夜へ④
「おうい亮、めし食うか?」
という大声が聞こえた。奥の部屋に引っ込んでいたエム男が、カウンターの奥から顔を覗かせていた。自分が夕食を摂るので、ついでに何か作るという。手を洗ったのかどうかが少し不安だったが、そこはエム男の残り少ない良心に賭けるとして、亮はお願いすることにした。ちょうど空腹だったのだ。食べ終えたら、それを区切りとして店を出ようと思った。
エム男の前身は調理師であるらしく、奴隷と堕ち果てるまではどこかのレストランで働いていたと聞く。元本職とあって、普段の頼りなさとは実に裏腹に小洒落たイタリアンなどを作り、そこそこに美味い。しかし「しょせんはエム男」だからと、誰もその腕前を認めようとはしない。
しばらくして皿が運ばれてきた。「キノコのクリームソース、タリオリーニでございます」という済ましたひとことに、亮はかなりむかついた。七星の前には皿は供されなかった。何を持ってきても、どうせ食べないからだ。それでどうして生きていられるのか実に不思議なのだが、この女は少しの栄養剤とカロリーしか摂取しようとしないらしい。水の入ったグラスを置いて、エム男はまた奥の部屋へと消えた。
白いプレートの上に平たいパスタが盛られてある。数種類のキノコ、厚切りのベーコン、そして見ただけで濃厚とわかるクリームソースにからめられて、それはまろやかな芳香と共にゆらゆらと湯気を立てていた。実に癪だが、悔しいが、美味そうだ。
喉の鳴りに任せて、亮はひと口を頬張った。歯ごたえのあるパスタは、噛むたびクリームソースと混ざり合って口内を広がる。キノコのシャキシャキとした歯ざわり、ベーコンの強い旨味がアクセントとなって、次のひと口を誘う。実に腹が立つが、認めたくないが、美味い。
三本目のタバコを吸う七星をよそに、亮は忙しなくフォークを動かした。飲み物が欲しくなり、カウンターへ立ってグラスに水を注いだ。半分ほど、流し込むかのような勢いで食べ終えた頃、遠い背後に扉の開く音があった。
もしや龍胆かと、亮は皿とフォークを持ったまま中腰になって振り返った。しかし、パーティションの向こう、出入り口にて立ち止まったのは、水町夏深だった。
振り返ったのが亮であることに気づいて、水町夏深はやはり表情を険しくした。眉を寄せ、口を尖らせて、重なっていた視線も無情に逸らされてしまった。そのままの姿勢で、亮は口に含んだパスタを飲み込んだ。ごくりと、やけに緊迫した音が喉の奥に鳴った。
さて、どうしたものか。亮はソファに腰を下ろし、とりあえず次の一口を運ぶ。とそこで、ひょいと水町夏深が顔を覗かせた。パーティションから顔だけを出し、本当に覗き込んだのだ。龍胆がこの席にいるかどうかを確かめに来たのだろう。それが証拠に、七星と亮の姿しかないことを見て取った水町夏深は、即座に顔を引っ込めた。そして、かぽかぽとサボの足音を鳴らしながら、出入り口へと引き返していった。
しかしそこで足音がとまり、扉の開く音はしなかった。覗いてみると、出入り口の前に立ち止まって、下を向いて、何やら逡巡している。おそらく彼女も亮と同様に、散々龍胆を探し回ってこの店に辿り着いたのだろう。ところがそこには、嫌な男と変な女しか居なかった。龍胆には会いたいが、この店で待つのは嫌だ、でももう行く当てがない、どうしよう、といったところだろうか。
亮はその後ろ姿を眺めながら、ため息をついた。さして親しくしたいわけではないとはいえ、こうまで嫌われてはさすがに悲しくなってくる。しかし、水町夏深にも見つからないとなると、龍胆はいったいどこで何をしているのだろうか? ふと亮が考えているうちに、決心をつけたのか、水町夏深は顔を上げた。だが扉を開けることはなく、といってこちらに向かうこともなく、出入り口のすぐ近く、つまりは亮から最も離れたところのソファに、水町夏深は腰を降ろした。どっちつかずの撰択である。そして亮にとっては、泣き笑いしたくなるような撰択だった。
気を取り直して、というわけでもないが、亮は再びパスタをつついた。ひと口を頬張るが、まろやかだったクリームソースがやけにベタついて感じられ、急に不味くなったような気がした。それもそうだ。どうせエム男が作ったものなのだからと、亮は解釈した。
「なあに、ふられたの?」
突拍子もなく、七星がいった。亮は口に含んだパスタを吐き出しそうになった。
何も見ていない、何も聞いていないような顔をしておいて、何なのだこの女は。亮は、目を伏せあらぬところを見つめている七星をにらみながら、ひとつの間を置いて、グラスを手に取った。無論、水の入ったほうだ。
「誰が、誰にですか?」
