35話 幽世路
四脚門をくぐった瞬間から、空気の質が変わっていた。
現世境にも瘴気はあった。
冷たさも、乾いた不快さも、肺の奥へ沈んでいくような感覚もあった。
けれど、幽世路のそれは少し違う。
濃い、というだけじゃない。
もっと輪郭が曖昧で、触れているはずのものの境目をじわじわと溶かしていくような嫌らしさがあった。
足元の感触はある。
地面を踏んでいるのも分かる。
でも、それが本当に自分の思っている位置にあるのかと問われると、急に自信がなくなる。
視界に映る景色も同じだった。
道らしい道はない。
ただ、左右対称に似たような景色がどこまでも続いている。
歪んだ木々。
ひび割れた地面。
薄暗い靄。
ところどころに立ち込める霧。
どちらを向いても似たような景色ばかりで、今自分がどちらから来て、どちらへ向かっているのか、意識していないとすぐに曖昧になる。
方位磁石も、門をくぐってすぐに役に立たなくなった。
針が落ち着かない。
北を指そうとしているようにも見えるし、ただ気まぐれに震えているだけにも見える。
現世の道具を持ち込んだところで、この場所の理には追いつけないらしい。
神隠しの道。
なるほど、よく言ったものだと思う。
こんな場所で一度でも感覚を見失えば、帰る方向どころか、自分がどこに立っているのかすら分からなくなりそうだった。
でも、不思議と恐怖はなかった。
面倒だとは思う。
厄介だとも思う。
けれど、怖いかと言われると、そうでもない。
むしろ、こういう露骨におかしい場所の方が、私は対処しやすい。
最初から理不尽だと分かっているなら、そういうものとして扱えばいいだけだ。
地上みたいに、普通の顔をしたまま中身だけ歪んでいるものの方が、よほどやりにくい。
《神奈さま。現在地の固定は困難です。進行方向の補助は行いますが、誤差は現世境より大きくなります》
(うん。十分)
頭の奥で響く太公望の声は、こういう場所でも妙に落ち着いていた。
それだけで少し気が楽になる。
頼り切るつもりはないけど、頼れるものがあるのは単純に助かる。
隣を歩く輝夜は、周囲を警戒しながらも足取りを乱していなかった。
狩衣の袖が、湿ったような冷気を含んだ風にわずかに揺れる。
現世境よりも視界は悪い。
霧が濃い場所では十数歩先すら怪しい。
それでも輝夜は、足元も周囲もきちんと見ていた。
やっぱり、こういう場所でも強い。
幽世路に入ってから、何度か妖魔は現れた。
出てくる種類自体は、現世境とそこまで変わらない。
人型のもの。
獣じみた四肢で這うもの。
首や腕だけが妙に長いもの。
見た目だけなら、さっきまで相手にしていた連中の延長線上だ。
ただし、中身は違う。
瘴気が濃いせいか、どいつもこいつも一段ずつ底上げされている。
速さも、膂力も、しぶとさも。
現世境と同じ感覚で踏み込めば、普通に痛い目を見る。
最初の一体でそれを思い知ってからは、私は最初から一段上として扱うことにした。
霧の向こうから飛び出してきた妖魔を愛染明王で斬り、浅ければ追撃する。
輝夜の雀が群れの動きを止め、その隙を私が拾う。
現世境より慎重に、でも止まらずに。
そうして進めば、幽世路の妖魔も十分対処できた。
やっぱり現世境よりは面倒だ。
でも、無理というほどじゃない。
相手の底上げをきちんと見込んで、踏み込みと間合いを少し慎重にする。
それだけで十分対応できる。
輝夜の術も、こういう視界の悪い場所ではむしろありがたかった。
面で焼き、動きを止め、位置を炙り出す。
霧の向こうにいる相手にも圧をかけられるのは大きい。
私たちはそのまま進んだ。
幽世路の景色は、歩いても歩いても似たような顔をしている。
左右対称に見える地形。
どちらを向いても同じような木々。
同じような霧。
同じようなひび割れた地面。
時々、本当に前へ進んでいるのか分からなくなる。
でも、足を止めても仕方ない。
止まったところで、この場所が親切に答えをくれるわけでもない。
戦いながら、私は妙に気が立っている自分を自覚していた。
別に、目の前の妖魔が特別強いわけじゃない。
幽世路の空気が神経を逆撫でしているのかとも思ったけど、それとも少し違う気がする。
胸の奥に、細い棘みたいな違和感が引っかかっていた。
理由は分からない。
でも、どうにも落ち着かない。
落ち着かないくせに、妙に一点へ向かって苛立ちが集まっている感じがする。
霧の向こうから現れた妖魔を、私は少し強めに斬った。
いや、少しじゃない。
たぶん、かなり強めだ。
愛染明王の刃が肩口から腰まで深く走り、妖魔は断末魔を上げる暇もなく霧散した。
「神奈さま」
輝夜の声が、少しだけ不思議そうに響いた。
私は振り返る。
輝夜は火と風の雀を待機させたまま、こちらを見ていた。
その目は警戒ではなく、純粋な疑問を含んでいる。
「なにか力んでいますが、どうかしましたか」
「んー」
私は愛染明王を肩に担ぎ、少しだけ考える。
考えても、やっぱり理由はよく分からない。
でも、感覚としては妙にはっきりしていた。
「どうしてか樒を殴りたくなった」
「……はい?」
輝夜が珍しく、きょとんとした顔をした。
うん。
自分でも意味が分からない。
でも、本当にそうなのだ。
今この瞬間、なぜか無性に樒を一発殴りたくなっている。
理屈はない。
根拠もない。
ただ、あいつがどこかで余計なことをした気がする。
しかも、かなり余計なことを。
野生の勘、としか言いようがなかった。
前世からそうだけど、私はたまにこういう妙な直感が当たる。
嫌な予感とか、ろくでもない気配とか、そういうものだけは変に当たる。
嬉しい方向にはあまり働かないくせに、面倒事の察知だけは妙に鋭い。
今回もたぶん、その類だ。
樒が何をしたのかは分からない。
でも、たぶん私にとって都合の悪いことか、恥ずかしいことか、その両方だ。
そう考えると、余計に腹が立ってきた。
「……樒さんが、ですか」
輝夜はまだ少し戸惑った顔をしていたけど、すぐに何か納得したように小さく頷いた。
「それは、たぶん殴っていいと思います」
「でしょ?」
思わず即答してしまった。
輝夜がこういう時にあっさり同意してくれるの、ちょっと好きだ。
とはいえ、今ここで樒を殴りに行けるわけでもない。
あいつがどこにいるのかも分からないし、そもそも私は今、幽世路の真ん中にいる。
目の前の面倒を片づける方が先だ。
《神奈さま。前方、反応四。左右に分散しています》
(うん。来たね)
私は愛染明王を握り直した。
胸の奥の妙な苛立ちは消えていない。
でも、こういう時はむしろ都合がいい。
余計なことを考えずに済む。
目の前に敵がいるなら、斬ればいい。
それだけだ。
霧の向こうで、複数の影が揺れた。
私は小さく息を吐き、青白い刃を構える。
――樒。
もし本当に余計なことをしていたなら、あとで覚えておいてよね。
そんなことを思いながら、私は再び地を蹴った。
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