43話 それぞれの道(第一部:四国・高知編、完)
SIDE:素戔嗚神奈
「修行。応援しているぞ」
「はい。頑張ります」
素戔嗚家別邸の前には、一台の黒塗りの高級車が停まっていた。
夜明け前の冷えた空気の中でも、その車体だけは妙に存在感がある。
磨き上げられた塗装は、薄く差し始めた朝焼けを鈍く弾き、周囲の景色をぼんやりと映していた。
まだ日が昇りきっていないせいか、空は群青と灰色のあわいに沈み、世界全体が少しだけ輪郭を曖昧にしている。
そんな中で、その車だけがやけに現実的で、これから誰かが遠くへ行くのだという事実を、無言のまま突きつけてくるようだった。
私は蒼天さまと握手を交わした。
指先に触れる体温は、思っていたよりもずっと静かだった。
昨夜、夜桜の下で交わした言葉の数々が、ふと胸の奥によみがえる。
前世のこと。
今世のこと。
頼ってくれと言われたこと。
連絡先を交換したこと。
どれも大きな出来事だったはずなのに、こうして別れ際に立ってみると、交わす言葉は驚くほど少ない。
別れの挨拶としては、あまりにもあっさりしている気がした。
けれど、蒼天さまと私の間にあるものは、湿っぽい言葉で飾るようなものでもないのだろう。
これからそれぞれが別の場所で力をつけ、また必要な時に並び立つ。
今はまだ、その途中だ。
そう思えば、このくらいの距離感がちょうどいいのかもしれなかった。
……本当は、もう少しだけ何か言いたい気持ちもあったけれど。
「……ここは包容してキスの一つぐらいしてもいいと思うッス」
余計なことを言った声に、私はすぐ視線を向けた。
樒だった。
相変わらず軽口ばかり叩いている。
昨日、あれだけ折檻したのに、まだ懲りていないらしい。
顔色はいつも通り飄々としていて、反省の色がまるで見えない。
というか、むしろ昨日より元気そうにすら見えるのが腹立たしい。
《私が進言した通り、もっとやるべきでした》
太公望が、不満げに言ってくる。
あれでも十分厳しかったと思うのだけれど、太公望の基準はどうにも厳しい。
というか、太公望がいると、私が叱る側なのか叱られる側なのか、たまに分からなくなることがある。
樒に対しても容赦がないし、私に対しても妙に基準が高い。
味方でいてくれるのはありがたいけれど、時々それだけでは済まない。
「神奈さま。一ヶ月後、東京でお会いしましょう」
「うん。輝夜も修行を頑張って」
輝夜は、いろいろと考えた末に、一度京都へ戻って術式の修行をすることにしたらしい。
晴明との一件を経て、自分に足りないものを改めて見つめ直したのだろう。
輝夜はもともと真面目だ。
真面目すぎるくらいに。
だからこそ、一度立ち止まって考え始めると、簡単には割り切れない。
……朔影には、まだ会っていない。
色々と思うところがあるのだろう。
あの件は、軽く済ませられるものではない。
晴明に指摘されたこと。
自分の中にあった感情。
それらをどう受け止めるのかは、きっと本人にしか決められない。
今はまだ、自分の気持ちと向き合う時間が必要なのかもしれなかった。
「神奈。屋島組長にあまり迷惑をかけるんじゃないぞ」
「風臥兄さん。私は他人に迷惑をかけて困らせるようなことは、あまりしませんよ」
「……」
なぜか、盛大に溜息を吐かれた。
え、どうしてだろう。
私はかなり真面目に答えたつもりなのだけれど。
少なくとも、わざと迷惑をかけたことなんてほとんどない。
結果的にそうなったことは、まあ、なくはないけれど、それは不可抗力というか、状況が悪いというか――。
《自覚がないのが一番厄介ですね》
太公望が即座に刺してくる。
ひどい。
風臥兄さんはもう一度だけ小さく息を吐いてから、視線を閂へ向けた。
「……閂。神奈のことをよろしく頼む」
「はい。かしこまりました」
閂は小さく頭を下げ、静かに了承した。
その返事はいつも通り簡潔で、けれど迷いがなかった。
