33話 現世境終点
現世境の探索を始めて、三時間ほどが経っていた。
景色だけ見れば、最初に足を踏み入れた時から何も変わっていないように思える。
けれど実際には、歩くたびに瘴気の濃さも、地形の癖も、出てくる妖魔の質も少しずつ変わっていた。
現世境は浅い階層だ。
黄泉比良坂の中では、まだ現世に近い。
だからこそ、油断していい場所でもないけれど、少なくとも理不尽さはそこまで濃くない。
敵は敵として現れるし、罠も見れば分かるものが多い。
そういう意味では、やっぱり私はこの場所が嫌いじゃなかった。
もっとも、三時間も歩き回っていれば、さすがに少し疲れる。
……前世だとこの程度じゃ疲れなかったんだけどなぁ。
それに今世は一週間も、プレハブ小屋に蟄居されていて運動できなかったのも影響しているのかもしれない。
私は愛染明王の柄に軽く触れながら、前方へ視線を向けた。
現世境に潜ってから螺旋階段を二回ほど下りた。
降りるほど少しずつ瘴気は濃くなっていく感じがあった。
瘴気はまだ耐えられる範囲だけど、空気の冷たさは最初よりも一段深くなっていた。
肺に入るたび、身体の奥へ沈んでいく感覚が少しだけ重い。
その先で、私は足を止めた。
「……あ」
思わず、そんな声が漏れる。
黒い鳥居だった。
その奥には黒い四脚門がある。
異様だった。
現世境の灰色の景色の中で、その黒だけが妙に濃い。
塗った黒じゃない。
光を吸って沈めたみたいな、底の見えない黒だ。
鳥居の柱には細かな傷が走り、ところどころに乾いた泥みたいなものがこびりついている。
風もないのに、奥の空間だけがわずかに揺れて見えた。
前世で何度も見たので見間違えようがない。
黄泉比良坂中層――幽世路へ続く門。
神隠しの道。
そう呼ばれる領域への入口だった。
「……神奈さま」
後ろから、少しだけ硬い声がした。
振り返ると、輝夜もその門を見上げていた。
普段は整っている顔が、今はわずかに引き締まっている。
無理もない。
現世境と幽世路では、危険度が一段違う。
幽世路。
中層にあたるその領域は、単純に妖魔が強くなるだけの場所じゃない。
空間認識力が歪む。
時間感覚も狂う。
真っ直ぐ歩いていたはずなのに同じ場所へ戻ってきたり、ほんの数分のつもりが一時間経っていたり、その逆もある。
索敵は難しくなり、帰還も難しくなり、連携の難度も急激に上がる。
敵より先に、場所そのものに足を掬われることも珍しくない。
だから、ここから先は資格がいる。
現世境までなら、武士見習や陰陽生でも潜ることはできる。
でも幽世路から先は違う。
一定以上の階位にある武士や陰陽師でなければ、原則として立ち入りは認められていない。
死ぬからだ。
単純に、それだけの理由で。
「……本当に行くんです?」
輝夜が、黒い鳥居から目を離さないまま言った。
私はその横顔を見て、少しだけ肩をすくめる。
「せっかく上等武士に昇進して、行く権利ができたんだから、行かないと損でしょ」
そう言うと、輝夜がじとっとした目を向けてきた。
うん。
自分でも、言い方が軽い自覚はある。
でも、事実だった。
私と輝夜は、武士見習と陰陽生のままじゃなくなっていた。
約一週間前に行われた武士見習修了試験。
風臥兄さんから聞いた話では、あの出来事のあと色々な部所が蜂の巣をつつくような騒ぎとなって試験自体は中止になったらしい。
まあ、あんなことがあったのだから当然だろう。
京華族である巽累によるヤクザを使った人身売買。
そして巽累は、晴明に意識を乗っ取られて自らの躰で憑依分身を発動。
喚び出したのは――四死妖・酒呑童子。
肉体という枷がある私では酒呑童子は強敵だった。
強敵というには生温い。
絶対に勝てない敵だった。
まあ、それでも輝夜の協力もあって不本意な結果ではあったけど、なんとか勝つことはできた。
中止になった以上は昇進も無しだと思っていたけど、後日通達された結果は妙だった。
私は一等武士を飛び越えて、上等武士へ。
輝夜は陰陽生から少属を飛び越えて、大属へ。
それぞれ昇進することになった。
表向きの理由は分かりやすい。
四死妖・酒呑童子と対峙し、生き残ったから。
それだけでも十分すぎる実績だと言われれば、まあ、そうなのかもしれない。
でも、太公望は別の理由もあると見ていた。
巽累の件。
京華族が酒呑童子の依代になっていたこと。
その巽累が人身売買を主導していたこと。
そういう話を、あまり大きく表沙汰にしたくなかったのではないか、と。
つまり、昇進という形で処理を早め、功績として上塗りし、余計な追及を避ける。
そういう政治的な意図が混じっていてもおかしくない、ということだ。
……まあ、ありそうではある。
私はそういうのを考えるのが得意じゃない。
