29話 弱点
意識が浮かび上がるより先に、額のあたりを軽く小突かれた。
《起きてください、神奈さま》
低くて、妙に落ち着いた声だった。
私は布団に顔を埋めたまま、うっすら目を開ける。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
そして、頭の奥から聞こえてくる、朝にまったく容赦のない声。
「……太公望」
《はい》
「あと五分」
《駄目です》
即答だった。
知ってた。
私は小さく唸って、布団を頭まで引き上げた。
でも無駄だ。
太公望はこういう時、絶対に引かない。
というか、この男、たぶん「あと五分」という概念を信用していない。
スマホのタイマーを使うより、太公望に起こしてもらった方が正確だ。
秒単位で狂わないし、二度寝も許してくれない。
そのうえ、寝起きの悪い私が苛立ってスマホを壁に投げつける心配もない。
いや、実際にそこまでしたことは……たぶん、数えるほどしかない。
でも、起きたくない時の私はわりと本気で何をするか分からないので、壊して困るものを近くに置かない方がいいのは事実だった。
《神奈さま》
「……起きる」
布団の中で観念して、私はのろのろと身を起こした。
朝の空気は少しひんやりしていて、寝起きの身体には地味につらい。
欠伸を噛み殺しながらパジャマを脱ぎ、私服に着替える。
今日は特に外へ出る予定があるわけじゃないけれど、部屋着のままでうろつくと閂に微妙な顔をされるので、最初から着替えておくに限る。
髪を軽く整えてから部屋を出ると、廊下の向こうから朝の匂いが流れてきた。
焼いた魚の香ばしさと、味噌汁の湯気の匂い。
それだけで、まだ半分眠っていた頭が少しずつ起きてくる。
居間へ向かうと、案の定、閂が朝食の仕上げをしていて、輝夜が机へ配膳していた。
鮭の塩焼き。
目玉焼き。
サラダ。
味噌汁。
海苔と梅干し。
旅館の朝食みたいに整った献立だ。
というか、閂の作る朝食はだいたいいつも、変に隙がない。
朝から栄養バランスに殴られている気分になる。
「おはようございます、神奈さま」
「おはよう」
「おはようございます、神奈さま!」
輝夜も明るく頭を下げた。
その声を聞きながら席につくと、すでに風臥兄さんが向かいに座っていた。
私は箸を手に取りながら、ふと辺りを見回す。
「風臥兄さん。蒼天さまは?」
「今日は高知市内を散策されるそうだ」
「散策?」
「……京都は大変なことになっているからな。戻るまでの僅かな自由時間を謳歌されたいのだろう」
「……そうですか」
私はそれだけ返して、焼き鮭へ箸を伸ばした。
蒼天さま。
その名前を聞くだけで、未だに少しだけ落ち着かない。
前世では、一緒の学校に通っていた。
顔を合わせる機会も、話す機会も、今よりずっと多かった。
でも今世では、私は東京へ行くことになっている。
同じ学校へ通うこともないし、自然に会話する機会も、たぶんもうほとんどない。
……いや、仮に機会があったとしても、何を話せばいいのか分からないのだけれど。
久しぶりです、で済ませていい相手でもない。
かといって、前世のことを踏まえて何か言うのも違う気がする。
結局、何も言えないまま距離だけができていく。
鮭を口に運びながら、私は小さく息を吐いた。
塩気がちょうどいい。
閂の料理は、こういう時に余計なことを考えすぎないで済むから助かる。
「神奈」
風臥兄さんが、ふと思い出したように口を開いた。
「東京の学校へ転入する手筈なのだが、海路と空路、どっちで東京まで向かう?」
「空路です。空路一択です」
食い気味に答えた。
風臥兄さんが一瞬だけ目を瞬かせる。
「……即答だな」
「即答です」
四国から本州へ渡るには、橋がない。
だから移動手段は、空路か海路の二択になる。
ある事件がなければ、橋を架けるという発想もあったのかもしれない。
でも今は違う。
瀬戸内万妖暴走事変。
通称、淡路沈没。
百数十年前。四死妖・禰々子河童は瀬戸内を通って、万の妖魔を率いて京都へ向かおうとしていた。
それを止めるために、当時の征夷大将軍、元帥、陰陽頭、素戔嗚家当主をはじめ、千を超える武士と陰陽師が最終防衛線として淡路島に集結した。
結果として禰々子河童は撤退した。
でも代償は大きく、淡路島そのものが沈んだ。
それ以来、四国と本州の間に橋を架ける案は何度も出ては消えた。
膨大な費用をかけて造っても、妖魔との戦いで一瞬で破壊される可能性が高い。
なら最初から、固定の橋を作らない方がいい。
そういう結論になったらしい。
「……分かった。飛行機の手配をしておこう」
風臥兄さんはそう言って頷いた。
私は内心で、ほっと息をつく。