風臥兄さんは、蒼天さまと輝夜と一緒に京都へ上がることになっている。
晴明の術の影響で、京都のあちらこちらが大騒ぎになっているけれど、風臥兄さんには風臥兄さんの立場がある。
学校にも通わなければならないし、素戔嗚家の人間として動くべき場面も多い。
だから、ずっと私のそばにいるわけにはいかない。
そのことを寂しいと思うより先に、胸の奥が少しだけ引き締まった。
風臥兄さんは、昔からそうだ。
大事なことほど、軽く言う。
だから余計に重い。
「よろしく頼む」の一言の中に、どれだけの心配と信頼が込められているのか、私にも分かる。
分かるからこそ、軽く受け流す気にはなれなかった。
三人が黒塗りの高級車に乗り込んで去っていく。
扉が閉まり、エンジン音が静かに響き、やがて車体は朝靄の向こうへ滑るように消えていった。
その音が完全に遠ざかると、別邸の前には急に静けさが戻る。
さっきまで人がいたはずなのに、空気だけが少し広くなったような気がした。
けれど、その静けさも長くは続かなかった。
入れ違いに、一台のトラックがやってきた。
後ろのコンテナには、黒い狸が描かれている。
「チワー、黒狸急便です。屋島太三郎さまから、生物を着払いで届けるようにと伺いました。貴女たちで間違いありません?」
「あ、はい」
運転席から顔を出した配達員は、見た目こそ普通の人間だったが、耳の先が微妙に獣じみていた。
というか、そもそも車体に描かれた狸の主張が強い。
黒狸急便。
かなり分かりやすい名前だ。
分かりやすいけれど、分かりやすすぎて逆に不安になる。
「それじゃあ、トラックの扉を解除したので、乗り込んで下さい」
言われてコンテナの扉を見ると、ロックが外れるような音が鳴った。
金属の噛み合いが解ける、乾いた音だった。
私たちは顔を見合わせる。
「乗り込む……って、荷台に?」
「たぶんそうッス」
「え、普通に危なくない?」
「そういう場所に行くんだと思うッス」
樒が平然としているので、私は少しだけ納得してしまった。
確かに、これから向かう先が普通の場所なわけがない。
普通の場所なら、そもそも黒狸急便なんて名前の運送会社は使わないだろう。
いや、使うのかもしれないけれど、少なくとも私は使いたくない。
閂と一緒に荷台へ乗り込む。
中は思ったより広かった。
荷物を積むための空間のはずなのに、妙に空気が静かで、ただのコンテナとは違う気配がある。
壁面には見慣れない紋様が薄く刻まれていて、それがかすかに光を帯びていた。
転送用の術式だろうか。
そう思った瞬間、後ろの扉がひとりでに閉じた。
視界がぐにゃりと歪む。
空間が渦を巻くように捻れ、身体の感覚が一瞬だけふわりと浮いた。
足元が消えたような、胃の奥だけが置いていかれるような、不快とも言い切れない奇妙な浮遊感。
耳鳴りに似た音が頭の奥で響き、次の瞬間にはそれすら消えた。
「わっ……」
短い声が漏れる。
気がついた時には、もうそこは別の場所だった。
木々が生い茂る森の中。
湿った土の匂いと、濃い瘴気が鼻をつく。
見上げた空は薄暗く、空気にはひどく重い湿り気があった。
現世の山林とは違う。
もっと深い場所だ。
地の底と、死の気配に近いものが、森全体にじっとりと染みついている。
肌にまとわりつく空気が重い。
呼吸をするだけで、肺の奥に薄い泥が入り込んでくるような感覚があった。
慣れていない人間なら、ここに立っているだけで気分が悪くなるかもしれない。
「あー、これは黄泉比良坂を改造した場所ッスね」
「どういうこと?」
「神奈さまも知っての通り、黄泉比良坂は下層・根国から大和全体へ支脈として伸びてるッスけど、伸びた支脈を切り離して独自の空間に創り変える妖怪がいるッス。ここは屋島大親分が作った【祖谷暗淵の杜】ッス」
樒は淡々と説明する。
こういう時の樒は妙に頼りになる。
