34話 Y談
SIDE:天ノ宮蒼天
喫茶店ファウストは、高知城近くの通りにひっそりと佇んでいた。
石造りを思わせる外壁に、深い色合いの木枠の扉。
店内へ入れば、磨かれた床板と落ち着いた照明、壁際に並ぶ古い額縁や装飾棚が目に入る。
どこかヨーロッパ風の意匠で統一された内装は、華美というより静かな品があった。
昼前の時間帯ということもあって客は多くなく、店内には食器の触れ合う小さな音と、控えめな話し声だけが流れている。
神奈たちが潜ったよさこい稲荷神社から、徒歩で数分。
本来なら、こんな場所で悠長に珈琲を飲んでいる場合ではなかった。
私は神奈たちを追って黄泉比良坂へ潜るつもりだった。
樒も同じ考えだったらしい。
だが、神社へ戻ったところで、私の影がそれを止めた。
神奈は神奈で、自分の意思で潜った。
輝夜も同行している。
それを追う形で大人二人がぞろぞろ入っていけば、護衛ではなく監視になる。
しかも、こちらにはこちらの立場がある。
蒼天さまは少し落ち着いてください、と影に静かに言われてしまえば、強引に押し切るわけにもいかなかった。
結果として、私はこうして喫茶店の窓際席に座っている。
向かいには、彼岸樒。
落ち着いた店の空気に、この女だけが妙に馴染んでいなかった。
いや、外見だけならむしろ似合っているのかもしれない。
柔らかな笑みを浮かべ、どこか人好きのする顔で、洒落た店にも気後れしない。
だが、その内側にあるものが、こういう静かな場所と決定的に噛み合わない。
樒はメニューを閉じると、楽しげに口を開いた。
「それじゃ、待ってる間はY談をするッス」
「……しないぞ」
即答した。
樒はまるで予想通りの返答をもらったみたいに、にこにこと頬杖をつく。
「こういう機会じゃないと出来ないッスよ。風臥さまとか、いつも蒼天さまの周りにいる人は真面目タイプじゃないッスか。不真面目な美少女の私と一緒の時ぐらい、腹を割ってのY談はできないッス」
「……しないぞ」
「二回言ったッスね」
「一回で諦める相手なら、最初から言わないだろう」
「よく分かってるッス」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からない調子で、樒は肩をすくめた。
店員が運んできた珈琲から、静かに湯気が立ちのぼる。
深い香りが鼻先をかすめた。
本来なら気持ちを落ち着けるはずの香りなのに、向かいに座る相手のせいでまるで効かない。
私はカップに手を伸ばしながら、窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。
よさこい稲荷神社の方角は、ここからは見えない。
見えないからこそ、余計に気になる。
神奈は今ごろ、どこまで進んでいるのだろう。
現世境か。
それとも、もっと先か。
「まあまあ。きちんとおかずは用意してるッス」
嫌な予感しかしない言い方だった。
私は眉をひそめる。
その間に、樒は向かいの席から立ち上がっていた。
何をするつもりだと思うより早く、わざわざ私の横へ回り込んでくる。
「おい」
「いいから見るッス」
止める間もなく、樒はスマートフォンの画面をこちらへ向けた。
「ッ。おい――これは!」
思わず声が低くなる。
映っていたのは、寝起きの神奈だった。
見慣れない部屋。
見慣れた顔。
まだ眠気の残る動きのまま、パジャマを脱ごうとしているところだった。
角度のせいか、決定的なものは映っていない。
だが、映っていないから問題が軽いわけではない。
私は反射的に顔を背けた。
「貴様、何を考えている」
「こういうのは見えるよりも、見えない方が想像力を掻き立てるッスよね」
樒は悪びれもせず、むしろ感心したような口調で続ける。
「どんな下着をつけているか気にならないッスか。白い標準タイプ、スポーツブラみたいな動きやすいタイプ。あとは蒼天さまが来ているから、ちょっと大人っぽい勝負仕様かもしれないッス」
「――」
返す言葉もなかった。
いや、正確にはある。
