42話 葛藤
SIDE:朔影
月光輝夜の精神世界。
どこまでも白く、空も地も境目がなく、淡い光だけが満ちている。
その片隅。
影に覆われた場所に、私は蹲り、晴明さまの言葉を否定していた。
『彼女は、閂が邪魔でいなくなって欲しかったんだよ』
違う。
『キミは素戔嗚神奈に恋していた。同性ではあるものの、一人の女性として愛してしまった。でもね、男性は天ノ宮蒼天がいる。女性は扉間閂がいる。素戔嗚神奈の一番にはなれない』
違う。違う。違う。
私は神奈姉さんをそんな目で見た事なんて――。
必死で否定する。
けれど、否定すればするほど、胸の奥のどこかが鈍く痛んだ。
晴明さまの言葉は、毒みたいだった。
耳から入って、心の柔らかいところへ染み込んで、見たくないものばかりを浮かび上がらせる。
違う。
私はただ、神奈姉さんのことが心配で。
危うくて、放っておけなくて。
あの人が壊れてしまいそうで、怖くて。
だから傍にいたかっただけだ。
――本当に?
胸の奥で、誰かが囁く。
神奈姉さんが蒼天さまと並んでいるのを見た時。
閂さんと笑い合っているのを見た時。
胸の奥がざわついたことは、一度もなかったのか。
置いていかれるような、息苦しい気持ちを覚えたことは、本当になかったのか。
違う、と言い切れない。
それが何より苦しかった。
神奈姉さんは、いつだって私の少し先を歩いていた。
強くて、正しくて、眩しくて。
追いかけることはできても、並ぶことはできない。
手を伸ばしても、届きそうで届かない。
そんな人だった。
だからこそ。
あの婚約披露の場で、虚ろに立つ神奈姉さんを見た時。
目の奥から熱が抜け落ちて、誰かに触れられるままになっている姿を見た時。
胸の奥が、ひどく甘く痺れた。
(ああ……。やっと、届いた)
そう思ってしまった。
その瞬間の感覚を、私は忘れられない。
忘れたいのに、忘れられない。
神奈姉さんが壊れていく姿に、確かに私は満たされていた。
あれほど高いところにいた人が、私の手の届く場所まで落ちてきた。
私が仕込んだ楔で、私が敷いた道の先で、脆く崩れていく。
その事実が、どうしようもなく甘美だった。
「違う……」
声に出しても、ひどく弱々しかった。
白い世界の中で、その否定はあまりにも空虚に響く。
私は膝を抱え込む。
影の中へ、もっと深く沈み込みたかった。
見たくない。
認めたくない。
もし晴明さまの言葉が本当なら……。
私は、神奈姉さんを護りたいと願いながら、その一方で、神奈姉さんを引きずり下ろしたいと願っていたことになる。
そんなのは、あまりにも醜い。
「……朔影」
静かな声がした。
私はびくりと肩を震わせた。
顔を上げる。
白い光の中に、月光輝夜が立っていた。
今の輝夜。
私が式神として仕える主。
そして、かつての私と同じ魂を持つ、もう一人の月光輝夜。
輝夜はすぐには近づいてこなかった。
少し離れた場所に立ったまま、私を見ている。
責めるでもなく、憐れむでもなく、ただ静かに。
「……聞いていたのですか」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「はい」
輝夜は短く頷いた。
「晴明さまの言葉も。あなたが、それを否定していたことも」
逃げ出したくなった。
でも、ここは輝夜の精神世界だ。
逃げ場なんて、最初からどこにもない。
「なら、軽蔑したでしょう」
自分でも驚くほど、すぐにそんな言葉が出た。
「神奈姉さんを護りたいなんて言いながら、結局は自分が一番になれないことに傷ついていたのかもしれないんです」
喉が詰まる。
でも、止まらなかった。
「閂さんが邪魔だったのかもしれない。蒼天さまが憎かったのかもしれない。神奈姉さんが壊れていくのを見て、嬉しいと思ってしまったのは事実なんです」
言葉にしてしまうと、ますます惨めだった。
晴明さまの言葉を、自分の口で補強しているみたいで。
「神奈姉さんが、私の手の届くところまで落ちてきたって……そう思ってしまったんです」
