夜へ
その店は東御毛沼のはずれ、オフィスビル群の端の端に、ぽつねんとある。
高層のビルの並びの中で、その一画だけがへこんでいる。一階には常に閉じられたままのシャッター、二階、三階には窓がひとつきりあるのみで、どういった建物なのか、何のためにそこにあるのかもわからない。二階にその店があるのだが、出入り口は道に面したところにはなく、路地へ入った裏側に、そこに続く階段がある。看板のひとつすら出ていないので、あらかじめ知っていなければまず辿り着くことができない店だ。
店、としかいいようがない。バーなのか、クラブと呼ぶべきなのか、よくわからない。
けたたましく音楽の鳴っていることもあるが、まったく静かなこともある。何より常に人が少ないので、クラブというものの雰囲気にはそぐわない。酒も軽食も頼めば出てくるが、そのどちらにも特化しているわけではなく、人を落ち着かせようとしないその怪しい雰囲気が、バーという名に似つかわしくない。加えていえば、居酒屋のように愛想のいい店員もいなければ、接客に当たる女性がいるわけでもない。だが「店」なのだ。出入り口付近にあるレジスターが辛うじてそれを証明している。名を「デルフィ」という。
重い防音扉を開くと、まず空気が変わったことに気づく。出入り口にはまったく照明がなく、親切なことに「ここはどこかおかしい」と教えてくれる。
真っ暗な廊下を出ると、客席のあるフロアーがある。わずかな光量の照明が五、六席ほどのソファ席を照らし、たいていは、耳をつんざく音楽がどこからか鳴り響いている。カウンターテーブルの前には四つほどの丸椅子しか置かれておらず、小さなキッチンには、きれいなグラスが並んでいることもない。あとは、控え室らしき場所へ通ずる扉と、兼用のトイレ。たったそれだけの小さな店だ。装飾らしき装飾のひとつもない、コンクリートも床板もむき出しの、殺風景な店だ。
まだ数回しか来たことはないが、店内が客で賑わっていることなど一度もなかった。それどころか、時間帯の浅さもあるのだろうが、見知った顔以外の客を見かけたことすら一度もなかった。
誰かと連れ立って、真っ暗な入り口を入る。何の声も姿もなく、ただ音楽だけがうるさい。二メーター四方ほどのテーブルを囲うソファ席は、それぞれが人の座高ほどの高さのパーティションで仕切られてあり、入り口の方から見ても、そこにいる人の姿を認めることはできない。だから、真ん中の通路を歩きながら、その一つ一つを覗いていく。ところがほとんど人がいることはない。ただ、客席の最奥、奥まって最も人の目に付かないところのソファに、いつも決まって一人の女が座っていた。
七星と皆は呼ぶ。どう見ても二十歳そこそこなのだが、この店のオーナーであるらしい。だが、その態度や風貌は、オーナーというよりも、この怪しい店の住人としてのほうが相応しかった。
長い髪は見る度にスタイルが違う。色も頻繁に変わるが、ウィッグではないらしい。いつもタイトな上下に身を包み、少ない明かりを露出の多い肌が妖しく反射する。厚い口唇に、豊かな頬。猫のそれのような瞳は、いつも半分とじられている。妖艶な姿と幼い顔とのアンバランスさは、この女の妖しさをいっそうに際立たせていた。
そしてその指先には、いつも何かが握られていた。それはタバコか、あるいは、ドラッグ。
紫煙を吐く妙な形状のパイプを認めて、あれは何かと問うたとき、返ってきた答えには驚かされた。巷に聞くそれらのものを常用している人間を見るのは初めてのことだった。息よりも、煙を吐いている量のほうが多い。何故と訊くと、女はこう答える。
「あなたと同じ空気なんて吸っていたくない。よくそう言うでしょう。あたしは、人類と同じ空気を吸っていたくないの」
そして、妖しく微笑む。
七星という通り名も、左手の甲に北斗七星をモチーフにしたタトゥーがあること、そして、いつも吸っているタバコの銘柄が〈七つ星〉であることから、誰かが戯れに呼び始めたもので、本名は誰も知らない。さらには、何故その若さで一軒の店を持てたのか、何故このような経営が維持できているのか、考えれば不思議なことは山とある。
その身をまとう厭世観、世捨て人のような振る舞い、リリカルな物言い。さして長くもないはずの人生に、いったい何があったればこのような人間が出来上がるのかと、誰もが内心で不思議に思っていたが、誰もが想像することも出来ずにいた。
謎の女の住む、怪しい店。いつからそこにあったのか、誰も知らない。少年らは夜ごとその場所に集う。名はデルフィ。




