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PAN  作者: hkdyksry
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赤い春⑧

「―例の事件について、君はどう考える」

亮は静かな声の元を振り向いた。京谷実は乱闘に目を向けたままだった。

 例の事件といわれて、いま人が思い浮かべるものはひとつしかない。何故そんなことをいま訊くのか、そして自分は例の通り摩殺人事件についてどう思っているのか? 考えて、場に少しの沈黙があった。

「どうって、頭の狂った奴が妄想に駆られて、それで人の命を奪った。そういうことだろう」

「ふふん」と、京谷実はせせら笑いで応えた。

「さすが、テレビのように学校だ社会だが悪いとは言わないな。だが僕が訊いたのはそういうことじゃない。善悪についてだ」

「善悪?」

と、亮は言葉尻を繰り返した。あまりにも無意味な質問のように思えたからだ。

「そう。奴が為した行為について、それは善だったのか、悪だったのか」

「そりゃあ、悪としか言いようがないだろう」

いやらしい薄ら笑いの横顔にそう答えると、京谷実は、吊り上げていた口の端をいっそう持ち上げ、鼻息で笑って見せた。亮はいった。

「善だって言いたいのか?」

「いやあ、さすがにそうは思わない。奴は悪だ。その点では僕も、君や一般社会における認識とそうは変わらない。ただ、奴は下手糞だったんだ。僕が違うのは、そう思うところだ」

そういって京谷実は、衒気を満たした表情を振り向かせた。それが、いかにも言葉の真意を尋ねて欲しそうな顔だったので、亮はただ押し黙ってやった。すると京谷実は、たったいま端を発したかのように大きくうなずき、言を継いだ。

「ならばこう訊こうか。悪を為すことは、善か、悪か」

「何いってる」

と亮は笑った。語義矛盾と、同義反復である。

「言い直そう。悪を為すことは、必要か、不必要かだ。社会において、じゃない。個の内面においてだ」

胸に手を当てながら、京谷実はそういった。

 そんな哲学ぶった問いを、亮は嫌いではない。気に入らない京谷実のことは忘れて、亮は幾つかの瞬間を真摯な黙考に費やした。しかし辿り着いた解答は、いかにも無難なものでしかなかった。亮はそれが妙に悔しく、乱闘に渋面を向けながら答えた。

「要不要は問題にならないだろう。程度はあっても、どちらにしろ、それはある」

「ふん。まあそれもそうだな」

「何が言いたい」

不満げな京谷実に亮はそう問うてやったが、返答はない。沈黙があり、亮は京谷実の何かを考えているらしい横顔に少しの容赦も与えず、放って前を向いた。

 先ほどの哀れな乞い人は、すでに空しく倒れていた。「龍胆」はその傍らで、やはり自らの行跡に一顧もやらず、しかし今度は次の獲物に飛び掛かるでもなく、ただ佇んでいた。

 大勢が決しかけていた。「龍胆」によって都合四人が無力化され、巨漢によって二人が片付けられ、残り二組もそれぞれ片方が立っているだけでやっと、という格好になっている。いまだ格闘中のそれぞれも、優位にあるのは「龍胆」の側の少年であるはずだ。ばちばちと、つい先ほどまで骨肉の音を響かせていた駐車場は、今にも火種を失おうとしていた。

「龍胆」が動いた。亮はそれを目で追った。

 とつとつと、なんでもない速度で数歩を行くと、「龍胆」は立ち止まった。そこには彼自身によって打ち倒された少年が転がっていた。立ち止まったあと、「龍胆」はその場でただうつむいて、その者を見ていた。

 何をしているのだろう。思ったそのとき、「龍胆」がその場で片足を後ろへ蹴上げ、あっ、と亮は心中に驚呼をあげた。振りあげたその爪先を、少年の脇腹へと突き刺したのだ。同時に、妙な音が橋上の亮の元にも届いた。鈍い音と、鋭い音。太い音と細い音。肉と骨の、奇妙な和音。

 サッカーボールのように我が身を蹴り飛ばされた少年は、コンクリートを転がって、身を丸めてうずくまった。どうやら意識はあったようだが、むしろなかった方がよほど幸福だったに違いない。

