27話 別天津神
『素戔嗚神奈は行った! ならば無いわけではない! 術はあるはずだ! お前なら十王の知らぬことも知っているだろう。なんとしても過去へ戻り、この世界線のようなことが起こらぬよう尽力せよ!!』
地獄、閻魔庁。
長く伸びた廊下には、今日も獄卒や秘書官たちが絶え間なく行き交っていた。
書類を抱えて走る者。
誰かに呼び止められて足を止める者。
怒鳴り声を飛ばす者。
忙しない足音と紙の擦れる音、遠くで響く叱責と応答が幾重にも重なって、閻魔庁は今日も騒がしい。
地獄の役所なんて、もっと陰気で静かなものだと思われがちッスけど、実際は真逆ッス。
死者の数だけ案件があり、罪の数だけ処理がある。
静かでいられるわけがないッス。
そんな喧騒の真ん中で、私は盛大にため息を吐いた。
いや、無茶振りにもほどがあるッスよ。
過去へ戻れ、なんて、言うだけなら簡単ッス。
普通は無理ッス。
無理だからこそ、十王だって頭を抱えてるんでしょうに。
けれど、無理だと切って捨てられないあたりが、また面倒だった。
こういう時に限って、心当たりがある。
閻魔さまがあそこまで声を荒らげる時点で、ただの思いつきではない。
十中八九、世界の根っこに指をかけている側が絡んでいる。
「どう考えても、アレらの仕業ッスよね……」
ぼやきながら、私は廊下を小走りに進んだ。
向かう先は自室。
小さいながらも一人部屋を与えられているのは、私がただの獄卒ではないからだ。
地獄の中でも、少しばかり特殊な立場にいる。
ありがたいような、ありがたくないような話ッスけど、こういう時だけは個室があるありがたみを実感する。
部屋に入ると、すぐに扉を閉め、鍵をかけた。
外の喧騒が、一枚の扉を隔てただけで遠のく。
静かになった、というより、音が薄くなったという方が近い。
地獄に完全な静寂なんてものはない。
どこかで誰かが呻き、怒鳴り、泣き、あるいは笑っている。
そういう場所ッス。
私は机の引き出しを開け、奥にしまってあった鏡を取り出した。
見た目は、なんの変哲もない鏡だ。
飾り気もなければ、強い霊力を放っているわけでもない。
古びた手鏡、と言われればそれで通る程度の代物。
知らない者が見れば、せいぜい趣味の悪い骨董品くらいにしか思わないだろう。
けれど、私にとっては違う。
これは扉だ。
地獄のどこよりも深く、どこよりも面倒で、どこよりも上に近い場所へ繋がる扉。
正直、あまり使いたくない類の代物ッス。
「ほんと、趣味が悪いッス」
小さく呟いてから、私は親指の先を軽く噛んだ。
滲んだ血を鏡の中心へ押し当てる。
すると鏡面が、ぶわりと波打った。
静かな水面へ石を投げ込んだみたいに揺れたかと思うと、そのまま渦を巻くように空間を歪ませていく。
鏡の奥行きが、ありえないほど深くなる。
吸い込まれる、というより、向こう側から引きずり込まれる感覚に近い。
何度使っても慣れないッスね、これは。
私は慣れた足取りで、その歪みの中へ身を投じた。
次の瞬間、視界が反転する。
辿り着いた先は、先ほどまでいた私室ではなかった。
空気の質そのものが違う。
重く、澄んでいて、静かで、息をするだけで肺の奥まで洗われるような感覚がある。
神殿めいた厳粛さに満ちた空間だった。
地獄の空気が濁っているわけではない。
けれど、ここは別格だ。
澄みすぎていて、逆に息苦しい。
清浄というものも、度が過ぎれば暴力になるッス。
天を支えるような御柱が三本。
それぞれが三角を描くように立ち、その内には造化三神具が封じられている。
柱そのものが封印であり、祭壇であり、世界の均衡を支える楔でもある。
ここはただの神域じゃない。
死後世界の深部、その構造そのものに食い込んだ中枢の一つッス。
そして、その三本の御柱の中心に、二つの人影があった。
一人は、黒い袴に、背後へ太極図と八卦図を描いた白衣を纏う、男を思わせる風貌。
一人は、白い袴に、背後へ太極図と八卦図を描いた黒衣を纏う、女を思わせる風貌。
「宇摩志阿斯訶備比古遅さま、天之常立さま。お久しぶりッス」
「久しぶりだね、彼岸樒」「もう少し顔を出してもいいのよ、彼岸樒」
「いやー、私も忙しい身なので厳しいッス」
軽く返しながらも、私は二柱の様子を窺った。
相変わらずだ。
穏やかに見えて、その実、何をどこまで見通しているのか分からない。
こちらが一つ息を吐く間に、十も二十も先まで読んでいそうな顔をしている。
こういう相手は苦手ッス。
嫌いじゃないッスけど、疲れるッス。
「確かに忙しそうだね」「大和は大変。もう滅亡間近」
