんっ」と京谷が鼻で哂った。足を組むと、はじめてこちらを向いた。
「別にかまわないさ。二台が三台でも、僕にとってはたいした問題じゃない。それに―」
言葉の間隙に、京谷はひとつの嘲笑を挟んだ。
「たかがケータイ一台で、貸しを作る気もないしね」
そして、いやらしく歯列を覗かせた。
粘着の笑みはまた新たな不快の理由を重ねていて、もはや腐臭すら漂う。亮はこちらを見て薄く笑う京谷とにらみ合った。屈辱に思え、とでもいいたげな幼稚な視線は、凝視に耐え暫時まとわりついた。
どうするべきかと、刹那に亮は考える。正直にいって携帯電話は欲しい。だが、受け取り、それを負い目とすれば、京谷は輪にかけて上段に立とうとするだろう。ならば、負い目など感じなければいい。簡単だ。感謝など寸分も抱かなければいい。
「そうか」と、膠着の果てに亮は努めて相好を崩した。そして溌剌といってのけた。
「じゃあ、使わせてもらうよ。ありがとう」
その言葉を受けて、目の前の薄ら笑いが凍りついた。皮肉などいらない。この局面において最も相応しいことをいえばそれでいい。それこそがつまり、今の二人の関係においては最も有用な皮肉となるからだ。
歯を隠し眉を落とした京谷は、先のふてくされた表情に戻った。あの、すねた子供のような表情だ。勝ち誇るわけではないが、こうまで思案の通りにことが運ぶと、努めるまでもなく笑えてくる。龍胆が、贈り物を受け取られて快哉の声を上げていたが、それと一緒に、亮も違う意味で笑った。




