28話 満月
夜は、思っていたより静かだった。
別邸の縁側に腰を下ろし、私はひとりで空を見上げていた。
雲は薄く、月はよく見える。
丸く満ちた光が庭へ降り、木々の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。
風はぬるくもなく、冷たすぎもしない。
ちょうどいい夜だった。
遠くで虫が鳴き、どこかで水の流れる音がかすかに混じる。
こういう静かな時間は嫌いじゃない。
でも今夜は、静かすぎるせいで、逆にいろいろ思い出してしまう。
風呂場で意識を落とされたこと。
樒に無理やりキスされたこと。
そのあと、太公望が表に出て、樒と話をしたこと。
目を覚ましたあと、樒はいつも通りの軽い顔で、でも一応は謝ってきた。
無理やりキスをしたこと。
意識を落としたこと。
そのうえで、太公望と話をしたこと。
全部まとめて、悪かったッス、と。
ただ、詳しいことはあまり語らなかった。
太公望から聞いた限りでは、樒なりに気を遣ったらしい。
下手に語れば、私に余計な影響を与えるかもしれないから、と。
代わりに太公望が教えてくれたのは、樒とは“姉弟ともいえる間柄”だということだった。
正直、最初に聞いた時は反応に困った。
姉弟。
しかも、血の繋がりとか、そういう普通の意味じゃない。
同じものから生まれた、みたいな話らしい。
よく分からない。
分からないけど、まったく理解できないわけでもなかった。
堅物で、理屈っぽくて、でも妙に面倒見がいい太公望。
軽くて、奔放で、距離感がおかしくて、でも根っこのところではちゃんと見ている樒。
なんとなく、その組み合わせには見覚えがあった。
逆ではあるけれど、風臥兄さんと私みたいだ。
堅物な存在と、奔放な存在。
真面目に手綱を握ろうとする側と、好き勝手に走ろうとする側。
「……姉弟、か」
小さく呟くと、声は夜気の中へ溶けていった。
樒は最後に、少しだけ真面目な顔で言っていた。
『弟に会って、話してみたかったッス』
あの軽い女が、ああいう言い方をするのは少し意外だった。
でも、嘘ではなかったんだろうと思う。
それにしても。
「キスは余計だったけど」
思い出しただけで、なんだか落ち着かない。
普通のキスは朔影に奪われて、今度は樒に大人のキスを奪われた。
しかも意識まで落とされた。
納得いかない。
全然いかない。
「……樒さんに、口づけをされたそうですね」
「っ!?」
不意に背後から声がして、私は思いきり肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには朔影が立っていた。
月明かりの下に立つその姿は、昼間よりも輪郭が薄く見える。
白い光をまとっているせいか、影そのものが人の形を取っているみたいだった。
「朔影……驚かせないでよ」
「驚かせるつもりはありませんでした」
そう言って、朔影は静かにこちらへ歩いてくる。
「輝夜は寝た?」
「はい。神奈姉さんと話をするため、少し自由行動の許可をもらいました」
私は少しだけ目を瞬かせた。
そうだった。
今の朔影は、輝夜の式神だ。
こうして単独で動いていても、完全に自由というわけじゃない。
「そっか」
「はい」
朔影は私の隣に腰を下ろした。
距離は近い。
でも、今さらそこを指摘するのも変な気がして、私は何も言わなかった。
朔影はしばらく、私ではなく月を見ていた。
その横顔は静かで、でもどこか少し硬い。
「無理やり、だったそうですね」
「……うん」
「そうですか」
それだけ言って、朔影は少しだけ目を伏せた。
怒っている、というより。
何かを押し殺しているような沈黙だった。
「……怒ってる?」
「怒っている、というより」
朔影は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「あまり、気分のいい話ではありません」
「それは……まあ、そうかも」
「神奈姉さんが望んだことではないのでしょう?」
「うん。無理やりだった」
そう答えると、朔影は小さく息を吐いた。
「なら、なおさらです」
静かな声だった。
責めるようではなく、確認するような響きだった。
「私は、神奈姉さんがご自分でも整理できていないうちに、誰かに踏み込まれるのが好きではありません」
「踏み込まれるって……」
「心に、です」
私は思わず言葉に詰まった。
朔影はまっすぐ月を見たまま続ける。
「口づけは、ただ触れるだけの行為ではありません。少なくとも、私はそう思っています」
その言い方が妙に静かで、冗談では済まない気がした。
「……朔影、拗ねてる?」
「少しは」
即答だった。
でも、そのあとに続いた声は、さっきよりも低かった。