でも、得意じゃないからって無関係でいられるわけでもないのが面倒だった。
「東京に行くまで、もうちょっと鍛えておきたいんだよね」
私は改めて黒い四脚門を見た。
東京。
その言葉を頭の中で転がすだけで、少しだけ胸の奥がざわつく。
行くことは決まっている。
学校のことも、移動手段のことも、少しずつ現実になってきている。
でも、決まっているからこそ、その前にできることはやっておきたかった。
今のままでも戦えないわけじゃない。
でも、それで十分だとは思えない。
酒呑童子の件を経て、なおさらそう思う。
強い相手と戦う時、少しの差が生死を分ける。
弱点を知っているだけじゃ足りない。
埋められるところは埋めておきたい。
少なくとも、東京へ行く前に、今の自分がどこまで通用するのかは確かめておきたかった。
「……不安なら、輝夜は先に帰っていいよ」
そう言うと、輝夜は間を置かずに首を横へ振った。
「――いえ、付いていきます」
即答だった。
「神奈さまを放っておいたら、下層:根国、深層:黄泉戸にも単独で行きそうです」
「…………いかないよ」
少しだけ間が空いたのは、気のせいじゃない。
輝夜の目が細くなる。
疑っている目だ。
すごく疑っている。
「でも、前世では資格もないのに潜ってたと、朔影が言っています」
「………」
……朔影。
情報漏洩が趣味なんだろうか。
まあ、私のことを心配してくれてるんだろうけど。
前世では、確かに資格もないのに潜った。
というか、資格があるかどうかを気にしている余裕なんてなかった。
必要だから行くしかなかった。強くなるためには深く潜っていくしかなかった。
でも、今は違う。
今は一緒に潜る相手もいて、そして前世のことを知っている。
……やりにくいなあ。
なまじ知っているからこそ、誤魔化しが効かない。
しかも輝夜は、こういう時だけ妙に勘がいい。
普段は素直で可愛いのに、私が無茶をしそうな時に限って目が鋭くなるのはどういうことなんだろう。
いや、たぶん正しい反応なんだけど。
「今日は中層で我慢するよ」
観念してそう言うと、輝夜はまだ少し疑わしそうな顔をしながらも、小さく頷いた。
「……本当ですね?」
「本当。本当に今日は幽世路まで」
「“今日は”って言いましたね」
「言ってないよ」
「言いました」
即答だった。
怖い。
輝夜、たまにこういうところだけ強い。
私は小さく咳払いをして、話を切り替えることにした。
「とにかく、行くなら準備を確認しよう。幽世路は現世境より面倒だからね」
「はい」
輝夜もすぐに表情を引き締めた。
こういう切り替えの早さは、本当に助かる。
私は四脚門の前へ歩み寄る。近づくほど圧があった。
ただ立っているだけなのに、そこにある空間だけが現世とも現世境とも違う理で組まれているみたいに感じる。
奥を覗き込んでも、向こう側の景色ははっきりしない。
薄暗い靄が揺れているだけで、距離感も方向感覚も曖昧だった。
神隠しの道。
なるほど、よく言ったものだと思う。
こんな門をくぐって、無事に帰ってこられなくなる人間がいても不思議じゃない。
《神奈さま》
頭の奥で、太公望の声がした。
《幽世路では空間認識と時間感覚の歪みが強くなります。私も補助はしますが、現世境ほど正確な把握は難しいかもしれません》
(分かってる。頼りにしてるけど、頼り切りにはしない)
《それで結構です》
短い返答。
でも、その声はいつも通り落ち着いていた。
それだけで少し気持ちが整う。
私は愛染明王の位置を確かめ、呼吸をひとつ整えた。
輝夜も隣で印を結ぶ準備をしている。
狩衣の袖が、灰色の風にわずかに揺れた。
「じゃあ、開けるよ」
「はい」
私は黒い鳥居の中心へ手を伸ばした。
触れたわけでもないのに、空間がぬるりと揺れる。
水面に指を差し入れたみたいな感触が、皮膚の上を這った。
次の瞬間、門の内側がゆっくりと裂けるように開いていく。
冷たい。
現世境の冷たさとは違う。
もっと質の悪い、輪郭の曖昧な冷たさだった。
温度というより、感覚そのものが薄く削られていくような気配。
奥から流れてくる空気は静かなのに、耳鳴りみたいなものが微かに混じっている。
私は一歩、前へ出た。
輝夜も続く。
四脚門をくぐる瞬間、視界の端で景色がねじれた。
上下の感覚が一瞬だけ曖昧になる。
足元があるはずなのに、どこへ踏み出しているのか分からない。
時間が伸びたのか縮んだのかも分からない、奇妙な空白が一拍だけ挟まる。
それでも、私は止まらなかった。
現世境より深い場所。
中層――幽世路。
神隠しの道へ、私たちは足を踏み入れた。
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