37話 天敵
晴明が、わずかに一歩、前へ出た。
その動きに反応したのは、私より先に輝夜と朔影だった。
輝夜が印を結び、その後ろ――影から姿を現していた朔影も、ほとんど同時に霊力を走らせる。
次の瞬間、晴明の四方の地面が盛り上がった。
土壁。
四方を囲むように立ち上がり、そのまま天井を塞ぐように閉じていく。
さらに、その外側へもう一重。
内と外、二重の壁が晴明を閉じ込めた。
「「封印術・土牢封棺」」
声が重なる。
土壁は鈍い音を立てながら噛み合い、完全に閉じた。
壁面に刻まれた封印の紋が淡く光り、内側の霊的活動を押し潰すように術圧を高めていく。
輝夜と朔影、二人分の術式が重なったことで、封印の強度は単純な足し算以上に跳ね上がっていた。
普通なら、これで十分だった。
少なくとも、相手がそこに“いる”なら。
「言っただろう?」
土壁をすり抜けて、晴明は現れた。
封印されたはずの土牢は、何も壊れていない。
崩れてもいない。
術式もまだ生きている。
なのに、晴明だけがその外にいる。
「これは分身でも幻術でもない。ただ映っている映像に過ぎないんだ。ここに存在していないのだから、封印はできないよ」
さらりと言う。
まるで子どもに簡単な理屈を教えるみたいな口調だった。
「仮に分身であったとしても、この程度の封印術では、そもそも私を封じることはできないのだけどね」
輝夜の気配がさらに張り詰める。
後ろの朔影も、息を呑んだのが分かった。
私も愛染明王を握る手に力を込める。
分かっていた。
封印が通じないことも。
斬れないことも。
でも、目の前でこうして当然みたいに言われると、腹の底が煮える。
晴明はそんなこちらの反応を気にした様子もなく、静かに私を見た。
その視線が、また腹の奥をざわつかせる。
「さて、素戔嗚神奈。率直に言おう」
嫌な予感がした。
さっきまでの嫌悪が、今度はもっとはっきりした形を持って迫ってくる。
晴明は、穏やかに言った。
「私の子を産んでくれないかい」
「は?」
間の抜けた声が出た。
自分でも驚くくらい、頭が一瞬真っ白になった。
何を言われたのか、理解したくなかった。
でも、理解してしまった。
その瞬間、全身の血が一気に冷えた。
晴明は、そんな私の反応すら想定内だと言わんばかりに続ける。
「母と父によって産まれたこの躰には愛着はあって、誤魔化してはいるのだけど、そろそろ限界でね。だから素体が欲しい」
ぞわり、と全身に鳥肌が立った。
嫌悪の正体が、言葉になって目の前へ突きつけられる。
輝夜の声が、低く響いた。
「……まさか神奈さまに子を産ませて、それに転生するおつもりですか」
晴明は少しだけ考えるように目を細め、それから穏やかに首を傾けた。
「転生というよりは憑依かな。母体にいる時に少しコーディネートを――」
最後まで聞く必要なんてなかった。
私は地面を蹴っていた。
考えるより先に身体が動いていた。
愛染明王を振りかぶり、そのまま晴明へ斬りかかる。
青白い刃が一直線に走る。
けれど、当然のように手応えはなかった。
斬撃は晴明の身体をすり抜け、その向こうにあった土牢の壁を深く裂いた。
鈍い音を立てて、封印術でできた土壁が崩れる。
そんなことはどうでもよかった。
「キモイキモイキモイキモイキモイ……!」
口から勝手に言葉が零れた。
止まらない。
止められない。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
全身に鳥肌と蕁麻疹が同時に出たみたいな寒気が走る。
皮膚の上を無数の虫が這い回っているみたいだった。
腹の奥が捩れる。
吐き気が込み上げる。
触れられてもいないのに、身体の内側へ勝手に手を突っ込まれたような不快感が消えない。
(太公望! まだ見えないの!)