「ですが、それ以上に……見ていて、気分が悪かったんです」
「気分が悪い?」
「はい」
朔影は自分の膝の上で、そっと指を組んだ。
「神奈姉さんが望まない形で、また誰かに傷つけられたことが」
私は黙る。
「それを見て、面白くないと思った自分にも」
その一言で、胸の奥が少しだけ重くなった。
ああ、そうか。
朔影はただ樒に腹を立てているんじゃない。
自分の中に湧いた感情ごと、嫌がっている。
朔影は、私にとってただの式神でも、ただの他人でもない。
輝夜だった頃から、どこか妹みたいな子だった。
放っておけなくて、危なっかしくて、でも真っ直ぐで、時々ひどく不器用なところまで含めて。
たぶん朔影にとっても、私はそうだったのだろう。
姉のようなもの。
だからこそ、あの子は拗れて、間違えて、取り返しのつかないところまで落ちた。
閂を攫ったことも、私に閂を殺させたことも、完全には許せない。
たぶん、この先も簡単には許せない。
でもそれでも、妹分が犯した過ちごと切り捨てられるほど、私は薄情でもない。
「私は、一度……神奈姉さんを壊す側に立ちました」
静かな声だった。
でも、そこにある重さは隠しようがなかった。
「傷つけた、では足りません。壊しました。神奈姉さんの大切なものを奪って、神奈姉さん自身を削って、立っていられなくした」
私は息を呑む。
閂のこと。
あの未来のこと。
口にしなくても、そこへ繋がっているのだと分かった。
「だから、本来なら私に、誰かを責める資格なんてありません」
「朔影……」
「それでも、嫌だったんです」
朔影は月を見上げたまま言った。
「神奈姉さんが泣きそうな顔をしたと聞いて、嫌だと思ってしまいました。そんなふうに思う資格もないのに」
その言葉は、嫉妬よりもずっと重かった。
私はすぐには返事ができなかった。
「……でも、朔影だって」
私は少し迷ってから、言葉を続けた。
「前に、いきなりキスしてきたよね」
朔影が、ほんのわずかに目を見開く。
「神気を渡すため、でした」
「理由があったのは分かってる。でも、いきなりだったのは事実でしょ」
「……はい」
素直に認める。
「だから、樒さんのことだけを一方的に責めるつもりはありません。私も同じように、神奈姉さんの意思を飛び越えた側です」
そこで朔影は一度、言葉を切った。
「本当は、あんなことをする資格もありませんでした」
月明かりの下で見る横顔は、ひどく静かだった。
静かすぎて、かえって痛々しい。
「でも、必要だった」
「はい」
「それに、今の私は……贖罪のためにここにいます」
私はそっと朔影を見る。
朔影は目を伏せたまま、淡々と続けた。
「神奈姉さんに言われた通り、最優先は閂さんです」
その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。
「閂さんを守ること。今度こそ、失わせないこと。それが一番です」
迷いのない声だった。
そこには、言い訳も飾りもなかった。
「その次に、神奈姉さんです」
「……次、なんだ」
「はい」
朔影は頷いた。
「そうでなければいけません。私は、神奈姉さんに閂さんを奪わせた側ですから」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「だから今世では、まず閂さんを守ります。そのうえで、神奈姉さんも守ります」
「それ、結構きつくない?」
「きついです」
即答だった。
「でも、それくらいでなければ、贖いになりません」
私は膝を抱えるようにして、視線を月へ戻した。
満月は変わらず、静かにそこにある。
何も言わず、ただ見下ろしている。
「……分かんないんだよ」
「何がですか」
「こういうの、どう受け止めればいいのか」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
でも、言ってしまった以上、引っ込める気にはなれなかった。
「戦うとか、斬るとか、そういうのなら分かる。強いか弱いか、勝つか負けるか、どう動くか。そういうのは考えられる。でも……」
そこで言葉が途切れる。
朔影は急かさなかった。
ただ静かに待っている。
「こういうのは、よく分からない。相手が何を思ってるのかも、自分がどう思えばいいのかも」
樒のキス。
朔影のキス。
どちらも、ただの行為としては同じはずなのに、受けた印象は全然違う。
樒のは、強引で、悔しくて、腹が立って、でもその奥に別の目的があった。
朔影のは、不意打ちで、腹が立って、でも必要だったのだと後から知った。
しかも、その奥にはもっと複雑なものがある気がする。
面倒だ。
こういうのは、本当に面倒くさい。
「神奈姉さん」
朔影が、静かに私を呼ぶ。