普段からそのくらい真面目ならいいのに、と少しだけ思う。
「つまり黄泉比良坂であって、黄泉比良坂でないってこと?」
「そうッス。この瘴気の感じからして中層程度だと思うッスけど……もう少し普通に呼んで欲しいッスよね」
「普通に呼ぶ名前だったんだ……」
祖谷暗淵の杜。
確かに、あまり普通ではない。
でも、こういう場所に「緑ヶ丘」とか「さくらタウン」みたいな名前をつけられても、それはそれで困る気がする。
森の奥から、ざわり、と草木が揺れる音がした。
私は無意識に身構える。
閂もまた、静かに気配を引き締めた。
瘴気の濃い空間では、何が出てきてもおかしくない。
しかもここは、屋島太三郎が作った妖怪の領域だ。
現世の常識で測れる場所ではない。
次の瞬間、茂みの中から一匹の狸が姿を現した。
「……狸?」
思わず呟く。
いや、狸だった。
だが、普通の狸ではない。
胴体は子供どころか人間よりも大きく、黒みを帯びた毛並みは艶があり、目つきには妙に知性がある。
首には簡素な縄飾りが巻かれていて、そこに屋島組の家紋が揺れていた。
ただの獣ではなく、明らかに「こちらを理解している」目だった。
狸は私たちを見上げると、すっと首を後ろへ振った。
「付いてこいってこと?」
「みたいッスよ」
私たちは案内されるまま、その狸の後を追った。
森の中は思ったより静かだった。
木の根が地面を覆い、時折、低く唸るような風が枝葉を鳴らす。
けれど不思議と恐ろしさはない。
むしろ、この森そのものが生き物みたいだった。
誰かの手で整えられた自然ではなく、ひとつの意志を持った空間。
侵入者を拒むこともできるし、受け入れることもできる。
そんな気配が、木々の隙間からじっとこちらを見ているような気がした。
「閂。辛くなったら言ってね」
「……はい。神奈さま」
閂の声はいつも通り落ち着いていたが、少しだけ呼吸が浅い。
瘴気がきついのだろう。
彼女は強い方ではないし、こういう環境は負担になるはずだ。
それでも、弱音を吐く気配はなかった。
私の従者として、ここまでついてくると決めた以上、簡単には音を上げないつもりなのだろう。
森を抜けた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、ただの妖怪の隠れ里ではなかった。
広がっていたのは、現代的な建物が並ぶ街だった。
木造の屋敷もある。
古い長屋もある。
けれどその間に、見慣れた形の店や建物が自然に混じっている。
舗装された道のようなものまである。
人間の街を、そのまま森の奥へ運び込んだみたいな景色だった。
人間の姿も妖怪の姿も、そこには普通にあった。
子供らしい笑い声。
誰かを呼ぶ声。
荷物を運ぶ音。
屋台から漂う香ばしい匂い。
遠くでは、何かを叩く乾いた音まで聞こえる。
活気がある。
瘴気に満ちた森の中なのに、妙に生活感がある。
異界のはずなのに、そこには確かに「暮らし」があった。
ただ隠れているだけの場所ではない。
ここで生き、働き、食べ、眠り、日々を回している者たちの気配が、街全体に満ちている。
「……ここって妖怪の隠れ里的なものなんだよ、ね。まるで地上の街みたい」
「そんなもん、当たり前じゃ」
低い声がした。
いつの間にか、そこに屋島太三郎大親分が立っていた。
貫禄の塊みたいな老人。背はそう高くないのに、不思議と見上げてしまう。
白くなった髪を後ろへ撫でつけ、口元には黄金の煙管。
目だけはまだ鋭く、年齢の積み重ねではなく、積み上げてきたものの重さがそのまま宿っているようだった。
そう名乗らずとも、目の前にいるのが誰かは分かった。
「わしら妖怪は、人間に畏れられんようになった時が終わりじゃ」
太三郎大親分は煙を吐きながら、遠くを眺めるように言った。
