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PAN  作者: hkdyksry
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赤い春⑪

 さまざまな色の、光が見える。

 赤、白、青、緑、黄、紫、橙、…。闇の黒も、それと呼べるだろうか。強く輝くもの、消え入りそうにぼやけたもの、瞬くもの、流れるもの、旋回するもの、上下するもの。

 あの光のすべてを一箇所に集めたら、どんな風に見えるのだろう。ふと、亮は考えた。絵の具を混ぜたように、どす黒い不気味な光へと変わるのだろうか。それともまったく違う何かに見えるのだろうか。

 空き缶を蹴り転がしたような音が、足下、遠くに聞こえた。亮は身を乗り出して下を向いた。

 街灯の明かりの下に、ライトバンが停まっている。通行人がくゆらすタバコがまた違う色の光を放っていた。まだ夜も浅いが、街はずれとあって周囲は騒がしくなく、七、八階の高さにいても空き缶の悲鳴は明瞭に届いた。

 古い建物だからなのか、それとも怪しいテナントでも入っているからなのか、徘徊の徒然に目についた雑居ビルは、何のセキュリティーも施されておらず、エレベーターも動いていた。表札板を見ると、なんとか会計事務所、といった類の名札が幾つかの空白を挟んで並んでいた。上階へ上がって、人に出くわしたらどうしよう。ぼんやりとそんな不安を抱きながらも、どうしても家へ帰る気になれなかった亮は、最上階のボタンを押した。薄暗い廊下を行くと、汚れた壁と赤錆た扉の間に、更なる上階へ向かう階段があった。まさかと思いながら、踊り場のドアのノブをひねると、あっさりと開いた。そしてそこに、亮の求めていたものがあった。

 静寂。

 そして暗闇。屋上にはひとつの照明もなく、届くといえば街明かりの反照のみで、たとえ足元に何かが落ちていたとしても気づけないほどに、暗い。四方を囲む鉄柵が、ただでさえ心許ない街明かりをさらに遮っていた。

 亮は一辺の柵に向かい、手すりを指でなぞってみた。ざらついた汚れは見えずともわかった。まあいいか。小さく表情だけで笑いながら、亮は汚れたその鉄柵に頬杖をついた。

 そうして、今も考えている。

 正面の視界には、並んで立つビルの腹がある。辺りは住宅が多いようで、脇へ視線を逸らせば、東御毛沼の遠望も目に映る。そしてどこを向いても、無限の色の光の粒が、小さく蠢いていた。

 しかし亮はそれを見るとも見ない。ただ、闇の空中に垂れ幕のようにこびりついたそのテーゼを見つめながら、口唇をかんでいた。

「自由とは、倫理や法を超えたところにしか存在しない」

 まずは否定してみる。理由は取り立ててないし、必要ない。直感がまずはそういっている。しかし、そもそも亮の中に、「自由」というものは一体どのようなものなのか、その正体がないのだから、理由と同様に根拠もなく、否定は直感の位置から進まない。

「自由」というものを、字義の通りに解釈するならば、あるいはそのテーゼは正しいのかもしれない。

 亮は、人の欲望は必ずぶつかり合うものだと知っている。ある者の欲望は、必ずある者の欲望と衝突する。すべての欲望を叶えている者などおそらく存在しないだろう。誰もが億万長者になれるわけはないし、誰しもの恋が必ず実るはずもない。欲しいものへ手を伸ばしても、それが誰かのものである限りは、両者の欲望が競合することになる。そして、この世に誰の物でもないものなど幾らもないだろう。銀行の金は銀行と預金者のものであるし、意中の女はその女自身のものだ。山河や海ですら、法律上はどこかに属している。

 だから、術と実力を持つ者の中には、欲しいものは奪ってしまえばいいと企てる者も現れる。その実行を防ぐために、また制裁のために、人々は倫理を醸成し、法を作った。人の間で生きる限りは守らなければならないその戒めは、つまりは、「縛り」なのだ。すべての人々の為に、すべての人々を縛り付ける、くさび。

 何かに縛られてあるならば、それはもはや自由とは呼べない。とすると、自由を得る為には、倫理や法の枠内を脱さなければならないことになる。つまり、先のテーゼは正しいということになる。

 しかし、本当にそうだろうか。

 頬杖の上で、亮は虚ろだった視線を尖らせた。

 人が自ら法を守ることを撰ぶのは、それを破った者には制裁が待ち受けているからだ。法を守らない者は、法に守られないことも覚悟しなければならない。すれば、自由のあとには、必ず何らかの不自由がもたらされるということになる。制裁から逃れ続けることは難しいであろうし、そもそも、逃げなければならない、という行動の限定化が、すでに自由を意味していないからだ。

 ということは、自由とはほんのいっときしか得られないものだということなのだろうか。だから貴重なのだ、と考えることも出来るだろうが、しかし、古今に渡って人々が求め続けているものが、亮自身も求めている「自由」というものが、本当にそんな空虚なものなのだろうか?