亮は答えた。そうなのだ。振られるも何も、その前提となるものが何もないではないか。よって動じる必要はない。などと亮は自分に言い聞かせた。と同時に、ならば何故それを言い聞かせる必要があるのか、という茫漠とした疑問が、不思議と高まった鼓動と共に胸中にあった。
はすを見つめ、目を伏せたまま、七星はやはりわからないことをいった。
「あらいいのよ、それで。それが真っ直ぐなものなら、今は我の欲するところに従うべきだわ。それは穴を埋める作業とは違うもの。今はただ旗を振り続けていればいい」
そうして煙を吐き、満足そうに口元を緩めた。
何が満足か、まったく会話になっていないじゃないか。いらだった亮は、フォークを放り下を向いた。しかしまたしても、不可解なはずの七星の言葉は脳裏を離れようとせず、思惟をいざなった。
女性について、実はそれがよくわからない。自らがそれにどう向き合っているかが、である。
中学も三年になれば、自然と色恋に目が移る。それくらいは常識のひとつとして知っている。しかしどういうわけか、亮にはつとに聞くようながむしゃらな欲望が生まれたことが今までに一度もなかった。無論、性に対しての関心はある。そういう欲望はある。だが、それはいわば「肉」を求める欲望であって、特定の誰かを欲する願望ではない。誰かに恋をするということ。それがよくわからない。
男子校に通い、同世代の女性との接触が限られているからだろうか。考えられないではないが、いわゆる初恋とかいうものが小学生の頃であっても珍しいことではないのだ。そしてその頃は男女共学だった。だがその頃の亮は、自らを高めることにしか興味がなかった。
恋というものに関心がないわけではない。しょっちゅう考えているようなことはもちろんないが、確かに心のうちのどこかにそれは潜んでいて、何らかの刺激を受けたときなどには強く意識してしまう。避けたいとも思っていないし、自らが恋とかいうものをしている姿を想像してみても、さほどの違和感や嫌悪感があることもない。「いつかはするんだろうなあ」ぐらいに考えて、何の判断も下さず時を経てきたが、ついぞその機会に見えることなく今に至ってしまった。つまりは、何の抑圧も歪みもなく、恋とかいうものを知らずに生きてきたのだ。亮自身にとってはそれはまったく自然なことなのだが、常識に照らしてみるに、どこかおかしいのかもしれない。
用便を足そうと、亮はソファを立った。この席は最奥に位置しているので、その扉は目の前に見えている。扉を開け、薄明かりの化粧室に踏み入りながらも、亮は考えていた。ならば今、得ることのなかったその機会に恵まれたのだろうか? 自分は、水町夏深に魅力を感じているのだろうか?
小便器に向かいながら、亮は心中にて激しく頭を振った。それは考えられない。自分は彼女を龍胆の女としてしか見ていない、それに、あんな情緒不安定な女は御免だ、と。
化粧室を出ると、その格好で自然と出入り口の辺りを見渡した。パーティションの陰にあってその姿は見えないが、そういえば、当の本人がそこに居るのだ。
思惟に深く潜っていた亮は、眼光を取り戻し、そこでひとつの意を決した。確かめればいい。
水町夏深の鋭い視線に気づいて不安が胸中を満たすのは、単に人に嫌われていることが気分に障っているだけだ。その表情を目の前で暗くされて胸に何らかの感触が走るのは、誤解を放置していることが気持ち悪いからだ。ならばその誤解を解けばいい。すれば、何の動揺もなくなるはずだ、と。
元いた席に戻らず、亮は出入り口のほうへと歩いた。途中、何故か自分が足音を忍ばせていることに気がついて、それからはかえって強く踏み鳴らした。
止まった足音に気づき、水町夏深はこちらを向いた。重なった視線を何故か逸らそうとせず、その大きな瞳で、しばらくのあいだこちらをにらみつけた。
「座るぞ」
と対面の席を指してみたが、音沙汰がない。頭をかきながら、亮は腰を下ろした。そうして向かい合っては見たものの、話頭を開くことは出来ず、黙りこくってしまった。妙な緊張感とそして沈黙が、ひとつの空間を滞留した。
水町夏深は前を向いている。しかしその視線は亮を捉えてはいなかった。それが努めて亮の存在を意識していないことを強調した素振りであることは、どことなく感じられる姿勢のぎこちなさから見て取れた。そしておそらくは、亮自身も同じようにぎこちない顔をしていたに違いなかった。
黙っていてはらちが明かない。これでは何をしに来たのかわからない。焦りに絆された亮は、背を押されたように身を乗り出した。そして半ば無理やりに、声を絞り出した。
「今日は、」という沈黙を破るひと言に、水町夏深の身体がぴくんと反応した。
「今日は龍胆と一緒じゃないのか? みんな探してたみたいだけど。何かあったみたいなんだ。知ってるか?」
返答はなかった。水町夏深は少しうつむき加減に下を向くと、背もたれに深くもたれかかった。反応はあるにはあったが、それは更なる拒絶の強調だったようだ。