白い世界に、自分の声だけが落ちていく。
もう取り消せない。
認めてしまった。
いちばん見たくなかった自分を。
輝夜は少しだけ目を伏せた。
その睫毛が、かすかに揺れる。
何かを飲み込むような、ほんの短い沈黙があった。
それは、ただ言葉を選んでいる沈黙ではないように見えた。
責めるでもなく、かといって簡単に慰めるでもなく。
自分の中にも似た痛みがあることを、静かに確かめているような沈黙だった。
「私は」
輝夜が静かに口を開く。
「あなたを軽蔑しません」
思わず顔を上げた。
輝夜はまっすぐ私を見ていた。
その目は静かで、でも逃げていない。
「たとえ、あなたの中にそういう感情があったとしても。それだけで、あなたの全部が嘘になるわけではありません」
「でも……」
「人の心は、そんなに綺麗に分けられるものではないと思います」
白い世界に、輝夜の声が静かに落ちていく。
「敬慕と羨望は、近いところにあります。護りたいという気持ちと、置いていかれたくないという気持ちも、同時に存在し得ます」
私は言葉を失った。
「誰かを大切に思っていても、その人の隣に自分ではない誰かが立つことはあります」
輝夜は淡々とした口調のまま続けた。
けれど、その声音はどこか少しだけ柔らかく、そして少しだけ痛んでいるようにも聞こえた。
「それを見て、苦しくならない人ばかりではないと思います。祝福したい気持ちと、苦しい気持ちが同時にあること自体は、きっと珍しいことではありません」
その言葉に、私ははっとした。
輝夜の表情は変わらない。
静かで、理知的で、いつも通りだ。
でも今の言葉は、ただ理屈として知っているだけの人のものではない気がした。
まるで、自分でもよく知っている痛みを、他人事の形でそっと差し出しているみたいだった。
「相手が眩しいからこそ、手の届くところまで降りてきてほしいと願ってしまうこともあるのでしょう」
輝夜はそこで一度言葉を切った。
「それは、綺麗な感情ではないかもしれません」
「……」
「ですが、だからといって、最初から最後まで全部が偽物だったことにはなりません」
胸の奥が、じわりと痛んだ。
優しい言葉なのに、痛かった。
たぶんそれは、救われることに慣れていないからだ。
「ですが」
輝夜の声が、少しだけ硬くなる。
「だからといって、してしまったことが許されるわけではありません」
「……はい」
「閂さんを攫ったことも。神奈さまを追い詰めたことも。晴明に加担したことも。全部、間違っていました」
「はい……」
その通りだった。
どんな感情が根にあったとしても、やったことは消えない。
消えてくれない。
輝夜は一歩だけ、こちらへ近づいた。
「でも、間違っていたからこそ、今ここで向き合わなければならないのだと思います」
「向き合う……」
「はい」
輝夜は静かに頷く。
「晴明さまは、人の弱さを見つけて、そこへ言葉を差し込みます。事実と嘘を混ぜて、本人が一番見たくない形で突きつけてくる」
その言葉に、胸が痛んだ。
まさにその通りだった。
晴明さまの言葉は、全部が嘘ではない。
だからこそ厄介なのだ。
少しだけ本当かもしれないものを、最悪の形に捻じ曲げて差し込んでくる。
「あなたが今苦しいのは、全部が嘘だからではなく、全部が本当だからでもありません」
輝夜は続ける。
「本当の一部を、悪意のある形で抉られたからです」
私は息を呑んだ。
本当の一部。
その言い方が、ひどく正確に思えた。
神奈姉さんを大切に思っていたのは本当だ。
護りたいと思っていたのも本当だ。
でも、置いていかれることに傷ついたのも、神奈姉さんが壊れた姿に甘さを覚えたのも、たぶん本当だった。
その全部を、晴明さまは見抜いて、いちばん醜く見える形に並べ替えた。
「……私は、神奈姉さんを愛していたのでしょうか」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