「せやき、人間どもの歩みから目を逸らすわけにはいかん。あやつらは日進月歩で進み続ける。ならば、わしらだけが昔にしがみついておるわけにはいかんろう。人間が進むなら、わしらも進む。生き残るいうんは、そういうことじゃ」
言葉は荒っぽいのに、妙に筋が通っている。
この街は、その思想の形なのだろう。
古いまま守るだけではなく、変わることを選んだ妖怪たちの生活圏。
現代の人間社会に追いつき、なおかつ妖怪としての在り方を失わないための場所。
だからこそ、こんなにも街として成立しているのかもしれない。
ただ強いだけの妖怪ではない。
生き残るために、変わることを選べる妖怪。
その長が目の前にいるのだと思うと、改めて背筋が伸びた。
「約束通り、御嬢の修行はつける。そっち二人の付添人は――別じゃ。特に死神まで面倒を見る義理はないきな」
太三郎大親分の視線が、ちらりと閂へ向いた。
閂は小さく頭を下げる。
「大丈夫ッス。閂パイセンは私とスキル修行をするッスからお構いなくッス」
その言葉に、私はほんの少しだけ眉を寄せた。
昨夜のことを思い出す。
廊下の向こうで聞こえた会話。
閂の真面目すぎる返答。
そして、その直後に私が樒を捕まえて、たっぷり話をしたこと。
……いや、話というより、ほぼ折檻だった気もするけれど。
だから、内容自体は知っている。
知っているのだけれど、こうして改めて本人の口から「スキル修行」と言われると、やっぱり落ち着かない。
しかも樒が言うと、どうしても余計な含みがつく。
私は樒をじっと見つめたあと、思いきり目を細めた。
「……閂。本当に、その、樒と房中術をするの?」
口に出した瞬間、自分で少しだけ後悔した。
朝から何を確認しているんだろう、私は。
けれど、聞かずにはいられなかった。
昨夜は怒りが先に立って、ちゃんと閂の気持ちを聞けていなかった気がする。
樒はともかく、閂が本気でそう考えているのなら、そこは曖昧にしたくなかった。
閂は少しだけ目を伏せた。
その沈黙は迷いというより、言葉を選んでいるように見えた。
やがて彼女は静かに顔を上げ、まっすぐ私を見る。
「はい。わがままですが、私は神奈さまと一緒にまだいたいです」
その声はいつも通り落ち着いていた。
けれど、落ち着いているからこそ、そこに込められた本気がよく分かった。
「それには、スキルという手段を取るしかありません」
淡々とした言い方だった。
けれど、その奥には切実さがあった。
ただ方法を説明しているだけじゃない。
他に道がないと、自分に言い聞かせるような響きだった。
私はすぐには返せなかった。
閂は続ける。
「私は強くありません」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
閂は事実を言っているだけなのだろう。
卑下しているというより、自分の立ち位置を冷静に見ているだけだ。
でも、その冷静さがかえって苦しかった。
「術式も、武術も、神奈さまの隣で戦えるほどではありません。これから先、神奈さまが向かう場所は、今までよりずっと危険になります。晴明も、四死妖も、私ではどうにもできない相手です」
閂の声は静かだった。
静かで、乱れがない。
だからこそ、その言葉は一つ一つが重かった。
「今のままでは、私は神奈さまをお守りするどころか、足を引っ張るだけです」
足を引っ張る。
その言い方に、私は思わず眉を寄せた。
そんなふうに思ってほしくない。
思ってほしくないのに、閂の中ではそれがもう、誤魔化しようのない現実になっているのだろう。
閂は私から目を逸らさなかった。
「それが嫌なんです」
短い一言だった。
でも、その一言に、今まで飲み込んできたものが全部詰まっている気がした。
「神奈さまが前へ進むたびに、私は置いていかれる気がします。傍にいたいのに、同じ場所に立てない。守りたいのに、守られる側にしかなれない。それが、ずっと……苦しかったです」
そこで初めて、閂の声がほんの少しだけ揺れた。