 何かが違う気がする。

 亮は両手で手すりを掴んだ。背を逸らし、伸びをして、街の天頂を仰ぐ。

 雲なのか、大気の汚れなのか、いまひとつわからない。闇の中におぼろげな輪郭を与えられた何かが、いくつも混ざり合いながら、ひどくゆっくりと、のたうっている。その合間には、弱々しい輝きしか持たない、星という名にふさわしくない星が、小さく揺れていた。

 きっと何かが違う。

 しかし何が間違っているのか、よくわからない。

 夜空を仰ぎいま目にしているものが、亮は、自分の心に似ている、と思った。何かが流動している。しかしそれはおぼろげで、薄く、もどかしい。何が蠢いているのか、それすらもわからないまま、ただ茫漠とした違和感のみが、胸中にある。―探せば見つかるのだろうか? ひどく弱々しい、しかし確かにそれと呼べるだけの、光。

 亮は深く息を吸い込んだ。一気に吐き出すが、期待したようには違和感は晴れなかった。

 ポケットに手を入れると、何かの紙片が指に触れた。コンビニのレシートだった。いつ受け取ったものなのか、判然としない。亮は紙片を握り、中空へ放り投げようとしたが、振り上げた腕を止め、少し考えて、丸まった紙片をひらいて、それから放った。白く小さいものは、意外に速く、風に乗らずに街へ落ちていった。身を乗り出して見たが、その行き先はわからなかった。

 それにしても、と亮は考える。京谷実と比べて、

(何なんだ、俺は)

亮は京谷実を軽蔑していた。これまでも、自覚するかしないかは別としておそらくはそうだったが、昨日今日と接触を持って、自身の中に起こるその感情を亮ははっきりと認めることが出来た。

 しかし、静寂に還り、翻ってみるに、亮はそんな自分を今は憎らしく思う。

 倣岸、驕慢、幼稚、滑稽、矛盾。目にした京谷実のそれらを、間違っていたとは考えていない。一般に見れば、彼はやはり軽蔑に値する人間だと思う。しかし、それらの欠点を、自分は持っていないと、言い切られるだろうか?

(そうだ。人を見下しているのは、俺も同じじゃないのか。自覚がないのなら、それだけ悪い。腹が立つのは、自分を見ているようで、内心で嫌だったからじゃないのか?)

それに、京谷実は亮と違い「こたえ」を出している。別れ際、叫ぶようにくれたあのテーゼ。それが正しいかどうかはともかくとして、彼は自らに解答を下し、そしてそれに従って行動しようとしている。行動しているのだ。

 それに比べて、自分はどうなのか。亮は眉根を寄せて中空をにらみつけた。

 悶々と悩み続け、くすぶり続け、すべてに苛立ちを覚えながら、ただ何もない日々を費やしている。「こたえ」など何もない。何もしていないし、しようともしていない。真実は遠いところにあるものだと、むやみに足踏みし続ける自身を誤魔化して、そのくせ、自分は他とは違うのだと、只者ではないのだと、心の片隅で、あるいは中心で、確実に思い込んでいる。

 そんな自分が、どうして人を馬鹿に出来ようか。

 亮は震える口唇をかみ締めた。叫びだしたい情動を、下を向いて堪えた。

 亮は、欲しい。掻き毟るほど、握り潰すほど、欲しい。

「こたえ」が、進むべき道が、至るべき目的が、欲しい。

 何か、行動をしなければ、何か、行動の理由があれば、何をすればいいのか、何か切っ掛けさえあれば、何か起これ、いや、起こせ!…

―そのとき、何かの音色が響いた。亮は顔を上げた。

 ひずんだかと思うと滑らかに、こもり、また突き抜ける。二極のあいだで、闊達に膨らんでは曲がり、高低を踊る。ハーモニカの音だ。

 それはメロディを奏でている。聞いたことのない、それでいてどこかで聞いたような曲は、スロウな、波音ほどのテンポで低音を刻み、たわんで跳ね上がると、高音を咲いて散る。ハーモニカという楽器の持つ力なのか、聞いたことのないメロディがそうさせるのか、その音色は妙に耳を捉え、胸中にそこはかとない寂寥をにじませる。