 いったい、何の為にそこまで? 亮は眉間にしわを寄せ、驚嘆と憐憫に、口を閉じるのも忘れていた。「龍胆」という少年のことが、まったく理解できなかった。

 徹底的にやらなければ気が済まなかったのだろうか。しかし一撃を放った「龍胆」は、更なる追い討ちを掛けようとはしていない。ならば、ひどく嗜虐的な嗜好がそうさせたのだろうか。ところが、「龍胆」には丸くなって悶絶している少年の様子を楽しんでいるような素振りはなかった。どころか、ただの一瞥をもやらずに、またその場で佇立している。そして何故か小首を傾げ、中空のどこかを見つめている。まるで、たった今の己の行動を、覚えていないとでもいうように。

(狂ってるんじゃないのか?)

半ば真剣に考えたそのとき、京谷実が低く呟いた。

「僕は考える」

亮は横顔を振り向いた。京谷実は少しの間を置いて続けた。

「人間とは本来、悪なる存在だ。食欲、名誉、占有、支配、優越。たとえ他人を蹴落としてでもそれを果たそうと、誰もが本心では望んでいるはずだ。利己的であって、それが自然な姿なんだ。そうは思わないか?」

京谷実は落としていた視線を持ち上げた。亮は不快なその視線から、しかし目を逸らさなかった。その問いかけに、内心ではほとんど同意していたが、何も応えはしなかった。

「だがその自然な人間の姿を、人は、社会は悪と名づける。そして悪は報いを与えられるべきものと糾弾される。除外され、隔離されるべきだと。だから人は、本来利己的でありながら、報いを怖れて、欲求を抑えつけるんだ。そして利他的な行動を他者に示そうと試みる。そして、それこそが善であると主張する」

「だがわかるだろう?」京谷実は欄干から手を離した。

「そういう善ですら、その正体は悪なんだ。何故なら、人がそれを試みるのは、報いを逃れたいと欲求したがゆえだからだ。つまるところ善の主張は、姿を変えた悪の発露に過ぎないのさ」

そういって、京谷実はここにいない人々を嘲って笑った。亮は、やはり肯定も否定もせず、何もいわなかった。ただ、その表情にはかすかな苦渋が浮かんでいた。すべてではないが、そして正確にでもないが、京谷実の言葉には、自分が日ごろ考えているものと似ている点がある。それが気に入らない。

 しかし、そういった内心に、演説者が気づくはずもなかった。京谷実は亮の反応も構わず、ひとりでしゃべり続けた。その口調は例のように愚痴の色合いを帯び、段々と早口になっていった。

「突き詰めれば悪のくせに、口では善を唱えて多数と歩調を合わせようと画策する。凡人はそうやって折り合いをつけているつもりのようだが、結局は偽善だ。偽ものだということは、醜いということだ。だから皆くだらない人生を歩んでいるだろう? くだらない連中で群れて、くだらない時間を費やして、くだらない獣欲を満たす為だけに躍起になっていやがる。それもこれも、本来の姿を見失っているからなのさ。本道を失って歪んでいるんだ。ああ、悪の報いが怖いなら、凡人はどこまでも歪んでいけばいい。だがそんな人生のどこに崇高さがある?」

そこで京谷実はすばやくこちらを向いた。まるで息せき切るように興奮した表情が、同意を求めてまとわりついた。反応を待ってじりじりと迫る視線に、しょうことなく、亮は呟いた。

「まあ、確かにな」

「だろう!」

すると、堰を切ったように、京谷実は言葉と身振りを荒げた。

「だが僕は違うぞ。僕の人生は崇高なものでなければならないんだ。その資格と力を有しているからさ。偽ものの善など僕には必要ない、真っ直ぐに悪を行う意志と力が僕にはある! それでこそ本来の人間の姿、それでこそ自由なんだ!」

今にも身を掴まれんばかりのその勢いに、亮は身を引いて欄干にもたれかかった。圧倒されてというよりは、嫌悪のゆえに、そうした。

 しかしそうしてなお、京谷実の言葉は亮に掴みかからんとして調を高めた。胸の前に握り拳を作り、やたらと芝居がかった例の調子で、京谷実は、演説の決め台詞を叫ぶようにいい放った。