亮は嘆息した。素直に謝ろうか、などと考えた。しかしすぐに、何を謝ることがあるか、と思い直し、ひらきかけた口を結んだ。もう、単刀直入にいうしかない。
「あのさ、」
という亮の声がやたらと神妙なものだったためか、水町夏深は長い睫毛を動かしてこちらを向いた。
「俺は別に、龍胆の命を狙うヒットマンってなわけじゃないんだよ。もちろんあんたの邪魔をするつもりもない。いい加減やめてくれないか、そういうの。はっきり言って気分が悪い」
「どっちが、」
恨めしそうにつぶやき、水町夏深はまたそっぽを向いた。
「俺に責められる謂れはない」
「じゃあ何であんなことしたのよっ!」
と突然に、水町夏深はテーブルを叩かんばかりに声を荒げた。何の前触れもなかったので、少々面食らうほどの剣幕だった。
この少女は、いつもこのように感情のブレが激しいのだ。さっき泣いていたのに気づくと笑っているといった、幼児のようなところがある。龍胆にもそんな傾向が強いので、二人がそろって黙っていると、まず現在の機嫌はどうなのかを確かめなければならない、そんな腫れ物を前にしたような気後れを周囲の人間に抱かせる。慣れたグループの者ですらそうなのだから、ある程度予想をしていたとはいえ、突然の激昂に亮は暫時絶句してしまった。
あんなこと、というのは、むろん公園での一件のことだろう。
実は、グループとかかわるようになってからこれまで、何故あんなことをしたのかなどと、理由を訊かれたことは一度もなかった。それは、あんな喧嘩沙汰は彼らにとっては日常茶飯事の出来事で、あえて訊くほどのことでもなかったからか、あるいは、屋上で自らが殴り倒したのが亮であったと気づいた龍胆が、あれは報復であったのだと皆に説明したからだろうと亮は考えていた。しかし眼前の激昂を見るに、少なくとも水町夏深は何も知らないようだ。
「そう、それなんだけど、あんたは誤解してるんだ」
と甲斐甲斐しく穏やかに努めた亮だったが、「なにを!」とすぐさま、その努力は邪険に跳ね返された。
「あれは仕返しだったんだよ。前の日に俺はこっぴどくやられてるんだ。何の理由もなく。それならしょうがないだろう? 正当な報復だ。だいたい、あのときも俺はぼろぼろに負けてたじゃないか」
頬に拳骨を当て、亮は自嘲して笑った。水町夏深は口を尖らせたまま視線を脇に逸らし、何かを思い出すような素振りを見せた。
「うそ。そんなこと言ってなかったもん」
「真っ暗で、俺の顔は見えてなかったんだよ。俺には見えたけど。今度訊いてみろ。六つ又の近くの、ビルの屋上だ。ハーモニカを吹いてた。それで訊いたら、何でかボコボコにされた。それが俺だったんだ」
「ほら、やっぱりうそだ」
水町夏深は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「それか、人違い。あいつハーモニカなんて持ってないもん」
「えっ?」
と、その言葉に亮は思わず間抜け面をさらした。人違いではない。あれが龍胆であることに、いまさら疑いの余地はない。あんな人間が二人と存在していてはたまらないではないか。そうではなく、
「知らないのか?」
確かに、あれから龍胆がハーモニカを吹いているところは見ていないが、水町夏深が知らないとは想像していなかった。彼女は誰よりも親密であるはずなのだ。
亮の態度が演技や勘違いによるところのものではないことを悟ったのか、水町夏深は言葉をなくし、丸い瞳をもっと丸くして間抜け面と向かい合った。しかしすぐさま思い出したように弾けて、今度は本当にテーブルを叩いた。
「知らないんじゃないの! 人違いなの!」
それが少々強引に過ぎる断言であることを自覚してか、叫んでなお、水町夏深は頬を膨れさせている。こと龍胆を知るにおいて誰かに上まわれたことが、誇りを傷つけたのだろう。そんなつもりではなかったと手の平を振り、亮は子をあやすような声を出した。
「そうか、誰にも秘密だったんだなあ。それを聞いちまったから怒ったんだ。なんだあ、そうかそうか」
ひょっとすると、本当にそうなのかもしれない。いいながらふとそう思ったが、その言葉はあやすことに目的を置いたものだ。しかしそれは果たせず、かえって感情を逆撫でしたようだ。
「ひとちがいっ!」
もはや亮をにらむこともせず、今にも手足を振り回さんかのようである。その姿を見ながら、亮はひそかに、
(うわぁ)
と眉をひそめた。まだ中学生とはいえもう子供ともいい切られない年齢であるのに、はっきりいってはしたない。どうしたものかと、可哀そうな子を見るように見ていると、やおら、水町夏深はきっと顔を上げた。
「あやまってよね!」
謝る? 誰に? 龍胆に?