 亮は辺りを見回した。やはり、人影はない。音が止んで、亮は気づいた。屋上へと出る扉、つまりそこに、屋根がある。

 照明もなく、月明かりもなく、どうせ何も見えないが、影が動けばそれとわかる。しかし屋根の上に蠢くものはなかった。亮は背筋を緊張させた。暗闇の中に、正体の知れぬ誰かがいる。扉を開けてこの場を去ろうかとも思うが、そうすることはその誰かに近づくことも意味する。

 妙な声音が届いた。あくびだと気づくのには少しの時間がかかった。気の抜けたような、母音の噴流。それが途切れたあと、少し経って、見つめる屋根の上に黒いものが動いた。

 亮は動けなかった。自分はにらみ合っているのか。顔が見えないのでそれはわからないが、向こうもこちらに気づいているのはわかる。ぬうっと、黒い影が大きくなった。立ち上がったらしい。どう出るか。どう出ようか。焦心していると、影からその言葉が落とされた。

「何だ、オマエ」

肩をびくつかせた己を、亮は瞬時に恥じた。人影は変わらずこちらを見下ろしている。その声は、何の強調も抑揚もなく、猜疑も不審も込められていなかった。お前は何なのか。その返答以外の、何ものも求めていない声。

 亮は迷った。

「別に、誰でもない」

あげくそう答えた。影は、ふうん、とまた色のない声で相槌を打った。

「何だ、オマエも飛び降りか。だったらよそへ行け」

まさか、と亮は答えた。影は今度は何も応えなかった。

 声は、意外に若い。おそらく自分とそう変わらない年齢だろうと亮は思った。それもあって、背筋の緊張は幾らか緩くなっていた。影は変わらず屋根の上に立ち尽くし、こちらを見るではなく、どこかを向いている。亮は自分から言葉を発した。

「オマエも、て、そっちは、飛び降りる気なのか?」

しかし応答はなかった。影の顔の輪郭の部分は微動だにせず、こちらを向くことすらしなかった。ところが、無視をされた、という印象はなかった。まるでまったく聞こえていないかのようだった。自分は本当に何かをいったのかと、疑いたくなるほどに。

 おもむろに、影が動いた。身をかがめ、屋根の縁に腰を掛けたのだ。下ろした踵が扉に当たり、ドン、という低い音が暗闇に轟いた。

「なんじ」

「なに?」

「今、何時」

やはり、気のない声である。亮は腕時計の点灯スイッチを押した。二十一時三十六分。

 顔を上げて時刻を告げたが、またも応答がない。礼のひとつもあっていいだろうと、舌を打つ亮をよそに、影はポケットらしきところに手を突っ込んで、ごそごそと何かを探している。

 キン、と高い金属音が跳躍した。石を擦る音。火花。

 三度目のそのとき、暗闇に、ひとつの炎が点った。同時に、烈しい驚愕が亮を襲った。

(こいつは!)

「龍胆」じゃないか!

 声が出そうになった。高く、激しい鼓動が鳴り、喉の奥を叩いて響いた。

 ほんの数秒間、炎に赤く照らし出されたその姿は、先ほど駐車場で見たあの姿、亮が街を徘徊しながら何度も心に思い浮かべたあの姿と、まったく同じものだった。黒いフードパーカーと生成色のカーゴパンツ、大きなバスケットシューズ。無造作な短髪、他を顧みない態度、掴み所のない、その存在感。…間違いない、こいつは「龍胆」だ!