《はい。まだ対抗術式を製作している最中です。どんな術式原理か把握できない時間がかかっています》
太公望の声にも焦りが滲んでいた。
珍しい。でも、それだけ相手が厄介だということだ。
晴明は、私の反応を見ても少しも動じなかった。
むしろ静かに観察している。
そのことがまた腹立たしい。
「――さっきも言ったけど、今の私に攻撃は意味がないよ」
晴明は、私の苛立ちも嫌悪も、まるで面白い見世物でも眺めるみたいに受け止めていた。
その目が気に入らない。
こっちがどれだけ吐き気を堪えていても、あいつにとっては観察対象でしかない。
それが分かるから、余計に腹が立つ。
「それに、私のことがキモイというのなら、彼女はどうなんだろうね」
晴明の視線が、すっと横へ流れた。
輝夜の後ろに立つ朔影へ向く。
朔影の肩が、ぴくりと震えた。
その反応だけで、胸の奥に嫌なものが落ちる。
晴明はそれを見逃さない。
むしろ、その一瞬の揺れを待っていたみたいに、口元をわずかに歪めた。
「……前世のことは、ある程度折り合いがついてる」
自分に言い聞かせるみたいに、私は言った。
完全に整理できているわけじゃない。
そんなこと、自分が一番よく分かっている。
でも、少なくとも前よりは向き合えているつもりだった。
前世のことも、閂のことも、輝夜のことも。
晴明は、そんな私の言葉を鼻で笑うでもなく、ただ静かに返した。
「ほんとうに?」
その一言が、妙に冷たかった。
嘲笑っている。
声を荒げてもいないのに、それがはっきり分かる。
「素戔嗚神奈。君の従者……閂と言ったかな。どうして前世で攫われたと思ってるんだい」
「……私の冷静さを奪って殺すためでしょう」
即答だった。
そうとしか思っていなかった。
実際、晴明はそういうつもりだったはずだ。
私を怒らせ、判断を鈍らせ、殺す。
それは分かりやすい。分かりやすい悪意だ。
でも、晴明は小さく首を傾けた。
「確かに私はそうだったけど、協力者まで一緒とは限らない」
喉の奥が、ひやりと冷えた。
「なにが、いいたいの」
声が低くなる。
聞きたくない。
でも、聞かないわけにもいかない。
そんな最悪の間だった。
晴明は、穏やかに言った。
「彼女は、閂が邪魔でいなくなって欲しかったんだよ」
「そ、そんなことはありません!」
朔影の声が裏返った。
輝夜の後ろで、身体を震わせながら叫ぶ。
「私は閂さんを邪魔だなんて、そんな、そんなことは――」
否定の言葉は出ている。
でも、その声は強くなかった。
言い切る前に、自分で足元を失っているみたいな響きだった。
晴明は容赦しない。
「はたしてそうだろうか」
穏やかな声。
だからこそ、余計に残酷だった。
「キミは素戔嗚神奈に恋していた。同性ではあるものの、一人の女性として愛してしまった。でもね、男性は天ノ宮蒼天がいる。女性は扉間閂がいる。素戔嗚神奈の一番にはなれない」
朔影の呼吸が乱れるのが分かった。
輝夜も、すぐには言葉を挟めない。
私も、胸の奥がざわついて、すぐに否定の言葉が出てこなかった。
晴明は続ける。
「天ノ宮蒼天は次期天皇だ。いなくなることはない。でも、従者である閂は? なにかしらの事故や事件に巻き込んで、いなくなる可能性がある」
「ちがう……ちがうちがうちがうちがう!」
朔影が頭を振る。
その否定は、晴明へ向けたものというより、自分自身へ向けたものに聞こえた。
聞きたくない。
認めたくない。
そういう響きだった。
「っ。出鱈目を言わないで!」
私は怒鳴るように言った。
言いながら、自分の声に焦りが混じっているのが分かる。
晴明はそこも見ている。
見て、楽しんでいる。
「出鱈目かな」
晴明は、少しだけ目を細めた。
「素戔嗚神奈。キミは前世で閂を殺した。その後で閂は記憶を封じられたね。その時の言葉を最後まで覚えているかな」
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
閂の最期。
血の匂い。
崩れ落ちる身体。
自分の手。
あの時の光景が、嫌でも脳裏に浮かぶ。
記憶の奥底に沈んでいた声が、ノイズ混じりに浮かび上がった。
『……神奈……さま……私に……記憶を……閉じ………』
掠れている。
途切れている。
でも、確かに閂の声だった。
頭の奥で、何かが軋む。
曖昧だった記憶の輪郭が、少しだけ明るくなる。
『これで……輝夜……さま……仲良く……二人……』
動悸が激しくなる。
胸が痛い。
息が浅くなる。
どうして。
どうして、そこで輝夜の名前が出る。
どうして、二人で仲良くなんて言葉になる。
晴明の声が、そこへ静かに差し込んできた。
「彼女はどうして愚行に至ったのか、輝夜本人でさえ知りえていない理由を、真に理解していたようだね。だから、記憶を封じた。自分の記憶さえなければ、二人は一緒に仲良くしてくれると。そう切に願ってね」
そこで一拍置く。
わざとだ。
こっちが傷口を自覚するのを待っている。
「……まあ、その願いは果たされる事はなかったのだけど」
「ぁ……ぅぅ……ぁぁぁ――」
朔影が、崩れるみたいな声を漏らした。
立っているのもやっとみたいに身体を震わせている。
「朔影っ。しっかりしてください!」