自分でも、聞きたくなかった問いだった。
輝夜はすぐには答えなかった。
少しだけ考えるように目を伏せて、それから静かに言う。
「それを、今すぐ一つの言葉で決めてしまう必要はないと思います」
「……」
「恋だったのかもしれません。違ったのかもしれません。敬慕も、羨望も、依存も、執着も、喪失も、承認欲求も、全部混ざっていたのかもしれません」
白い世界は静かだった。
逃げ道のない静けさだった。
「ですが、恋という言葉だけで片づけてしまえば、あなたが抱えていたものの多くを見失います」
輝夜の声は穏やかだった。
でも、その穏やかさの奥に、確かな強さがあった。
「誰かを好きになること自体は、罪ではありません」
その一言に、私はわずかに目を見開いた。
輝夜は視線を逸らさなかった。
けれど、その横顔にはほんの一瞬だけ、言葉にしない翳りが差した気がした。
「たとえ、その想いを表に出せなくても。叶わないと分かっていても。相手の隣に別の誰かが立つのを見て、胸が痛んだとしても」
静かな声だった。
あまりにも静かで、だからこそ、その奥に沈められたものの重さが分かってしまう。
「それでも、想うことそのものまで、醜いものだと決めつける必要はありません」
私は息を止めた。
今の言葉は、たぶん私だけに向けられたものじゃない。
輝夜自身もまた、胸の奥へ押し込めたまま立っている。
「ですが」
輝夜は、そこでわずかに声を引き締めた。
「その想いを理由に、相手を壊していいことにはなりません」
白い世界に、その言葉だけがひどく鮮明に響いた。
「苦しいから。届かないから。置いていかれそうだから。だから相手を引きずり下ろしてもいい、とはならないのです」
「……はい」
「私は、そうはしたくありません」
その一言は、ひどく静かだった。
けれど、刃みたいに真っ直ぐだった。
私は何も言えなかった。
輝夜が何を思ってその言葉を口にしたのか、はっきりとは分からない。
でも、その言葉がただの正論ではなく、輝夜自身の選択として出てきたものだということだけは分かった。
「晴明は、そこを単純な形にして差し出したのでしょう。あなたが自分で自分を嫌いになれるように」
私は何も言えなかった。
胸の奥が、じわじわと熱を持つ。
苦しいのに、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「でも、名前が何であれ」
輝夜は続けた。
「あなたが神奈さまを大切に思っていたことまで、偽物にはならないと思います」
胸の奥が、またじわりと痛んだ。
その痛みは、さっきまでのものとは少し違っていた。
ただ抉られるだけの痛みじゃない。
傷口に、ようやく空気が触れた時みたいな痛みだった。
「私は……」
喉が詰まる。
言葉がうまく出てこない。
「私は、神奈姉さんに嫌われたくなかった」
ようやく出たのは、そんな情けない本音だった。
「置いていかれたくなかった。閂さんにも、蒼天さまにも、敵わないって思うのが苦しかった」
言ってしまった。
認めてしまった。
胸の奥の、いちばん見たくなかった部分を。
「でも、それ以上に……本当に、神奈姉さんに幸せでいてほしかったんです」
声が震える。
「それも、嘘じゃないんです……」
「はい」
輝夜は、すぐに頷いた。
「嘘ではないと思います」
その即答に、私は目を見開いた。
輝夜は少しだけ表情を和らげる。
「人は、誰かの幸せを願いながら、その幸せの形に傷つくこともあります」
「……」
「それは綺麗ではないかもしれません。ですが、だからといって全部が偽物になるわけではありません」
私は何も言えなかった。
ただ、胸の奥に溜まっていた何かが、少しずつ形を変えていくのを感じていた。
消えるわけじゃない。
許されるわけでもない。
でも、ただの醜悪なものとして切り捨てるだけでもないのかもしれない。
「朔影」
輝夜が、もう一歩近づく。
「あなたは、これからどうしたいのですか」
「……どう、したい」