「分からないなら、今すぐ答えを出さなくてもいいんです」
私は隣を見る。
朔影は、いつものように静かな顔をしていた。
でも、その目はまっすぐだった。
「ただ、嫌だったことと、嫌じゃなかったことくらいは、分けて考えてください」
「……難しいこと言うね」
「神奈姉さんに合わせて、かなり簡単にしたつもりです」
「ちょっと馬鹿にしてる?」
「少しだけ」
即答だった。
私は思わず吹き出しそうになって、でもなんとか堪えた。
朔影はそんな私を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。
「私は、樒さんのことをまだ信用していません」
「うん」
「でも、神奈姉さんを守ろうとしていることは分かります」
その言葉に、私は少しだけ目を見開く。
「だから、完全に否定するつもりもありません。守る手が増えること自体は、悪いことではないので」
朔影は月明かりに照らされた庭を見たまま続けた。
「ただ、それでも」
「……うん」
「神奈姉さんの近くにいるなら、勝手に奪うのではなく、せめて向き合ってほしいと思います」
私は小さく息を吐いた。
朔影は、やっぱりよく見ている。
感情だけで拗ねているわけじゃない。
ちゃんと拗ねて、ちゃんと自分の罪も見ている。
そこが、朔影らしい。
「……朔影はさ」
「はい」
「私のこと、そんなに心配?」
聞いてから、少しだけ気まずくなる。
でも、朔影は目を逸らさなかった。
「はい」
迷いのない返事だった。
「心配です。ですが、それを口にするたび、自分勝手だとも思います」
「自分勝手?」
「神奈姉さんを傷つけたのは私なのに、今さら守りたいなどと」
朔影は小さく息を吐いた。
「それでも、見ていたいんです。閂さんを守るのが最優先で、その次だとしても。神奈姉さんがまた壊れていくのは、もう見たくありません」
その一言は、ひどく静かだった。
でも、静かすぎて、かえって胸に残る。
私は少しだけ視線を逸らした。
なんだか、まともに見返しづらい。
「……そっか」
「はい」
しばらく、二人で黙って月を見上げる。
満月は高く、白く、静かだった。
夜の庭は昼間よりも広く見える。
風が吹いて、木々が揺れる。
そのたびに月の光が葉の隙間で砕けた。
「もうすぐ、東京なんだよね」
ぽつりと呟くと、朔影が頷いた。
「はい」
「なんか、まだ実感ない」
「行けば嫌でも実感します」
「夢がないなあ」
「現実的と言ってください」
私は小さく笑った。
東京。
ここを離れて、新しい場所へ行く。
きっと面倒なことも増える。
敵も増えるかもしれないし、知らないものもたくさんあるだろう。
でも、少しだけ楽しみでもあった。
隣には朔影がいて、閂がいて、樒もいる。
太公望も、もちろんいる。
面倒で、騒がしくて、厄介で。
でも、ひとりじゃない。
「朔影」
「はい」
「東京でも、よろしく」
そう言うと、朔影は一瞬だけ目を瞬かせて、それから静かに頷いた。
「こちらこそ。閂さんを守り、神奈姉さんも見失わないようにします」
その言い方が、いかにも朔影らしかった。
順番を違えないまま、それでも私を外さない。
「……うん。よろしく」
そう返した、その時だった。
「神奈さま」
聞き慣れた声がして、私は振り返った。
廊下の先、縁側へ続く障子のそばに、閂が立っていた。
いつからいたのか分からない。
でも、たぶん少し前から気配はあったのだろう。
私が気づかなかっただけで。
閂は私と朔影を見て、それからいつも通りの落ち着いた声で言った。
「もう夜は遅いです。部屋に戻ってお休み下さい」
その声音は穏やかだったけれど、有無を言わせない響きもあった。
「……はーい」
私が素直に返すと、閂の目がほんの少しだけ和らぐ。
隣で朔影も静かに立ち上がった。
「はい。閂さん」
その返事は、いつもより少しだけ真面目だった。
いや、朔影はだいたいいつも真面目だけど、今のは特に、という感じだ。
私は立ち上がって、もう一度だけ空を見上げた。
満月は変わらず、夜空に浮かんでいる。
騒がしくて、重くて、面倒なことばかりだった日々も、ひとまずここで一区切りだ。
失ったものも、まだ許せないものも、抱えたままのものもある。
それでも、立ち止まっているわけにはいかない。
次は東京。
新しい場所で、また新しい厄介ごとが待っているのだろう。
けれど今は、それでいいと思えた。
月の光は静かで、夜風はやわらかい。
その下で私は、ひとりではないのだと、ちゃんと分かっていた。
読んでいただきありがとうございました。
ここまで二章となります。
少しでも「いいな」と思ったら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