 亮は知らぬ間にあいていた口を閉じた。暗闇に浮かぶその影をなめるように凝視した。赤い火の点が上下に揺らめき、大きく煙を吐く音が通り過ぎていく。闇が、ほのかに白く濁った気がした。かすかなタバコの芳香が鼻腔を突いた。

(何故、何でこんなところに、)

人がいるのか。先ほどからあったその疑問は、また違う意味合いを帯び始めていた。何故、それがよりにもよってあの「龍胆」なのか、と。

 いったい何故こんなところにいるのか、いったい何をしているのか。胸を叩く疑問は、しかし、そういった風に「龍胆」の行動に向けられた類のものではなかった。何故、今ここで出会うのか。出会って、何が起ころうというのだろうか? ―いうなれば、自らの運命、とでも呼ぶべきもの。胸の中を飛び回り、跳ね返り、ぶつかって弾ける疑問は、自分自身か、あるいはまた別の何ものかか、とにかく向けられるべき方向を持たない疑問で、それだけに、止むことなく渦巻き続けた。

 両手をポケットに突っ込んだまま、亮は微動だに出来ずにいた。疑問に埋め尽くされた体躯は、ただ上下するタバコの火を注視することしか許さなかった。口元へ当てられ、吸われる度にひときわ燃えさかり、離れるとしぼんで次を待つ、タバコの火。あるとき、火が中空を舞った。放られたのだ。タバコは屋上の片隅を火花を撒き散らして転がった。

 一服の区切りがついた。「龍胆」は動くだろうか。何かをいうだろうか?

 方向を得た疑問が、いくつか重なった。すると「龍胆」は、見つめる亮の視線の先で、やおら、屋根を飛び降りた。

 背筋に緊張が戻り、亮はすかさず両手をポケットから出した。「龍胆」が、たった数歩の正面に、相対して立っている。それはあの「暴風」なのだ。亮は右の拳を固く握り締めた。生唾を飲み込む音が、耳の奥深くで大きく鳴った。

「龍胆」が動いた。ところが、何も起こらなかった。背を向けて扉をひらいたのだ。屋内の蛍光灯に照らされた目は、まっすぐに自分の進行方向だけを見据えていて、こちらにただの一瞥をもくれようとはしていなかった。

「暴風」が立ち去ろうとしている。行ってしまうのか、とその瞬時に亮は思った。

 なぜ行ってしまうなのか? 立ち去って欲しくないのか? 何を期待していた、何を望んでいるのか? いくつもの自問が飛び交い、その一瞬を亮は混乱に見舞われた。そして気づくと、口をひらいていた。

「待てよ」

「龍胆」は立ち止まり振り返った。

 無視はされなかったようだ。しかし、亮はその先に続く言葉を持たず、振り返った「龍胆」の視線に射抜かれながら、声を詰まらせた。なぜ呼び止めたのか? 何をいうべきか? またも、焦慮が脳裏を行き交う。

 乱闘の件には触れられない。といって初対面のはずの者に訊くべきことが見当たらない。回答もなきまま、焦りが口をひらかせた。

「さっきの曲、何ていうんだ?」

頬が引きつっている。体が笑顔を作ろうとしている。何故だ? 何故へらへら笑う?

「龍胆」は無表情だったその目を、少しの瞬間だけ大きく見開いた。また表情の色を消すと、何も答えず下を向いた。そして下を向いたまま、独り言のように呟いた。

「そうか。そりゃあ、そうだ」

「龍胆」は言葉の終わりに大きく息を吐いた。それは溜息のようにも思われた。

 どういう意味だ? 言葉の真意を問おうと、亮は下を向いたままの「龍胆」に言葉を投げた。つもりだった。

 視界が闇に変わった。目を閉じたかのように、一瞬に。肩に何かがぶつかった。続いてそれは側頭を強く打った。気づくと、亮はコンクリートの上に横たわっていた。倒れたのだ。

 左頬、顎、首筋に激痛が走る。顔を歪め、亮はようやく殴られたことを理解した。

「何をしやがる!」

と暴風に問うことは、やはり無意味なことなのかもしれない。怒号を発すると同時に、そんな考えが脳裏をよぎる。背を起こした亮は、今度ははっきりと認識した。眼前に、返答ではなく、大きなバスケットシューズが飛びついてきたことを。

 咄嗟に顔を逸らし、爪先はこめかみに突き刺さった。亮は大手をひらいて背から落ちた。意識が遠のく。闇が踊って見える。顔面がしびれ、右目がうまくあかない。

 とにかく、起きなければ。亮は転がって身をよじった。その背を硬いものが打った。腿を蹴られた。腰を踏みつけられた。腹に、胸に、わき腹に、肩に鋭い痛みが爆ぜ、拡がっていくが、認識がそれに追いつけない。もはや、殴られているのか蹴られているのかも、わからない。