「人は、自由という言葉の使い方を誤っている。正しくはこういった修辞をつけなければならないんだ。『自由』ではなく、『悪なる自由』と…!」

その声があまりに高かったので、気づかれやしないかと亮は横目で駐車場を見た。幸いに、変化はない。

 京谷実はガッツポーズを作ったまま、挑戦的な目をしたまま、しばらくその体を崩さなかった。どうしてやろうかと亮は考えた。そんなしばらくの一瞬の間も、京谷実は一世一代の演説の余韻に浸り続けている。

「終わったか?」

亮はいった。京谷実は片眉だけを動かした。

「だからそれとこれとどこが関係あるんだよ」

親指で駐車場を指し、亮は至極当たり前なその疑問を投げつけた。ひどく偏ったその思想と、乱闘を見せようとする必要がどう結びつくのかと。

 京谷実は、しかし虚を突かれた風でもなく、ふん、と一息の嘲笑を返して寄こした。

「―だから言っただろう、例の事件の、」

とそこで、京谷実は言を絶った。亮も気づいていた。耳慣れたある音の反響が、言葉の途中から段々と近づいて来ていることに。サイレンの音だ。亮は四方へと耳をそばだてた。旋回するように高低を行きつ戻りつするその鋭い音色は、確実にこちらへと向かって来ている。

「まずいな。場所を変えようか」

京谷実はその場で身をすくめ、欄干に隠れた。巻き込まれるのはつまらない。悪を標榜しようというくせに、したり顔でそういう。

 亮も同様に身をかがめた。しかし、その場を動こうとはしなかった。京谷実の逃げ腰を見て、反骨を示しているわけではない。といって、この場に留まろうと意をもって決したわけでもなかった。ただなんとなく、としかいいようもなく、体が動こうとしなかったのだ。その原因を亮は知らないし、理由を考えてもいない。ただ、後に述懐すれば、おそらく次のような結論に辿り着くだろう。この局面にあの狂った少年、「龍胆」がどうするのかを、見届けたかったのだと。

 亮は「龍胆」を注視した。興奮のさなかに在るためか、客観にあった亮らよりも彼らの注意は鈍い。最初に気づいたのは例の巨漢だった。勢いよく立ち上がると、何かを叫んで巨漢は「龍胆」を振り向かせた。「龍胆」は音の鳴る方を向いた。そしてそのまま、幾つかの瞬間が積み重なった。

 すると突如、「龍胆」は走り出した。逃げるのか。亮のその予想を裏切り、彼はいまだ掴み合う二組の方へと駆けた。そしてその勢いのまま飛び上がると、全体重で片方の少年を蹴り飛ばした。

 それが合図となり、少年らはみな危急が迫っていることに気づき、乱闘の絵画は、一瞬にしてその色を塗り替えられた。

 巨漢が何かを叫び、二人の少年がそれに応えてどこかへ走っていった。まだ息のある敵手の少年二人は、散り散りに逃げ出そうと、ぼろぼろの体を引きずり始める。しかし、立ち上がった「龍胆」がそれを許さなかった。少年の一人に掴みかかると、胸倉を押し倒し、殴り、殴り、殴る。気が済むと、今度は蹴り飛ばされたほうの少年に覆いかぶさった。そのとき、背後から巨漢が抱きついて止めた。

 サイレンの音はその輪郭を露にし、赤色の閃光が闇を切り裂いて近づいている。一刻の猶予もない。しかし、「龍胆」は巨漢の制止を振り切り、仰向けになった少年に殴りかかる。巨漢が羽交い絞めにする。また振り切って殴る。止める、殴る、止める、殴る、止める…

 そのとき、とうとう一台のパトカーが駐車場に姿を現した。

 すわ、捕まって終わるのだろうか。

 亮が息を呑んだそのとき、肩に触れるものがあった。

「おい」眉を寄せた京谷実が、ささやき声でいった。

「早く行くぞ。そんな格好で、見つかればどうなるかわかるだろう」

あごをしゃくって亮の制服を指し、京谷実は悲観的な未来を示唆する。ひどく常識的な杞憂を見せるその表情は、先ほどの演説者とはまるで別人のようだった。

「うるさい」と亮はいった。邪魔をするな、という意の言葉に、京谷実は口を曲げて心外だという素振りを見せた。そしてそのまま何かをいおうとしたが、しかし、それを遮って届いた声が、橋上の二人の注意を引いた。