あるが、店の中で口にするにはあまりに不適切なものばかりだった。
私はスマートフォンから視線を逸らし、そのまま窓の外へ目を向けた。
通りを歩く人々は穏やかで、春の光も柔らかい。
それなのに、隣から聞こえてくる声だけがひどく場違いだった。
神奈のことを、そういう目で見たことがないわけではない。
それは否定しない。
年頃の男として当然の反応くらいはある。だが、それとこれとは話が別だ。
本人の知らないところで、こんな形で見せられていいものではない。
「む。これじゃ満足できないッスか」
樒が小さく唸る。
「それじゃ…………これなんてどうッス?」
嫌な予感が、今度は先ほどよりもはっきりとした形を持った。
樒が画面を操作する。
わずかにノイズ音が混じった。
その音に、私は反射的にそちらを見てしまう。
そして、息を呑んだ。
映っていたのは、神奈だった。
だが、今の神奈ではない。
成長している。
顔立ちは今の面影を残しているのに、輪郭は少し大人びていて、背丈も違う。
隣には、私がいた。
私もまた、今より年を重ねている。
二人とも、皇立高天原学園高等部の制服を着ていた。
ただし、神奈の制服はひどく傷んでいた。
布地は裂け、裾は汚れ、身体のあちこちに傷が走っている。
血の跡なのか、泥なのか、判別のつかない汚れが残っていた。
それでも立っている。
立って、こちらではないどこかを見ている。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
夢で見たものと似ている。
いや、似ているどころではない。
あの時、流れ込んできた無念と後悔の残滓が、映像という形で目の前に差し出されたような感覚だった。
「これは……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
樒は先ほどまでの軽薄な笑みを少しだけ引っ込め、画面を見たまま答える。
「蒼天さまが見た夢の、数年前ッス。高等部一年の時の出来事ッス」
高等部一年。
つまり、今の神奈よりも先の時間。
夢で見たものへ至る途中の、過去。
私は画面から目を離せなかった。
映像の中の私は、神奈へ向かっていた。
その表情は険しい。
神奈の方も、今よりずっと尖って見える。
追い詰められた者の目だった。
『神奈! もうやめろ。風臥もこんなことは望んではいない』
画面越しに響いた自分の声に、私は息を止めた。
神奈が、こちらを睨むように見返す。
その目には焦りと苛立ちと、何より切迫した決意があった。
『風臥兄さんに素戔嗚家当主代行を任されました。もっと強く、強く、誰にも負けないぐらい強くならないといけないんです。私のことは放っておいてください』
『放っておけるわけはないだろ』
『婚約者候補だからですよね。もう、いいです。私は結婚は諦めました。当主代行として死ぬまで前線で闘い続けて、酒呑童子を討ち倒します』
その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。
神奈は、そんな顔でそんなことを言うのか。
今の神奈も無茶をする。
危ういところがある。
だが、画面の向こうの神奈は、それよりもっと先へ行ってしまっていた。
自分の人生を、自分で切り捨てることに迷いがない。
結婚も、未来も、幸福も、全部いらないと言っている顔だった。
『……閂に子供を抱いてもらい、名付けしてもらうのが目標と言ってたじゃないか』
映像の中の私は、そう言った。
その言葉に、神奈の表情が一瞬だけ揺れる。
だが、すぐに強張った。
『だからです。閂を護るためにも、もっともっともっと強くならないと――』
「さっきの写真といい、神奈に気づかれずに、どうして撮れる」
私は画面から目を離さないまま問うた。
樒は肩をすくめる。
「私が持つスキルッス」
「……お前は【空は既に手の内】だけじゃないのか」
「私は百八個のスキルを所持してるッス」
思わず、言葉を失った。
百八。