 そのとき、重いものが下腹にかかった。うっ、と亮は声にならないものを吐き出した。見上げると、腹の上に黒いものが乗っている。その影から、硬い拳のついた二本の鞭が、しなって伸びた。亮は、叫んだ。

「うわぁっ!」

と、腹の底の底からせりあがったその叫びを上げた。それは、体の芯までをも蝕んだ、恐怖の発露だった。

 亮は素早く二本の腕で顔を覆った。「龍胆」は空いた腹に拳骨を落とした。両腕を前へ突き出した。わき腹を拳が襲った。

 防ごうとも、防ぎきれない。遠ざけようとも、影に手が触れない。逃れようとも、下腹にかかった重石が、その身を激痛の只中に縫い付ける。

「龍胆」は、一言の言葉も発することなく、恐怖を打ち下ろし続けた。力んで息を漏らすことさえなかった。暗闇にあるので、その姿を見取ることは出来ない。体に当たる拳の一瞬の硬さと、下腹の重み。そして痛みのみによってしか、その存在を認めることは出来なかった。それはまるで機械のようだった。条件を満たし、最短のルートで速やかに命令を履行する機械。その目的とは、苦痛を与えること。たとえば本当に機械であったとしても、あるいは他人に入れ替わっていたとしても、亮は気づけなかったに違いなかった。おざなりの、ほとんど無意味でしかない抵抗を繰り返しながら、亮は、自らに覆い被さるその影を、ただただ恐怖の対象としてしか捉えていなかった。嵐の渦中に、嵐を嘆きながら、嵐の終わりを、ただ祈っていた。

 あるとき、亮は閉じていた目をひらいた。下腹にかかる重みが消えている。拳骨の嵐が、憩うている。この機を逃してはいけないと、亮は転がって身を丸めた。もはや随意の感覚すら薄くなっている四肢を抱え込み、うずくまって次に備えた。反撃の二文字は浮かばない。朦朧とした意識と、痛みにくじけた身体と心が、その発想の生まれることを不可能とさせている。

 ところが、次の暴風が吹かない。それはもう通り過ぎたのだろうか。亮は丸まったまま感覚で周囲の様子を窺った。少しの風も感じられなかった。

 ゆっくりと首を上げた。その瞬間、コンクリートを踏み鳴らすざらついた足音が聞こえた。強い鼓動とともに、亮は首根を引っ込め、未来を恐れた。しかし、次に届いた嵐の動向は、重い扉の、ゆっくりと開閉される音だった。

 静寂だった。

 嵐の後に訪れたその静寂を、しかし、亮は変わらず恐怖し続けた。コンクリートの上で丸まったまま、動こうとしなかった。あの「暴風」は、まだ何をするかわからない。ただ扉を開け閉めしただけで、本当はまだそこにいるのかもしれない。やや明晰さを取り戻した意識だったが、しかしまだ、そんな不自然な状況を想像させる。

 しかし、静寂は何も起こさず、何も変わらず、小さく丸くなった者を見下ろし続けた。そこでようやく、亮は顔を上げてあたりを見回した。見ると、片隅に転がったタバコが、まだ煙を立ち昇らせていた。今にも消えそうな火種から昇る煙が、奇妙に蟲惑的に闇の中をたゆたいながら、ゆらゆらと、亮を哂っていた。

 街の、かすかな息遣いが聞こえる。

 遠いクラクションの音が聞こえ、エンジン音がそれに続いた。

 薄くぼんやりとした街明かりが、静寂の底辺から、亮を見上げていた。

 大きな街の片隅の、雑居ビルの小さな屋上で、何かが起こり、そして終わったのだ。残されたのは、打ちのめされた亮だけだった。

 見上げる夜空には、まだなにものかが混じりあい蠢いている。小さな星は隠れてしまっている。

 全身を、丸い刃で突き刺すような痛みが蝕んでいた。鈍い痛みは、ときに鋭く跳ね上がって、亮の表情を苦悶に歪めさせた。四肢を広げ、大きく息を吐き、大の字に寝転がる亮の目尻を、かすかに濡らすものがあったが、それが涙なのか、血液なのか、確かめることはしなかった。

「暴風」は去り、嵐は通り過ぎた。しかしまた別の嵐が、このとき亮を襲おうとしていた。

 ある感情、ある衝動、ある激情が、このときすでに、打ちのめされた亮の心の中、ふつふつと沸き、立ち上がろうとしていた。


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