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地獄に堕ち修羅道より回帰した最強少女は運命に抗い覆す  作者: 華洛
第三章:天敵

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29話 弱点


 意識が浮かび上がるより先に、額のあたりを軽く小突かれた。


《起きてください、神奈さま》


 低くて、妙に落ち着いた声だった。

 私は布団に顔を埋めたまま、うっすら目を開ける。

 見慣れた天井。

 見慣れた部屋。

 そして、頭の奥から聞こえてくる、朝にまったく容赦のない声。


「……太公望」


《はい》


「あと五分」


《駄目です》


 即答だった。

 知ってた。


 私は小さく唸って、布団を頭まで引き上げた。

 でも無駄だ。

 太公望はこういう時、絶対に引かない。

 というか、この男、たぶん「あと五分」という概念を信用していない。


 スマホのタイマーを使うより、太公望に起こしてもらった方が正確だ。

 秒単位で狂わないし、二度寝も許してくれない。

 そのうえ、寝起きの悪い私が苛立ってスマホを壁に投げつける心配もない。


 いや、実際にそこまでしたことは……たぶん、数えるほどしかない。

 でも、起きたくない時の私はわりと本気で何をするか分からないので、壊して困るものを近くに置かない方がいいのは事実だった。


《神奈さま》


「……起きる」


 布団の中で観念して、私はのろのろと身を起こした。


 朝の空気は少しひんやりしていて、寝起きの身体には地味につらい。

 欠伸を噛み殺しながらパジャマを脱ぎ、私服に着替える。

 今日は特に外へ出る予定があるわけじゃないけれど、部屋着のままでうろつくと閂に微妙な顔をされるので、最初から着替えておくに限る。


 髪を軽く整えてから部屋を出ると、廊下の向こうから朝の匂いが流れてきた。

 焼いた魚の香ばしさと、味噌汁の湯気の匂い。

 それだけで、まだ半分眠っていた頭が少しずつ起きてくる。


 居間へ向かうと、案の定、閂が朝食の仕上げをしていて、輝夜が机へ配膳していた。


 鮭の塩焼き。

 目玉焼き。

 サラダ。

 味噌汁。

 海苔と梅干し。


 旅館の朝食みたいに整った献立だ。

 というか、閂の作る朝食はだいたいいつも、変に隙がない。

 朝から栄養バランスに殴られている気分になる。


「おはようございます、神奈さま」


「おはよう」


「おはようございます、神奈さま!」


 輝夜も明るく頭を下げた。

 その声を聞きながら席につくと、すでに風臥兄さんが向かいに座っていた。

 私は箸を手に取りながら、ふと辺りを見回す。


「風臥兄さん。蒼天さまは?」


「今日は高知市内を散策されるそうだ」


「散策?」


「……京都は大変なことになっているからな。戻るまでの僅かな自由時間を謳歌されたいのだろう」


「……そうですか」


 私はそれだけ返して、焼き鮭へ箸を伸ばした。


 蒼天さま。

 その名前を聞くだけで、未だに少しだけ落ち着かない。


 前世では、一緒の学校に通っていた。

 顔を合わせる機会も、話す機会も、今よりずっと多かった。

 でも今世では、私は東京へ行くことになっている。

 同じ学校へ通うこともないし、自然に会話する機会も、たぶんもうほとんどない。


 ……いや、仮に機会があったとしても、何を話せばいいのか分からないのだけれど。


 久しぶりです、で済ませていい相手でもない。

 かといって、前世のことを踏まえて何か言うのも違う気がする。

 結局、何も言えないまま距離だけができていく。


 鮭を口に運びながら、私は小さく息を吐いた。

 塩気がちょうどいい。

 閂の料理は、こういう時に余計なことを考えすぎないで済むから助かる。


「神奈」


 風臥兄さんが、ふと思い出したように口を開いた。


「東京の学校へ転入する手筈なのだが、海路と空路、どっちで東京まで向かう?」


「空路です。空路一択です」


 食い気味に答えた。

 風臥兄さんが一瞬だけ目を瞬かせる。


「……即答だな」


「即答です」


 四国から本州へ渡るには、橋がない。

 だから移動手段は、空路か海路の二択になる。

 ある事件がなければ、橋を架けるという発想もあったのかもしれない。

 でも今は違う。


 瀬戸内万妖暴走事変。

 通称、淡路沈没。


 百数十年前。四死妖・禰々子河童は瀬戸内を通って、万の妖魔を率いて京都へ向かおうとしていた。

 それを止めるために、当時の征夷大将軍、元帥、陰陽頭、素戔嗚家当主をはじめ、千を超える武士と陰陽師が最終防衛線として淡路島に集結した。


 結果として禰々子河童は撤退した。

 でも代償は大きく、淡路島そのものが沈んだ。


 それ以来、四国と本州の間に橋を架ける案は何度も出ては消えた。

 膨大な費用をかけて造っても、妖魔との戦いで一瞬で破壊される可能性が高い。

 なら最初から、固定の橋を作らない方がいい。

 そういう結論になったらしい。


「……分かった。飛行機の手配をしておこう」