「いや、だから五分五分だからさ、それに負けたのは俺で―」
「あやまって! じゃないと仲直りなんかしないからね!」
仲直り? 誰と? え、あんたと?
「いや、仲直りも何も、そもそも誤解があって―」
などと、亮は不覚にもあやすことを忘れ、冷静に対応してしまった。すると言葉を遮って、「もうっ!」と水町夏深はテーブルを叩いて左右に頭を振った。
小脇に置いたバッグを掴み取り、チューブトップの裾をたくし上げながら、ソファを立つ。柔らかい頬を硬くして、水町夏深は亮を見下ろした。
「ばいばい!」
なぜ律儀に挨拶をするのか? 冷静に疑問を抱いた亮をよそに、水町夏深はきびすを返し段を降りた。拍子に、サボの厚底を引っ掛け、床の上にずでんと転がってしまった。パンツが丸見えだ。すぐに立ち上がったが、その怒り収まらず、バッグを振り上げると「もう!」とまた叫んでソファの肩にぶつけた。そして出入り口に向かい、渾身の力を込めて扉を押したようだが、重い防音扉は願いを裏切ってひどくゆっくりと閉まった。そうして、店内に静寂が還った。
亮は、あいた口が塞がらなかった。
何の比喩でもなく、本当にそうだった。
突然に癇癪を起こし、何だか知らない間に立ち去られてしまった。それは、凶暴な龍胆のそれとはまた異質の、まるで嵐のようだった。手足を振り回し、方々で人の尻にぶつかり、それでいて自らが被害者であるかのように泣き喚く、滑稽な嵐。こういうと龍胆は怒るだろうが、お似合いだ。実にお似合いだ。
別の空間かと思いたくなるほどに、店内が静まり返っている。亮は出入り口を向いていた首を戻し、頬を引きつらせたまま、ひとり小さく笑った。彼女のいう「仲直り」は失敗に終わったようだが、他方で当初の目的は成就していた。やはり、先だっての懸念は杞憂に過ぎなかった。あんな女に、恋とかいうものを、してたまるか。
七星もエム男も騒ぎには慣れたもので、やり取りは届いていたであろうのに、今もって何の反応も寄越さない。ひとりソファに取り残される形になって、亮は少し所作に悩んだ。あげく、もう帰ろうかと腰を上げた。
そのまま店を出てもいいのだが、それは性分が許さない。亮は七星の居る最奥の席に向かった。相手はまともな人間ではないが、礼節は守りたいのだ。エム男はちなみにどうでもいい。
「あの、もう帰ります」
パーティションから顔を出し、亮は挨拶を述べた。すると、七星は珍しく真っ直ぐにこちらを向いた。
「残念ね。もう終わり?」
そういって、七星は口元に手を当てた。この女は、どんなにおかしくとも声を出したり腹を抱えたりするようなことはない。それなのに口を押さえて見せたのは、笑いを堪えている、ということを強調して見せるためだろう。やはり、先ほどのやり取りは逃さず聞かれていたようだ。
まったく、正体定かなのか、不明にしているのか、はっきりして欲しい。またも小馬鹿にされたような印象だったが、しかし不思議と腹は立たなかった。どころか、最前の滑稽な寸劇を振り返り、七星と共に、亮は笑った。
あんな女、とはいうが、悪印象を抱いたわけではない。むしろ、思い出すだに微笑ましい。敵意や嫉妬が和むのは、そして「仲直り」とやらがいつになるのかはわからないが、そんな関係も面白い。とりあえず、妙な悪寒や不安に苛まれることはなくなるだろう。