輝夜が振り返り、朔影を支える。
その声には焦りが滲んでいた。
でも、朔影はうまく反応できていない。
呆然としている。
目の前の言葉を否定したいのに、完全には否定しきれない。
そんな顔だった。
その様子が、何より雄弁だった。
違う、と言い切れない。
出鱈目だと笑い飛ばせない。
その沈黙と震えが、晴明の言葉に対する答えみたいに見えてしまう。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになる。
怒りなのか、動揺なのか、悲しみなのか、自分でも分からない。
ただ、晴明の顔だけは見たくなかった。
その穏やかな顔で、全部分かったように語るな。
人の傷を勝手に並べて、理解したつもりでいるな。
私は愛染明王を振り上げ、再び晴明へ斬りかかった。
分かっている。
意味がないことくらい。
さっき自分で確かめたばかりだ。
それでも、斬らずにはいられなかった。
青白い刃が晴明の身体をすり抜ける。
やっぱり手応えはない。
空を斬ったみたいに虚しいだけだ。
晴明は、わずかに肩をすくめた。
「さっきと同じだよ。私に攻撃したところでダメージを与えることはできない。少しは学習をしないとね」
「ならば、これはどうじゃ」
低い声が、横合いから割って入った。
次の瞬間、一本のドスが飛んだ。
空気を裂く音は小さい。
でも、異様に速かった。
ただ投げたというより、そこへ最初から在ったものが急に晴明の頬元へ現れたみたいな軌道だった。
晴明の目が、わずかに細くなる。
何かを感じ取ったのだろう。
身体をずらして回避する。
完全には避けきれなかった。
頬に、浅い傷が走る。
白い肌が裂け、そこから赤い血が一筋だけ流れた。
私は目を見開いた。
輝夜も息を呑む。
後ろの朔影が小さく息を詰めた。
晴明自身も、ほんの少しだけ意外そうに頬へ触れた。
「まさか幽脈顕影で出した存在に、傷をつけられるとはね」
その声には、初めてわずかな驚きが混じっていた。
晴明は袖で傷口を拭う。
すると、裂けたはずの頬は何事もなかったみたいに元へ戻った。
血の跡すら残らない。
「お久しぶりです、屋島大親分。感知できないけど、白姥さまもいらっしゃるのかな」
晴明が向けた視線の先に立っていたのは、太三郎大親分だった。
着流し姿のまま、気負いもなくそこにいる。
でも、立った瞬間に場の空気が変わる。
幽世路の冷気とも、晴明の不快さとも違う。
もっと古くて、もっと濃い、暴力そのものが人の形を取ったみたいな圧だった。
白姥の姿は見えない。
気配も感じない。
でも、晴明の言い方からして、たぶんいる。
見えず、感知もできないまま、この場のどこかに。
そう思うだけで、背筋に別の冷たさが走った。
太三郎大親分の目が細くなり、視線だけで空気が重くなった。
「黙れ、狐の倅。四国はワシらのシマじゃ。脳筋の阿呆を四国に呼び出した挙句、その後もこそこそと企みおって。戦争でもしたいがか」
脳筋の阿呆。
たぶん酒呑童子のことだろう。
でも今は、そんなことを考える余裕もなかった。
晴明は肩をすくめるでもなく、穏やかな顔のまま答える。
「……まさか。私の独断で戦争を起こす気はないですよ。今は、ね」
「ああん!」
太三郎大親分の声が低く唸る。
怒鳴ったわけじゃない。
でも、その一音だけで空気が軋んだ気がした。
晴明はわずかに目を細め、それから小さく息を吐く。
「屋島大親分に白姥さまが相手では、たとえ幻影でも殺されるかもしれないね。――ここは退くとしよう」
その言葉に、私は反射的に晴明を睨みつけた。
退く。
好き勝手言って、好き勝手気持ち悪いことを言って、それで終わりみたいな顔をするな。
晴明は最後に、私へ視線を向けた。
その目が、また腹の奥をざわつかせる。
「神奈。私の妻となり、私を産むものよ。また会いに来るよ」
「二度と来るな!」
叫ぶように返す。
喉が焼けるみたいに痛かった。
晴明は笑みを絶やさないまま、その姿をゆっくりと薄れさせていく。
輪郭が揺らぎ、霧に溶けるみたいに崩れ、最後には本当に蜃気楼みたいに消え去った。
静かになった。
でも、静かになっただけだった。
嫌悪は消えない。
鳥肌も、腹の奥の不快感も、まだ残っている。
愛染明王を握る手に、じっとりと汗が滲んでいた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
晴明が消えた後の空間を睨んだまま、荒くなった呼吸をどうにか整える。
(気持ち悪い……)
改めてそう思う。
強いとか、厄介とか、そういう言葉じゃ足りない。
あれは存在の仕方そのものが気持ち悪い。
敵としてどうこう以前に、絶対に近づけてはいけないものだと、本能が叫んでいた。
それに、あいつは強いだけじゃない。
私たちの中へ土足で踏み込んで来て、傷を見つけて、抉って、ぐちゃぐちゃにしていく。
厄介この上ない相手だ
幽世路の冷気が、遅れて肌を撫でる。
それでも、さっきまでの寒気の方がずっと嫌だった。
読んでいただきありがとうございました。
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