あり得ない数字だ。
スキルは通常、一つか二つ。
多くても五つあれば異常と言っていい。
それを百八など、冗談にしか聞こえない。
だが、樒の顔には冗談を言う時の軽さがなかった。
直感が告げている。
これはブラフではない。
「これはスキル【過ぎし刻は未だ此処に】ッス。世界に刻まれた過去の記録を観測し、現在へ転写する時相観測型スキルッス。あくまで過去を見るスキルなので、未来は視えないッス。これは上司から調査を命じられた際に調べた、その一部ッス」
世界に刻まれた過去の記録。
それを観測し、今ここへ映し出している。
私は再び画面へ目を戻した。
映像は続いていた。
『神奈!』
『――ッ』
次の瞬間、映像の中の私は神奈を壁際へ追い込み、そのまま勢いで口づけていた。
私は完全に固まった。
樒が横で何か言った気がしたが、耳に入らない。
画面の中の神奈は目を見開き、顔を真っ赤にしている。
『な、なにするんです。わ、私、ファーストキス……』
『私が相手では嫌だったか』
『いや……じゃ。でも、こんなことで、私は、止まりま、んっ』
もう一度、映像の中の私は神奈の言葉を塞いだ。
私はこめかみを押さえたくなった。
だが、目を逸らせない。
神奈は混乱したまま、早口で言葉をこぼしていく。
『ぅぅ。どうして、婚約者候補なのに。私、女らしくないですよ。胸も寄せてあげないとないし、クビレも普通だし、可愛くないし、家事もできないし、コミュニケーションも苦手で、蒼天さまは輝夜のことが』
その自己否定の並べ方が、痛々しかった。
神奈はそんなふうに、自分を見ていたのか。
映像の中の私は、迷いなく言った。
『私はお前が好きだ。――私の子を産んでくれ』
喫茶店の空気が、一瞬止まった気がした。
いや、止まったのは私の思考の方かもしれない。
神奈は完全に固まっていた。
それから、信じられないものを見る顔で口を開く。
『は? はぁぁぁぁ。ぷ、プロポーズですか。同情とか、いりません。余計に惨めです』
『証拠が必要なんだな』
そこで、樒が画面を止めた。
「この後、生徒会室でするッスけど、そこまで見せたら私が神奈さまに殺されそうッスから、やめておくッス」
「……そうか」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。
樒が首を傾げる。
「ん。どうかしたッスか」
私はしばらく答えられなかった。
画面の中の神奈は、確かに私を見ていた。
だが、それは“向こう側の私”だ。
夢で無念を抱いた私。
神奈と同じ時間を積み重ねた私。
今ここにいる私は、その私ではない。
「……神奈は、向こう側の私を愛していたのであって、今の私のことは特になんとも思っていないのではないか」
口にしてから、自分でも情けないことを言ったと思った。
だが、樒は笑わなかった。
「そんなことはないと思うッス」
「……」
「私は二人を応援するッス。もしかしたら神奈さまは他に好きな人ができる可能性はゼロじゃないッスけど、そんな博打にかけるよりは、蒼天さまと結ばれた方が安牌ッスからね」
励ましているのか、雑に背中を押しているのか分からない言い方だった。
だが、樒なりの本音なのだろう。
私は小さく息を吐いた。
その時だった。
「ほう……。わしの賭場で借金こさえて、地べたに額をこすりつけたおまんが、ずいぶん賢う立ち回るようになったのう」
声は低かった。
怒鳴ったわけでもない。
むしろ、よく通るのに妙に静かな声だった。
それなのに、その一言が落ちた瞬間、店の空気が変わった。
食器の触れ合う音が、遠のく。
店内に流れていた小さな話し声も、いつの間にか消えていた。
いや、実際に消えたのかどうかは分からない。
ただ、私の意識から一斉に押し流されたように感じた。
樒の顔色が変わる。
さっきまで蒼天をからかっていた女とは思えないほど、露骨だった。
血の気が引き、目が見開かれ、唇がひくりと震える。
次の瞬間、椅子を鳴らすことすら忘れたみたいに、するりと身体を滑らせてテーブルの下へ潜り込もうとした。