 風臥兄さんはそう言って頷いた。

 私は内心で、ほっと息をつく。


 空で襲撃に遭って墜落したとしても、【在りしへ還る】でダメージをなかった状態に巻き戻せる。

 仮に巻き戻せないほどの重体になったとしても、【傷、未だあらず】でダメージそのものをなかったことにすればいい。


 でも、水上で襲われて、水の中に引きずり込まれたら話は別だ。


 【在りしへ還る】も【傷、未だあらず】も、酸素不足そのものをどうにかできる保証はない。

 人間は酸素がなければ生きられない。

 どれだけ術があっても、水の中で呼吸ができなければ死ぬ時は死ぬ。


 1%でも死ぬ可能性があるなら、それは避けるべきだ。

 つまり空路一択。

 議論の余地はない。


「え。神奈さまは泳げないんッ」


 思わず、という感じで輝夜が声を上げた。

 すぐに両手で口を塞ぐ。

 私はじとっとした目でそちらを見る。


 ……言ったのは朔影だろう。


 前世で私が泳げないことを知っている数少ない相手だ。

 輝夜本人が知るはずのないことを、こういう時だけ共有してくるのは本当にどうかと思う。

 情報漏洩である。


《化けていたとはいえ相手は禰々子河童だったのですよね。フィールドは水辺だった筈です。どう対処したのです》


(素戔嗚家は風と雷の術が得意だからね。竜巻を発生させて、無理矢理水の中にいかないよう力技で対処した。……たぶん本物の禰々子河童だったら無理だったと思う)


 あの時のことを思い出す。

 攫われた閂。

 禰々子河童に化かされていた閂。

 あれは閂の姿を使われたことだけじゃなく、水辺という状況そのものが厄介だった。


 泳げない。

 その弱点を、あの時は確かに突かれていたのだと思う。


「……輝夜」


「は、はい」


「人間はね、浮かないんだよ」


「え」


「人間はっ、浮かないの」


 私は箸を置いて、真顔で言った。


「輝夜みたいに浮袋が二つあれば浮けるだろうけど、普通は沈むのが自然の摂理!」


 そう言って、私は輝夜の胸を睨んだ。

 輝夜がきょとんとした顔で自分の胸元を見る。

 それから、はっとしたように両手で胸を隠した。

 押さえられたせいで、余計に寄せて上がった形になる。


 なんか腹立つ。

 すごく腹立つ。

 配慮のつもりかもしれないけど、結果として全然配慮になっていない。


 別に羨ましくなんかない。

 刀を振る時だって、大きかったら邪魔になる。

 下着だって、小さい方が種類もデザインもいいものが多い。

 値段だってリーズナブルだ。


 だから、胸が小さいとか大きいとか。

 一切、全く、これっぽっちも私はなんとも思っていない。


 第一、陰陽師の胸って似非胸が多いって聞く。

 霊力を胸に貯めて大きくしていると、ネット記事で見たことがある。

 そんな似非胸について、私はなんにも思わない。

 ……本当に。


《水に浮けない女性は、感情が激重い女性だと俗説があるそうです》


(……太公望。樒から妙な影響を受けてない? 大丈夫? あと私は激重な感情を抱くことはないからね。どっちかというとサバサバした感じの軽めの女だよ!!)


 自分で言っていて、ちょっとだけ空しくなった。

 でも言わないよりはましだ。

 自己申告は大事である。


 私は何気ない顔を装いながら、そっと周囲を警戒した。

 こういう時、どこからともなく現れて、胸を揉むだの何だのと最低な方向へ話を持っていく人物がいる。

 しかも一人、心当たりがある。

 けれど、待ってもその気配は現れなかった。


「樒は?」


 私がそう聞くと、閂が味噌汁を配りながら答えた。


「樒は少し日用品の買い出しがあるのだと、朝早くから出かけました」


「そうなんだ」


 少し意外だった。

 こういう時こそ、面白がってどこかから出てきそうなのに。


 でも、いないならいないで平和だ。

 平和なのが一番いい。

 セクハラ被害が発生しない朝は、それだけで価値が高い。


 私は改めて味噌汁の椀を手に取った。

 湯気が立ちのぼり、朝の匂いが鼻先をくすぐる。


 東京へ行く準備は、少しずつ進んでいる。

 学校のことも、移動手段のことも、その先のことも。


 まだ実感は薄い。

 でも、こうして朝食を囲みながら具体的な話が出ると、少しずつ実感が出てくる。


 前世とは違う流れ。

 前世では京都にある皇立高天原学園に通ってたけど、今回は別の土地の別の学校。

 不安が全く無いといえば嘘になる。

 ただ海路じゃなくて空路になっただけで、私の中の不安はだいぶ減った。

 少なくとも、水の上を長時間移動するよりはずっといい。


 泳げないことは、別に恥じゃない。

 ……いや、少しは恥ずかしいけど。

 でも、弱点を弱点として把握しておくのは大事だ。

 どれだけ強くても、死ぬ時は死ぬ。

 できるだけ死なない道を選ぶのは、臆病じゃなくて当然のことだ。


 私は海苔をちぎってご飯に乗せながら、心の中でひとつ頷いた。


 やっぱり、空路一択である。


読んでいただきありがとうございました。

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