赤い春⑫
亮は、静かにいった。
「会わせてくれよ、あいつに」
京谷実は、不審と猜疑が絡み合ったような目で、しばらく黙って亮を見ていた。
「わかった。今日でいいんだな?」
顔にできたあざについて、何か訊かれることを亮は覚悟していた。幸い、最初の二発以外は顔を打たれずにすんだので、人目につく外傷は少なかった。右目のふちの変色も僅かなものだったので、あるいは、暴行以外の何かに原因を誤魔化しきれるかもしれない。そう考えていたのだが、京谷実は余計なことを訊かなかった。邪推の上でそうしたのかもしれないが、亮はそんなことはどうでもよかった。
用がある、とのことで、京谷実はまたも場所と時間を指定した。何の用かと亮は尋ねた。おそらく塾か何かなのだろうが、妙な虚栄のためか、京谷実は答えをはぐらかして教室を去った。
御毛沼駅に着き、コインロッカーにバックパックを放り込むと、亮はすぐさま指定の場所に向かった。約束の刻限まではまだ三時間近くあったが、亮は待つことを厭わなかった。すでにある激情によって満たされた心中に、新たな苛立ちの生まれる余地などはなかったのだ。いつものように街をさまよう気にもならなかった。
昨夜と同じ、東口の本屋の角。亮はそこから少し離れて、歩道橋の階段に腰を下ろした。そしてそれからゆうに二時間以上、その場を動かなかった。その間に、何を考えていたのか? 確かに何かを考えていた。しかしそれは、思考と呼ぶにはやや覚束ない、ひとつの決意の繰り返しでしかなかった。
昨夜、亮はほとんど眠らなかった。心はそれを求めもしなかった。しかし今に至って、疲労が亮を襲うことはなかった。もしかすると、いまだ残る体中の痛みが、それを打ち消していただけなのかもしれない。もしくは、心中を満たすある激情が、頑なにそれを認めようとしなかっただけなのかもしれない。
歩道橋の袂、無数に並べられた自転車の群れの辺りを、見るともなく見つめながら、呪うように凝視しながら、亮はそのときを待ち続けた。
震える口唇は強くかみ締めた。何かを掴まずにはいられない両の手は、顔の前で固く握り合わせた。体中、いたるところの筋肉が、痙攣のような細動を繰り返した。何もしていないのに汗をかいた。血液の流れる音が聞こえてくるようだった。京谷実が現れるまで、それらはひとしく続いた。
「さあね。まだわからないよ」
京谷実は昨夜と同じように、何かを誤解した、勝ち誇った笑みを携えて現れた。どこにいるのかと問うた亮にそう答えると、携帯電話を取り出し、荒い口調で何かやり取りをした。電話を切ると、伸ばしたままのアンテナで道の一方を指し、にやりと無言で笑った。
「すぐそこらしい。やはり、昨日の連中と一緒だ」
道中、人波を掻き分けながら、京谷実はたびたび亮を振り返った。堪え切れない、といった様子で繰り出された問いは、自らの勝利に酔ってか、声が上ずっていた。
「なぜ来る気になった?」「なぜ考え直した?」「いいや、何も言うまいよ」
たびたび振り返りばら撒かれるその笑みには、心底にて「やはり自分が正しかった」と小躍りする子供の姿が見え隠れしていたが、亮は特に何も思わず、先導について歩いた。口数が少ないのを、敗北を自覚し落ち込んでいるからと解釈したのだろう。京谷実は満足な返答のないのをかえって喜んだ様子で、揚々と歩を進めた。付き従う寡黙な少年が、自分とはまったく違う目的の成就を目前に、心中、今までにない昂ぶりを燃え上がらせていることを、皆目知りもせずに。
東口の大通りの筋を一本裏へ入ったところに、霊園がある。そこに小さな公園が隣接している。京谷実は、銀行の角を曲がりその入り口を指差した。
「ここにいる。もうすぐだよ」
自らに聞かせるようにそういって、京谷実は入り口の車止めをまたいだ。
この公園には、亮は来たことがない。入り口を行き、並木の道を曲がると、中央の広場に小さな噴水があった。それを囲うように、煌々と輝く照明塔が建っている。公園とあって空の視界は開け、立ち木の葉越しに、この街のランドマークである超高層ビルの姿も見える。
亮は周囲を見回した。幾つかの人の集まりがあるが、その中にはいない。きょろきょろと辺りを見渡していた京谷実が同じ感想を漏らした。それほど広い公園ではないが、木々によって死角も多く、一望に出来るわけでもない。
フォークギターをかき鳴らす音が聞こえる。情感を込めたつもりであろう歌声は、ひどくすっとんきょうなものに聞こえる。枝に吊るされたブルーシートを横切り、ダンボールハウスを通り過ぎる。
足早に歩を進めながら、あるとき、亮はシャツの胸の辺りを掴んだ。プラスチックのボタンが千切れんばかりに、爪を立てた。息が苦しく、口を閉じていられない。まるで横隔膜が波打っているかのように、胸の底を高く強く血流が叩いている。まだ、姿は見えない。しかし確かにここにいるのだ。はちきれそうなある激情が、繰り返しドアを叩きながら、叫んでいた。早く、一秒でも早く、今すぐに…!