 太い声だった。明らかに少年らのそれではない。「龍胆」を求めて亮の視線は泳いだ。そしてそれが定まったとき、その凶行が目に飛び込んだ。

「龍胆」が警官に殴り掛かっていたのだ。大声を上げたのは、倒れた少年へと駆け寄っていたもうひとりの警官らしい。「龍胆」は知らぬ間にフードを頭から被り顔を隠している。そして、自身を制止しようとする警官の片腕を掴み、空いた右拳で、繰り返し目の前の大人を殴っていた。さすがに成人男性、それも警官とあって、彼は拳骨の弾幕を浴びつつも、怯まず「龍胆」を取り押さえようとしている。しかし片腕が使えない。何より虚を突かれたのだろう。彼の自由な片腕は、空しく宙を踊っていた。

 もう一人の警官が、腰の警棒を抜き、更なる怒号を放った。しかし、「龍胆」を先に取り押さえたのは巨漢だった。背後からタックルをかまし、警官ごと突き倒したのだ。「龍胆」の凶行は背を折られて止まった。哀れな警官は腰からもんどりうって倒れた。

 そのとき、クラクションが短く鳴った。どこかへ向かった少年二人が、二台のバイクに乗って現れたのだ。二人ともが、フルフェイスのヘルメットで顔を隠している。そして一方の少年が、同様のヘルメットを巨漢に向かって放り投げた。

 しかしそれを受け取ったのは「龍胆」だった。両手を上げていた巨漢の動きが止まった。仕方なく、二本の腕で顔を隠しながら、巨漢は一台のバイクに向かって駆け、シート後部に飛び乗った。

 二人を負ったエンジンは、鈍い駆動音を鳴らしながらパトカーの腹を横切った。もう一台のバイクが「龍胆」のすぐそばで停まった。しかし当の「龍胆」は、座席に飛び乗らず、あらぬ方向へ向かって駆けた。

「えんどう!」

と、巨漢が振り返り叫んでいる。しかし「龍胆」は、自らを顧みる声を気に留める様子もなく、倒れた警官とそれを抱き上げようとしている警官の脇を通り過ぎ、停められたパトカーへ向かった。そして手に持っていたヘルメットを、パトカーのフロントガラスへと、叩きつけた。

 夜に亀裂が走った。聞いたことのない音だった。パトカーのガラスは、少年の力で割れることはない。それがために、轟音は鈍く低く響いた。

 亮は、じっとその様子を見ていた。黒い凶器を振りかぶり、二度、三度とそれを叩きつけるその様を、魅入られたように見つめ続けた。踊り狂うように破壊に没頭する少年の姿を、何故だろう、意識の表層の、薄皮一枚だけ下のところで美しいと感じながら、駆け寄る警官の怒号がその美を断ち切るまで、じっと見ていた。

 ふと、亮は下を向いた。そしてコンクリートに一点の染みを見つけた。それは、自身が零した汗か何かのしずくだろうか。それとも始めからそこにあったのだろうか。亮は前者に違いない、と思った。それも、汗ではなく、何故だか自分の心臓がこぼしたもののように思えてならなかった。鳴るに耐え抜いた心臓が落とした、一点の赤だと。夜には黒く映える、一滴の鮮血であるのだと。

「おい」という声が意識を叩いた。

「いい加減にしろ。もう行くぞ」

京谷実は中腰のまま陸橋の奥へと向かっていた。声は届くが、手が触れる距離にはすでにない。

 亮は慌てて駐車場を向き直した。しかしそこに、「龍胆」たちの姿はもうなかった。凶行に見舞われた警官たちは、どうしてか「龍胆」たちを追わずにその場に留まっていた。一人は倒れている少年を抱き上げようとしている。一人は、扉を開けたままのパトカーに顔を突っ込んでいる。

 しまった、と亮は顔を歪めた。

(どうなったんだ?)

目を放した隙に、あらかたのことが終わってしまっていた。フロントガラスに白く濁って見えるほどの無数のひびだけを残して、「龍胆」たちはいつの間にかいなくなっていた。どうして逃げおおせたのだろう。あの狂った少年が、なぜ煙のように消えてしまったのか。疑問に騒ぐ胸を抱えたまま、仕方なしに、亮は立てた膝を陸橋の奥に向けた。


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