「ひっ……」
短い悲鳴。
それは演技じゃなかった。
本物の怯えだった。
「樒。誰だ」
問いかけながら、私はゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、年嵩の男だった。
着流し姿。
派手ではない。
むしろ地味ですらある。
だが、その地味さが逆に異様だった。
飾らなくても隠しきれないものがある。
そういう類の人間だった。
背はそこまで高くない。
体格も、巨漢というほどではない。
それでも、目に入った瞬間に分かる。
この男を、ただの老人として認識してはいけない。
立っているだけで、場の重心がそちらへ引きずられる。
喫茶店ファウストの落ち着いた空気が、その男を中心に静かに歪んでいた。
店内の照明も、磨かれた床も、珈琲の香りも、その男の前では急に薄っぺらく感じる。
ここが洒落た喫茶店ではなく、何か別の場所へ塗り替えられていくような錯覚があった。
男は笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、そこにいるだけだった。
それだけで、喉の奥がわずかに強張る。
神力とも妖力とも違う。
もっと古く、もっと粘ついた何か。
長い時間を生き、数え切れない修羅場を越え、それでもなお削れずに残った格みたいなものが、皮膚の上をじわりと這ってくる。
樒が、テーブルの下から震えた声を絞り出した。
「し、四国最大勢力であるヤクザ組織、隠神刑部組の組長ッス……。気をつけるッス。今は四死妖は禰々子河童ッスけど、屋島太三郎さんは、かつては四死妖の一体で、九尾である玉藻前と争った相手ッス……」
私は男から目を離さなかった。
屋島太三郎。
その名は知っている。
四国の裏を束ねる大妖怪。
変化において大和一とも囁かれる存在。
だが、名前で知るのと、実際に相対するのとではまるで違った。
知識としての危険ではない。
身体が先に理解している。
この男は、下手な神具や術式よりよほど厄介だと。
太三郎は、面倒そうに肩を鳴らした。
その何気ない仕草ひとつで、樒がびくりと震える。
「古い話を持ち出すなや」
声音は穏やかだった。
だが、その穏やかさがかえって怖い。
怒鳴る必要がないのだ。
怒鳴らずとも、相手が勝手に怯えることを知っている声だった。
「それより、狐の倅の匂いがこの辺りに残っちゅう。先日といい、こうもわしのシマで好き勝手されたら、メンツが丸つぶれじゃ」
狐の倅。
晴明のことだろう。
太三郎はそこで初めて、視線を下へ落とした。
テーブルの下に半ば隠れた樒を、ゆっくりと見下ろす。
その目は鋭いというより、深かった。
底の見えない沼を覗き込んだ時みたいな、不快な深さだ。
睨まれたというより、逃げ場ごと呑まれる感覚に近い。
樒が完全に固まる。
冗談も軽口も、もう一つも出てこない。
「――死神」
たった二文字なのに、呼ばれた瞬間、樒の肩が跳ねた。
「狐の倅がおる場所を探れ」
命令口調ですらなかった。
もっと当たり前の響きだった。
雨が降る。
日が沈む。
そういう、拒みようのない自然現象みたいな声音。
「拒否権なんぞ、あると思うちゅうわけじゃなかろう?」
最後まで、声は荒れなかった。
静かなままだった。
それなのに、その一言が落ちた瞬間、私ははっきり理解した。
この男は、脅しているのではない。
脅す必要がないのだ。
従わせることを前提に話している。
逆らう相手がどうなるかを、わざわざ言葉にする必要すらない。
樒は返事をしない。
いや、できないのだろう。
テーブルの下で小さく身を縮めたまま、息を潜めている。
喫茶店ファウストの落ち着いた空気は、もうどこにも残っていなかった。
ここにあるのは、屋島太三郎という存在が持ち込んだ、古くて濃い暴力の気配だけだった。
読んでいただきありがとうございました。
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