赤い春⑨
「こんな暗いところにいたんじゃ、いかにも隠れてます、などと思われかねない」
京谷実は妙な知恵を弄ってそういった。亮らは陸橋の袂から線路沿いの道を小走りに行き、病院らしき建物の手前にコンビニエンスストアが見えたのでそこへ向かった。喉が渇いた、と京谷実は店内へ入っていった。頼んでもいないのに買ってきたペットボトルを亮に放り投げると、京谷実は駐車スペースの車止めに腰を下ろした。
「ふっふっふ」という小刻みな含み笑いが聞こえ、亮はペットボトルから口を離した。
「どうだ、たいした奴だろう? あれが『龍胆』だよ」
独り言のようにそう呟いてなお、京谷実は小さく肩を揺らしている。安全圏に辿り着いて、ようやく平静を取り戻したのだろうか。いかにも堪えきれないといった様子で、京谷実は小心の証を笑いに変えてこぼし続けた。
「さいご、」と亮は呟いた。
「最後、どうなったんだ。どうやって逃げた?」
「僕もはっきりとは見ていない。だが奴のことだ。逃げるとなれば、逃げ切るさ。鮮やかなものだ」
そうか、と内心で落胆しながら、亮はペットボトルのふたを閉めた。京谷実は、求めた回答も寄越さなかったくせに、まだ嫌らしく笑い続けている。
しかし、亮はそれを不快には感じていなかった。考えていたのだ。ペットボトルの小首を持ち、ちゃぷちゃぷと左右に揺らしながら、「龍胆」についてを考えていた。
(何だったんだ、あれは)
一言でいえば、暴風のようだった。猛烈な力を振るい、人の思惑や願望、都合、利害、そのようなものの一切に干渉を許さず、すべてを飲み込み破壊する、荒れ狂う暴風。
不可解だった。確かに亮は、「龍胆」をつい先ほどはじめて見知った。しかし今まではどのような少年であろうとも、その言動の一端を見ただけで、その者の性質についての大体のあたりをつけることは出来ていたのだ。どのような考えを抱いているのか。どのような欲求を己の根幹とし、今を生きているのか。そういったものを、亮はこれまでどのような少年に対しても、鋭い洞察をもって想像することが出来ていた。
たとえば、黒々と灼いた腕を見せつけ、がに股で街を闊歩する少年については?
「オレは強い、オレは誰にも従わない。そう言って無頼を気取り、他に畏怖を抱かせたいんだろう」
イヤホンで耳をふさぎ、携帯ゲームに没頭する少年については?
「外からの干渉を拒み、自分を傷つけるものから逃げ、楽しいことだけで身を囲って、安心していたいんだろう」
大勢で群れ、わざとらしくはしゃいでいる少年たちについては?
「自分はみなと同じだと、自分は決して間違っていないと、孤独を少しでも遠ざけて、忘れ続けていたいんだろう」
方法は違えど、とにかく自分は優秀なのだと、自らの値を吊り上げたがる教室の面々。そして、自らを至高に置き、他を見下さなければ人と話をすることも出来ない、今もとなりで笑い続ける小心者。
その者を深く知れば知るほど、そのあたりは複雑になる。いくつもが交じり合い、かえってわからなくなることももちろんある。しかし、何もわからない、何の想像も出来ないことなどは、ついぞなかったのだ。
あの少年はいったい何だったのか。
ただ「暴れたい」だけの者だったのだろうか。しかしそれでは、手を休め、ただ中空を見上げて佇んでいたあの姿の説明がつかない。「思い通りにしたい」だろうか。ならば、なぜ巨漢の制止を振り切り、警官への暴行を続けなかったのか。「助かりたい」のならば、パトカーの到来に気づいたそのときに逃げ出さなければおかしい。まったくわからない。しかも、そのようにまったくの無軌道のように思わせておいて、警官に対してフードで顔を隠す機転は見せるし、最後には見事に逃げおおせている。
(何なんだ、何者なんだ、あいつは)
何を見るでもなく一点を見つめながら、亮は表情に険を寄せた。ペットボトルの揺らぎは止まっている。
無性に腹立たしかった。何が腹立たしいのだろう。
不可解な「龍胆」という存在の出現だろうか? それともそれを不可解としている自分自身だろうか。
暴風の軌道に「何故」と問うことは、無意味なことなのかもしれない。しかし、それと知りつつ亮は、心象の中で踊り狂い続ける「龍胆」の姿をにらみつけながら、その問いを繰り返した。その胸中には、何故とも知れない、何かが軽やかに旋回するようなざわめきが、絶えずともなった。
「どうだ、わかるかい? あいつの凄さが」
京谷実がにやついたその面を上げた。「凄さ」という、素直に他を認めた言葉の撰択に、亮は少しの違和感を覚えた。
「強さは、言うまでもないだろう。あのくらいの人数なら物ともしない。本領は警察が来てからさ。奴は、その期に及んでもただ逃げることはしない。目の前の敵は必ず潰していくんだ。そしてその間に、手下に逃げの算段を用意させる。見たか? 連中、顔を隠してたろう。おそらくはバイクも盗んだもので、どうせ乗り捨てるんだ。奴らいつも逃げるときは少人数にばらけて、決して集まらない。服を着替えてたこともあった。しかも今日はパトカーまで破壊して行きやがった。あれじゃあ、交通安全に縛られた警察は、すぐには追えないからなあ」
まったく見事な手際だ。そういって、京谷実は手を叩いて笑った。両の腕を振るい、拳を握り、早口にまくし立てるその様は、さながら、ヒーローについてを語る子供のようだった。
珍しく粘着のないその笑みに、亮は見覚えがある。それは、乱闘を眺めながら、まるで絵画に見入るように目を輝かせていたときの、あの笑みだ。その目を輝かせていたのは憧憬であったのだと、亮はこのとき気がついた。
「そうだ、気づいたか?」と、京谷実はまた亮を見上げた。
「逃げようとしてるとき、あの馬鹿、でかいのが『えんどう!』って叫んだろう?」
確かに、そういう声がはっきりと届いた。ああ、と亮は相槌を打った。しかし京谷実は何も応えず、下を向いてまた小刻みな笑いを漏らした。
「それがどうしたんだ」
「符牒だよ」
「ふちょう?」
「奴の名は、遠藤じゃない。里見、里見龍胆だ。りんどうだから、えんどう。有事のときはそう呼べと、決めてあったんだ。あの馬鹿にそんな知恵はないからな。まったく、ただの不良の発想じゃないぞ!」
そういって堪えていたものを噴き出し、京谷実は高らかな声を上げて笑った。
なるほどと思った。しかし次の瞬間には、亮はもう別のことを考えた。名を知ったことが新たな刺激となり、先の疑問がまた再燃したのだ。
(里見龍胆というのか―)
里見龍胆。その名を冠するあれは、いったい何だったのかと。しかし、追って京谷実が続け、思考が深きヘ向かうのを妨げた。