大きく乱れたわけじゃない。
泣きそうになったわけでもない。
でも、静かな湖面に小さな波紋が広がるみたいに、その揺れは確かにあった。
私は息を呑む。
閂は、こんなふうに自分の気持ちを言葉にする子じゃない。
いつもはもっと抑えて、必要なことだけを口にする。
だからこそ、今ここで出てきた言葉は、たぶんずっと胸の奥に溜め込んでいた本音なのだと思った。
「私は、神奈さまの従者です」
閂は静かに言った。
「従者である以上、お傍にいたい。お仕えしたい。必要とされたいです」
その言葉は忠誠の表明だった。
でも、それだけじゃなかった。
「……でも、それだけじゃありません」
閂はほんの少しだけ唇を引き結んだ。
何かを堪えるみたいに。
それから、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「私は、神奈さまが大切です」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「だから、離れたくありません」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
飾り気がない。
言い訳もない。
ただ、離れたくないと、それだけを言っている。
それが閂らしくて、でも閂らしすぎて、余計に胸に刺さった。
「神奈さまが危ない場所へ行くなら、私も行きたいです。たとえ何もできなくても、せめて傍にいたい。けれど、何もできないまま傍にいるだけでは、いつか本当に足手まといになります」
閂はそこで一度だけ目を伏せた。
「だから、変わりたいんです」
その声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「どんな形でもいいから、神奈さまの役に立てる力がほしい。置いていかれないためじゃなくて、ちゃんと隣に立てるようになりたいんです」
私は、何も言えなかった。
困る。
すごく困る。
房中術なんて単語が出てきている時点で、普通に困る。
でも、今の閂の言葉を聞いたあとでは、もうそこだけを切り取って茶化すことなんてできなかった。
閂は本気だ。
それも、軽い覚悟じゃない。
自分の弱さを分かった上で、それでも変わりたいと願っている。
私のために。
私の隣に立つために。
そんなことを言われて、嬉しくないはずがなかった。
嬉しい。
ありがたい。
胸が熱くなるくらいには、嬉しい。
でも同時に、そんなふうに閂を追い詰めてしまっていたのかと思うと、少し苦しかった。
「……そこまでしなくても、とは言えないんだよね」
ぽつりと漏れた声は、自分でも思ったより弱かった。
閂は私を見た。
その目は静かで、けれど揺れていない。
「はい。言われても、たぶん私はやめません」
そこまで言い切られてしまうと、もう笑うしかない。
いや、笑えないけど。
でも、閂が本気であることだけは、嫌というほど伝わってきた。
私は小さく息を吐いた。
「……分かった。閂が本気なのは分かった」
そう言うと、閂の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
安心したのかもしれない。
それを見て、私は余計に複雑な気持ちになる。
「ただし、無理はしないこと。嫌だと思ったらすぐやめること。樒、変なことしたら今度こそ本当に半殺しだからね」
「神奈さま、昨日の時点でだいぶ本気だったと思うッス」
「足りなかったみたいだから追加する」
「理不尽ッス!」
理不尽なのはどっちだ。
閂はそんなやり取りを見て、ほんの少しだけ口元を和らげた。
その表情は小さかったけれど、確かに昨日より柔らかかった。
たぶん私は、閂のことをちゃんと分かっているつもりで、分かりきれていなかったのだと思う。
守らなきゃいけない。
傷つけたくない。