「はい。晴明に言われたことがどうであれ、あなた自身はどうしたいのですか」
私は膝を抱えたまま、しばらく黙っていた。
白い地面に落ちる影が、わずかに揺れている。
どうしたいか。
そんなの、決まっている。
「……償いたいです」
声は小さかった。
でも、ちゃんと自分の声だった。
「神奈姉さんにしたことを、閂さんにしたことを、全部……。許されたいとは思いません。そんな資格はないです」
「……」
輝夜は黙って聞いている。
「でも、せめて逃げたくない。晴明の言葉に飲まれて、自分が何だったのかも分からないまま終わるのは嫌です」
それだけは、はっきりしていた。
私はもう、晴明さまの道具として終わりたくない。
自分の罪からも、自分の感情からも、目を逸らしたまま消えたくない。
輝夜は静かに頷いた。
「なら、答えはもう出ています」
「え……?」
「あなたは、あなたの意志で償いたいのでしょう」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「でしたら、晴明さまの言葉に定義される必要はありません」
私は息を呑んだ。
「恋だったのか。執着だったのか。嫉妬だったのか。今すぐ全部を言い切れなくてもいいのだと思います」
輝夜の声は静かだった。
でも、その静けさの中に、確かな強さがあった。
「大切なのは、そこから何を選ぶかです」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
輝夜はまっすぐ私を見ていた。
「あなたはもう、晴明さまの側にはいません」
「……はい」
「なら、これからは自分で選んでください」
白い世界の中で、その言葉だけがひどく鮮明に響いた。
自分で選ぶ。
簡単なようで、ずっとできなかったことだ。
晴明さまに見出され、揺さぶられ、少しずつ選ばされていった。
自分で決めているつもりで、ずっと誰かの掌の上にいた。
でも、今は違う。
少なくとも、違いたいと思える。
「……輝夜」
「はい」
「私は、神奈姉さんに裁かれたいです」
輝夜の目が、わずかに揺れた。
それでも、逸らさない。
「許されなくていい。憎まれてもいい。……でも、ちゃんと向き合いたい」
「……はい」
「その時まで、私は逃げません」
輝夜はしばらく黙っていた。
それから、静かに頷く。
「分かりました」
その返答は短かった。
でも、拒絶ではなかった。
それだけで十分だった。
白い世界に、また静けさが戻る。
さっきまでの沈黙とは違う。
少しだけ、息がしやすい。
私は膝を抱えていた腕を、ゆっくりとほどいた。
まだ苦しい。
まだ痛い。
晴明さまの言葉は、たぶん簡単には消えない。
それでも。私はもう、ただ否定するだけではいられない。
自分の中にあるものを、自分で見なければならない。
「朔影」
輝夜が最後に、静かに言った。
「あなたがどんな感情を抱いていたとしても、それだけで神奈さまを想っていた時間のすべてが穢れるわけではありません」
胸の奥が、また少しだけ痛んだ。
でも今度の痛みは、さっきまでとは少し違った。
ただ抉られるだけの痛みじゃない。
傷口に、ようやく空気が触れた時みたいな痛みだった。
「だから、逃げないでください」
「……はい」
私は小さく頷いた。
白い世界の片隅。
影の中で蹲っていた私は、ようやく少しだけ顔を上げる。
まだ答えは出ない。
恋だったのかも、執着だったのかも、全部は分からない。
でも、分からないままでも、進むことはできるのかもしれない。
神奈姉さんに向き合うために。
自分の罪に向き合うために。
そして、もう二度と晴明さまの言葉に、自分の心の形を決めさせないために。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
読んでいただきありがとうございました。
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