「―いた」
という小さな呟きが、亮の呼吸を止めた。瞬間、ある激情は振り上げる拳を止め、ゆっくりとノブに手を掛けた。
準備を終えて、噴出を待つ態勢に至ったのだ。嘘のように、全身の興奮が引いて行くのがわかる。体中が冷たくなっていくかのように、大津波の寸前の、引き潮のように。
「こういうときだけは役に立つんだ、あいつは」
京谷実がいった。その視線の先には、例の巨漢がいた。こちらに背を向けて、身振り手振りを交えながら、なにやら大声で笑っている。
京谷実の背に従い、歩いていく。そのとき、葉群の影から、それが姿を現した。
その瞬間に、亮の鼓動が高く弾けることはなかった。ただ、その瞬間を起点として、それはだんだんと速まっていった。亮は口をひらいた。今度は呼吸のためではない。頬の筋肉に吊り上げられたのだ。頬を持ち上げ、目を細め、歯をこぼして、亮は笑っていた。その笑みは、昨夜、屋上で見せたそれのように不自然なものではなく、理由のわからぬものでもなかった。あるものを視界に捉えて湧き上がった感情が、ごく自然に、当たり前にそうさせたのだ。その感情とは、喜びだった。それもあえていえば、狂喜だった。
植え込みのレンガのふちに、「龍胆」は腰掛けている。それを取り囲むように、巨漢を含めた四、五人の少年が並んでおり、すぐとなりには、一人の少女がはべるように寄り添っていた。昨夜見たとき無表情だった目は、うって変わって、対話の中心へと向けられながら、無邪気に輝いていた。
「よお、京谷銀行」
手をあげて声を掛けた京谷実に、それと認めた「龍胆」がそういった。すぐさま、となりの少女が「龍胆」の二の腕を叩きながら何かをいった。
「誰? ガッコのお友達か?」
亮を一瞥し、「龍胆」がいった。その指は亮の制服を差しているが、顔は京谷実を向いている。そういう声は、何かを揶揄するような、人をからかった口調だったが、京谷実は変わらずの上機嫌で答えた。
「ああ、そうだ。紹介しようと思ってね」
しかし、その言葉の続きは断ち切られた。亮が断ったのだ。
京谷実の肩を押しのけ、亮は「龍胆」の眼前まで歩んだ。一歩の距離で立ち止まると、背後から、おい、という京谷実の声が聞こえた。しかしそれに構うことなく、亮は初めて明るみの元で目にする「龍胆」を、満面の笑みのまま、何もいわずに見下ろした。
少女の視線が、視界の隅に感じられる。脇の少年の一人が、静かに立ち上がった。「龍胆」は眉ひとつ動かさず、半分笑ったような表情と声で、こういった。
「何だ、オマエ」
そのとき、亮は、激情を開放した―
昨夜あの屋上で生まれ、夜空に向かい絶えず放射し続けた、ある感情。
ベッドの上で、悶々と亮を眠らせなかった、ある激情。
いうまでもなく、それは怒りだった。
ただし、それは「龍胆」へ向けられたものではなかった。他ならず、自分自身へと向けた憤怒であったのだ。
昨夜の一件は、いったい何だったのか。そんなことはどうでもよかった。なぜ殴られなければならなかったのか、何故あれほどやられなければならなかったのか。それは確かに不条理な出来事だったのだが、亮の心中には、「龍胆」への憤りや憎しみは生まれなかった。いや、生まれたのかもしれないが、それを覆い尽くすほどの己への怒りが、持続することを許さなかったのだ。
自分が許せなかった。敗北した己を許したくなかった。
何が起こったのか、それはわからない。とにかく、ことの起こる前から、亮はすでに負けていたのだ。思わぬ邂逅に動転した心は、「龍胆」の存在に、すでに気圧されていた。すでに恐怖を抱いていた。
一撃のあと、なぜ反撃しなかったのか? なぜ許しを乞うたのか? 何故ただただ終息を願ったのか? なぜ心を折った、なぜ地に伏した、なぜ意志を曲げた、なぜ敗北に甘んじたのだ! そんな自分には、打ち克たなければならない!
「暴風」に干渉できるのが、それに勝る暴風だけならば、「龍胆」を前に、自らもそれと化せばいい。…荒れ狂え、吹きすさべ、昨夜恐怖した「龍胆」を地に堕とし、何より、心を折った己を吹き飛ばせ…!
―「龍胆」の顔面を打った右の拳が、妙に痛んだ。まるでそこが心臓であるかのように、ずきずき、じんじんと、鼓動に伴った痛みが、いつまでもやまなかった。
狂った暴風と化した亮に、「龍胆」はすぐさま反撃に出た。加えて、周りにいた少年たちが次々に飛び掛ってきた。四方八方から腕が伸び、足が届き、怒声を浴び、真っ向から反撃にあいながらも、亮は執拗に「龍胆」だけを狙って、痛み続ける拳を振りかざした。
殴り、殴られ蹴られ、掴み、掴まれ引きずられ、それでも笑いながら、血飛沫の中、亮は思っていた。いま、何かが始まったと、そう思った。
次章、『夜へ』