空で襲撃に遭って墜落したとしても、【在りしへ還る】でダメージをなかった状態に巻き戻せる。
仮に巻き戻せないほどの重体になったとしても、【傷、未だあらず】でダメージそのものをなかったことにすればいい。
でも、水上で襲われて、水の中に引きずり込まれたら話は別だ。
【在りしへ還る】も【傷、未だあらず】も、酸素不足そのものをどうにかできる保証はない。
人間は酸素がなければ生きられない。
どれだけ術があっても、水の中で呼吸ができなければ死ぬ時は死ぬ。
1%でも死ぬ可能性があるなら、それは避けるべきだ。
つまり空路一択。
議論の余地はない。
「え。神奈さまは泳げないんッ」
思わず、という感じで輝夜が声を上げた。
すぐに両手で口を塞ぐ。
私はじとっとした目でそちらを見る。
……言ったのは朔影だろう。
前世で私が泳げないことを知っている数少ない相手だ。
輝夜本人が知るはずのないことを、こういう時だけ共有してくるのは本当にどうかと思う。
情報漏洩である。
《化けていたとはいえ相手は禰々子河童だったのですよね。フィールドは水辺だった筈です。どう対処したのです》
(素戔嗚家は風と雷の術が得意だからね。竜巻を発生させて、無理矢理水の中にいかないよう力技で対処した。……たぶん本物の禰々子河童だったら無理だったと思う)
あの時のことを思い出す。
攫われた閂。
禰々子河童に化かされていた閂。
あれは閂の姿を使われたことだけじゃなく、水辺という状況そのものが厄介だった。
泳げない。
その弱点を、あの時は確かに突かれていたのだと思う。
「……輝夜」
「は、はい」
「人間はね、浮かないんだよ」
「え」
「人間はっ、浮かないの」
私は箸を置いて、真顔で言った。
「輝夜みたいに浮袋が二つあれば浮けるだろうけど、普通は沈むのが自然の摂理!」
そう言って、私は輝夜の胸を睨んだ。
輝夜がきょとんとした顔で自分の胸元を見る。
それから、はっとしたように両手で胸を隠した。
押さえられたせいで、余計に寄せて上がった形になる。
なんか腹立つ。
すごく腹立つ。
配慮のつもりかもしれないけど、結果として全然配慮になっていない。
別に羨ましくなんかない。
刀を振る時だって、大きかったら邪魔になる。
下着だって、小さい方が種類もデザインもいいものが多い。
値段だってリーズナブルだ。
だから、胸が小さいとか大きいとか。
一切、全く、これっぽっちも私はなんとも思っていない。
第一、陰陽師の胸って似非胸が多いって聞く。
霊力を胸に貯めて大きくしていると、ネット記事で見たことがある。
そんな似非胸について、私はなんにも思わない。
……本当に。
《水に浮けない女性は、感情が激重い女性だと俗説があるそうです》
(……太公望。樒から妙な影響を受けてない? 大丈夫? あと私は激重な感情を抱くことはないからね。どっちかというとサバサバした感じの軽めの女だよ!!)
自分で言っていて、ちょっとだけ空しくなった。
でも言わないよりはましだ。
自己申告は大事である。
私は何気ない顔を装いながら、そっと周囲を警戒した。
こういう時、どこからともなく現れて、胸を揉むだの何だのと最低な方向へ話を持っていく人物がいる。
しかも一人、心当たりがある。
けれど、待ってもその気配は現れなかった。
「樒は?」
私がそう聞くと、閂が味噌汁を配りながら答えた。
「樒は少し日用品の買い出しがあるのだと、朝早くから出かけました」
「そうなんだ」
少し意外だった。
こういう時こそ、面白がってどこかから出てきそうなのに。
でも、いないならいないで平和だ。
平和なのが一番いい。
セクハラ被害が発生しない朝は、それだけで価値が高い。
私は改めて味噌汁の椀を手に取った。
湯気が立ちのぼり、朝の匂いが鼻先をくすぐる。
東京へ行く準備は、少しずつ進んでいる。
学校のことも、移動手段のことも、その先のことも。
まだ実感は薄い。
でも、こうして朝食を囲みながら具体的な話が出ると、少しずつ実感が出てくる。
前世とは違う流れ。
前世では京都にある皇立高天原学園に通ってたけど、今回は別の土地の別の学校。
不安が全く無いといえば嘘になる。
ただ海路じゃなくて空路になっただけで、私の中の不安はだいぶ減った。
少なくとも、水の上を長時間移動するよりはずっといい。
泳げないことは、別に恥じゃない。
……いや、少しは恥ずかしいけど。
でも、弱点を弱点として把握しておくのは大事だ。
どれだけ強くても、死ぬ時は死ぬ。
できるだけ死なない道を選ぶのは、臆病じゃなくて当然のことだ。
私は海苔をちぎってご飯に乗せながら、心の中でひとつ頷いた。
やっぱり、空路一択である。
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