36話 嫌悪
幽世路に入ってから、どれくらい歩いただろう。
途中で何度も鳥居を抜け、その先にある螺旋階段を下った。
一度。
二度。
三度。
今、私たちは幽世路四層を進んでいた。
景色は相変わらず、道らしい道のない左右対称の世界だった。
歪んだ木々。
ひび割れた地面。
薄暗い靄。
場所によっては霧が濃く立ち込め、十数歩先すら怪しくなる。
方位磁石はとっくに役に立たない。
針は落ち着かず、北を指そうとしているのか、ただこの場所の理に振り回されているだけなのかも分からなかった。
それでも、ここまで来られた。
太公望の補助と、私自身の感覚、それに輝夜の索敵と術が噛み合っていたからだ。
幽世路の妖魔は現世境より一段強い。
瘴気が濃いぶん、速さも膂力も、しぶとさも底上げされている。
でも、対処できないほどじゃない。
慎重に間合いを測り、無理に踏み込みすぎなければ、十分に斬れる。
輝夜の術も、視界の悪いこの場所ではむしろありがたかった。
霧の向こうに潜む気配を炙り出し、群れの動きを止め、私が斬る隙を作る。
その繰り返しで、私たちはここまで進んできた。
ただ、さすがに少し疲れた。
霊力はまだ余裕がある。
でも、集中力はじわじわ削られている。
幽世路は敵だけじゃなく、場所そのものが神経を摩耗させてくる。
似た景色ばかりが続くせいで、歩いているだけでも感覚が少しずつ擦り減っていくのが分かった。
その先で、私は足を止めた。
黒い四脚門が見えた。
現世境から幽世路へ入る時に見たものと同じ、光を吸い込むような黒。
灰色と白ばかりの景色の中で、その黒だけが妙に濃い。
前世の記憶が、すぐにそれを門だと告げていた。
ここまでだ。
前世の記憶では、よさこい稲荷神社から下りる黄泉比良坂・幽世路は四層までしかない。
つまり、この先はもう中層じゃない。
下層――根国に入る。
「ここまでだいたい六時間かぁ。躰を慣らす為にゆっくりしてたし、こんなもんかな」
思ったまま口にすると、隣の輝夜がじっとこちらを見た。
その視線に、少しだけ嫌な予感がする。
「……神奈さま。ここまでですからね」
「うん?」
「もう振り切って行くなら、閂さんに報告します」
「……行かないよ」
間が空いたのは、たぶん気のせいじゃない。
輝夜の目が細くなる。
疑っている。
かなり疑っている。
まあ、気持ちは分かる。
一人だったら、たぶん少し迷った。
前世の記憶がある以上、この先がどういう場所かも、どれだけ危険かも知っている。
知っているからこそ、今の自分がどこまで通じるのか試したくなる気持ちはある。
でも、今日は輝夜も一緒だ。
ここから先へ進めば、帰る時の霊力も考えないといけない。
私一人なら多少無茶もできるけど、二人で潜っている以上、そこは別だ。
少なくとも今日は、一度退いた方がいい。
それくらいの分別はある。
私は四脚門を見上げた。
黒い門は、ただそこにあるだけなのに妙な圧があった。
幽世路の終点。
そして、根国への入口。
前世では何度も見たはずなのに、今こうして改めて前にすると、やっぱり気分のいいものじゃない。
帰ろう。
そう思って踵を返しかけた、その時だった。
ギギギ、と。
耳障りな音が響いた。
錆びついた何かを無理やり動かしたみたいな、不快な音だった。
私は反射的に振り向く。
輝夜も同時に身構えた。
黒い四脚門の扉が、ゆっくりと開いていた。
内側は暗い。
ただの闇じゃない。
奥行きの感覚が曖昧になるような、底の見えない暗さだった。
そこから、ひとつの影が歩いてくる。
青年だった。
黒髪を腰のあたりまで伸ばしている。
顔立ちは整っていた。
整いすぎていて、逆に人形じみて見えるくらいだ。
けれど、何より異様だったのは服装だった。
シャツ。
ズボン。
黄泉比良坂には似つかわしくない、まるでどこかの会社員みたいな格好。
この灰色と黒の世界の中で、その妙に現代的な普通さだけがひどく浮いていた。
場違いだ。
なのに、その場違いさが逆にこの場を侵食しているみたいで、ぞっとする。
私と輝夜がその青年を見ていた時だった。
輝夜の影が揺れた。
次の瞬間、そこから朔影が飛び出してくる。
「神奈姉さん! 気をつけてください。あの方は――晴明さまです!」
晴明。
その名を聞いた瞬間、思考より先に身体が動いた。
愛染明王の柄を握り、半歩前へ出る。
輝夜も印を結び、すぐに術を放てる姿勢を取っていた。
目の前の青年は、そんな私たちを見ても表情を変えない。
ただ静かに、こちらを見ている。
値踏みするみたいに。
品定めするみたいに。
《此には見えていません。また感じ取れていません。神奈さま。本当にいるんですか》
太公望の声が、頭の奥でわずかに揺れた。
珍しい。
あの太公望が、はっきり困惑している。
(……いる。でも、気配はほとんどないかな)
私は目を細めた。
(まるで蜃気楼。そこに立ってるのに、立ってないみたいな感じ)
本当にそこに立っている。
目にも映っている。
声も届く。
でも、気配だけが異様に薄い。
存在感がないわけじゃない。
むしろ逆。
目に入るだけで腹の奥がざわつくくらいには、強烈にいる。
なのに、その存在が一点に結ばれていない。
地面の下を流れる何かに薄く滲み、それがたまたま人の形を取っているみたいな、そんな気配だった。
見えているのに、掴めない。
蜃気楼とか、幻とか、そういうものに近い。
青年――晴明が、わずかに口元を緩めた。
「さすがに勘がいいね」
穏やかな声だった。
褒めているようにも聞こえるのに、少しも嬉しくない。