危ない目に遭わせたくない。
そう思うあまり、閂自身がどう在りたいのかを、どこかで後回しにしていたのかもしれない。
でも、閂は閂で、ちゃんと前へ進もうとしている。
不器用でも。
危なっかしくても。
私のために、私の隣に立つために、自分なりのやり方で必死に足掻いている。
それが、少しだけ誇らしかった。
太三郎大親分が、煙管を指で弾く。
「いつまで漫才しゆうつもりじゃ。時は金なりじゃ。さっさと荷物を置いてこい。――修行に入るぞ」
その一言で、場の空気が少し引き締まった。
私は思わず背筋を伸ばす。
一ヶ月間の修行
ここで私は、強くならなければならない。
晴明と戦うために。
四死妖と戦うために。
もっと先へ進むために。
今のままでは足りないと、もう嫌というほど思い知らされた。
だからこそ、この一ヶ月は絶対に無駄にできない。
太三郎大親分の案内で、私たちは街の一角へ向かった。
空き家をひとつ借り、そこを修行中の住居として使うことになった。
質素だが、清潔で、生活するには十分な造りだった。
畳は新しくはないけれど手入れが行き届いていて、障子も柱もきちんと整えられている。
仮住まいというより、ちゃんと「暮らす場所」として用意された家だった。
荷を下ろし、畳の匂いに少しだけ息をつく。
ここから、一ヶ月。
祖谷暗淵の杜。
屋島太三郎が支配する妖怪たちの国。
その中で何を学び、何を得るのか。
まだ分からないことばかりだ。
けれど、胸の奥には不思議と静かな熱があった。
不安がないわけじゃない。
瘴気の濃い異界。
癖の強い妖怪たち。
太三郎大親分の修行がどれほど苛烈なものになるのかも分からない。
それでも、怖さより先に、前へ進めるという感覚の方が強かった。
私は家の縁側へ出て、もう一度だけ街の方を見た。
異界の空は薄暗い。
けれど、その下で営まれている暮らしは確かだった。
笑い声がある。
怒鳴り声がある。
鍋の煮える匂いがある。
妖怪たちの国でありながら、そこには妙に生々しい生活の熱があった。
ここは、ただの修行場じゃない。
地上とも、黄泉とも、根国とも少し違う、別の理で回る世界だ。
私はこれから、その中へ踏み込んでいく。
振り返れば、これまでにも色々なことがあった。
前世の記憶を思い出したこと。
閂を助けようとして、逆に傷つけたこと。
晴明と出会い、四死妖の存在を知ったこと。
蒼天さまと夜桜の下で言葉を交わしたこと。
風臥兄さんや雷臥兄さん、輝夜や朔影、樒や閂――たくさんの人たちに支えられ、時にぶつかりながら、ここまで来た。
その全部が、今の私をここへ立たせている。
私は愛染明王の柄にそっと触れた。
ひんやりとした感触が掌に返ってくる。
その冷たさが、逆に頭を冴えさせてくれた。
よし。
そう心の中で呟いて、私は深く息を吸う。
この一ヶ月で、私は変わる。
変わらなければならない。
誰かに守られるだけではなく、並び立てるように。
奪われるだけではなく、奪い返せるように。
失うことを恐れて立ち止まるのではなく、失わせないために前へ出られるように。
そして、私だけじゃない。
閂も、樒も、それぞれのやり方で変わろうとしている。
不器用でも、遠回りでも、みんな必死に前へ進もうとしている。
なら、私だけが立ち止まっているわけにはいかなかった。
夜桜の下で交わした約束も。
兄たちの想いも。
ここまで積み重ねてきた全部も。
無駄にはしない。
祖谷暗淵の杜の空は、どこまでも暗く、深かった。
けれどその暗さの向こうに、確かに次の道が続いている気がした。
私は静かに目を開く。
――ここから先が、新しい戦いの始まりだ。
そうして私は、妖怪たちの国で始まる一ヶ月へ、最初の一歩を踏み出した。
読んでいただきありがとうございました。
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