「この術は幽脈顕影。霊脈へ私の情報を書き込み、ここへ影を映しているだけだよ。分身でも幻術でもない。だから太公望には少し捉えにくいだろうね」
《霊脈への投影……》
太公望の声が低くなる。
解析しようとしているのが分かった。
晴明は続けた。
「もっとも、それだけでは君の中のそれには見抜かれるかもしれない。だから少し調整も加えてある。【我、境界の外より観測す】は厄介だからね」
その言葉に、背筋が冷えた。
なんで、それを知っている。
少し考え思い当たることがあった。
輝夜によって私の魂魄から朔影の魂魄が剥された、あの時だ。
あいつも一緒にいた。
私の中にいて、私が見たものの一部を持っていった。
修羅道無限回廊のことも。
太公望のことも。
私が何を得たのかも。
気持ち悪い。
思い出しただけで、ぞっとする。
《……此の存在を認知したうえで、観測対策を施したということですか》
太公望の声が、今度ははっきりと警戒を帯びた。
晴明は、まるで出来のいい生徒に答え合わせでもするみたいに、穏やかに頷いた。
「そういうことだよ。君は便利すぎる。だから今日は、少し不便でいてもらうことにした」
さらりと言う。
まるで、少し珍しい道具の使い方でも説明するみたいに。
でも、その内容は十分すぎるほど厄介だった。
つまり、目の前にいるように見えても、これは斬れない。
攻撃も届かない。
こちらの術も、スキルも、何も干渉できない。
そのうえ太公望の観測までずらされている。
晴明本人は安全な場所にいたまま、こうして私たちの前へ姿だけを寄越している。
「……どういう、つもり」
自分でも驚くくらい、声が低くなった。
晴明は私の問いに、少しだけ首を傾けた。
その仕草は穏やかで、どこか人当たりが良さそうにすら見える。
でも、その穏やかさがひどく不快だった。
「挨拶だよ。せっかくここまで来たんだ。顔くらい見ておこうと思ってね」
その言い方が、ぞっとするほど自然だった。
まるで旧知の相手にでも会いに来たみたいな口ぶり。
でも、そんなはずがない。
こいつは敵だ。
それも、最悪の部類の。
晴明は私を見ていた。
その視線には敵意とも殺意とも違う、もっと不快なものがあった。
観察。
理解。
利用。
そういうものを当然のように含んだ目だった。
違う。
それだけじゃない。
見られている。
もっと奥まで。
皮膚の上じゃない。
肉でもない。
腹の奥。
そこを、触れられてもいないのに勝手に覗き込まれているような、最悪の不快感があった。
この男は、私を人として見ていない。
強いか弱いか。
敵か味方か。
そういう見方ですらない。
もっと機能的で、もっと冷たい。
使えるかどうか。
耐えられるかどうか。
何かを宿せるかどうか。
理屈じゃない。
でも、分かってしまう。
こいつの視線は、そういう類のものだ。
喉の奥がひきつる。
吐き気に似たものがせり上がった。
触れられてもいないのに、勝手に汚されたような気分になる。
前世では会わなかった相手だ。
直接顔を合わせるのは、これが初めてのはずだった。
なのに駄目だった。
目にした瞬間から、本能が全力で拒絶している。
嫌悪。
怒りより先に、それが来る。
存在そのものを拒絶したくなるような、生理的な拒否感だった。
私は愛染明王を握る手に力を込めた。
青白い刃が、わずかに唸るように揺れる。
晴明はそんな私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
その仕草さえ、値踏みの続きをされているみたいで、ひどく不快だった。
「そう怖い顔をしなくてもいい。今日は戦いに来たわけじゃない」
「信用できるわけないでしょ」
吐き捨てるように言うと、晴明は少しだけ笑った。
楽しそうというより、こちらの反応を予想通りだと受け取った時の笑みだった。
「だろうね。だが、事実だよ。幽脈顕影では何もできない。せいぜい言葉を届けるくらいのものさ」
その言葉が本当でも、安心なんてできるわけがない。
何もできない相手だから怖くない、なんて話にはならない。
むしろ逆だ。
安全圏からこちらを見下ろし、好きな時に姿だけを寄越してくる相手の方が、よほど気味が悪い。
輝夜の気配も張り詰めていた。
印を結んだまま、一歩も動かない。
朔影もまた、晴明を睨みつけている。
でも、そのどれもが晴明には届かない。
届かないと分かっているからこそ、余計に腹が立つ。
《神奈さま。解析を進めていますが、現時点では干渉手段を見出せません》
(うん。分かってる)
分かっている。
分かっているけど、気分は最悪だった。
斬れない相手。
届かない敵。
それだけでも厄介なのに、目の前のこいつはそれ以上に不快だった。
存在の仕方そのものが、気に入らない。
晴明はそんなこちらの空気を気にした様子もなく、静かに言った。
「素戔嗚神奈。君はやはり面白いね」
その一言で、背筋が冷えた。
面白い。
たったそれだけの言葉なのに、ひどく嫌だった。
褒められているわけじゃない。
評価されているわけでもない。
もっと別の、何かの材料を見るような響きがあった。
私は無意識に一歩踏み込みかけて、止まった。
斬っても意味がない。
分かっている。
分かっているのに、身体の方が先に拒絶していた。
晴明は私の反応を見て、また少しだけ目を細めた。
その穏やかな顔が、どうしようもなく気持ち悪い。
幽世路の冷気とは別の寒気が、背中を這っていた。
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