さらりと、とんでもないことを言う。
この二柱は昔からこうだ。
世界の終わりみたいな話を、まるで明日の天気でも語るみたいな調子で口にする。
この方たちにとっては国家の滅亡すら、季節の移ろい程度の重さしかないのだろう。
私は肩を竦めた。
「……それで、今日聞きに来たのは素戔嗚神奈についてッス。貴方方、珍しく干渉したッスよね。でなければ、此処まで来られるはずがないッス」
「私たちではなく、造化三神具の望みだよ」「そう。造化三神具は、彼女を特異点として選び、リセットを試みることにした」
やっぱり、そういう話になるッスか。
私は内心で小さく息を吐いた。
造化三神具は、修羅道無限回廊へ入ってくる罪人たちをすべて把握している。
その中で、何度死んでも挫けず、何度でも階層を進もうとしたのが素戔嗚神奈だった。
「彼女はしぶとかった。執念深かった。また、日緋色金のような意思の輝きがあった。だからこそ、興味を持たれた」「そこで造化三神具は考えた。どうすれば、彼女をこの不可思議階層深奥――造化三神具のある場所まで導けるか、と」
私は黙って続きを待った。
神奈さまを導く。
そこまでは分かる。
だが、どうやって。
「そのために、彼女を補助する存在を造った」「大陸における軍師のアーキタイプ。その名を冠し、主を支える王佐の才を具現化した神造精神体」
そこで、私は初めて眉を動かした。
「……そんなものまで用意したッスか」
「そう」「それが『太公望』だ」
その名を聞いた瞬間、私の中でいくつかの違和感が繋がった。
神奈さまの異様な踏破速度。
数多のスキルを扱いながら精神を破綻させなかった理由。
そして、過去へ戻る際に使われた術の不自然さ。
なるほど。
そういうことッスか。
「本人は、ただのスキルだと思っているけれどね」「けれど実際には、神奈を此処まで導くために造られた神造精神体だ」
私は小さく息を吐いた。
知らなかった。。
だけど、言われてみれば納得はできる。
あまりにも出来すぎていたのだ。
神奈さまの歩みも、その補助も。
「彼岸樒。肉体は持っていないけれど、キミと同じく造化三神具を親に持つ存在だ」「言うなれば、姉弟みたいなものね」
「いや、急に知らない弟が生えてきたッスけど」
思わずそう返したものの、冗談だけでは済まない話だった。
同じ親から生まれた存在。
そう言われれば、私が感じた引っかかりにも説明がつく。
造化三神具は、太公望を神奈さまに宿し、補助をさせた。
数多のスキルを扱わせ、数多の戦闘経験を積ませ、不可思議階層深奥まで辿り着かせる。
そのうえで造化三神具を与え、伊邪那美と四死妖を斃させる。
そういう筋書きだったのだろう。
「そして、此処へ来た神奈に造化三神具を与える予定だった」「同時に、死神が持つ現世と地獄を自在に行き来できるスキルを与えて、伊邪那美と四死妖を斃させる予定だったの」
「予定、だった……ッスか」
「うん。予定だった」「でも、予想外のことが起きた」
天之常立さまの声は静かだった。
静かなのに、妙に重い。
「この階層まで来た神奈は、此処の神々しさに寒気を覚えた」「そして、私たちが接触する前に、次の階層へ移動してしまった」
私はしばし無言になった。
いや、待ってほしい。
そんな理由あるッスか。
でも、素戔嗚神奈ならやりかねない。
やりかねないのが、また困るッス。
「私たちは造化三神具の守護者だ」「だから、この階層からは移動できない」
「縛りがある以上、追いかけることもできなかったッスね」
「そういうこと」「そして神奈は、そのまま不可思議階層の最終階層まで進んだ」
空気が、わずかに沈む。
「そこで敗れ、死にかけた」「ここでやり直しになれば、造化三神具の積み重ねも水の泡だった」
「だから、過去へ戻したッスか」
「現世での対処はもう不可能だ」「ならば過去へ戻り、今とは別の世界になる可能性に賭けるしかなかった」
私は腕を組んだ。
閻魔さまがあれほど切羽詰まっていた理由も、これで繋がる。
「太公望は自覚していない」「でも、彼が使った【八門遁甲・輪廻逆行辿生】は、造化三神具によって作り出された回帰術だ」
「そして神奈は、太公望と共に過去へ戻った」「今の世界線が始まった、というわけ」
なるほど。
だいたい事情は分かった。
そして同時に、自分がこれから何に関わらされるのかも、だいたい見えてしまった。
「で、閻魔さまは私に、過去へ戻って何とかしろって言ったッス」
「うん」「だから協力してあげる。ただし、条件がある」
「――条件ッスか」
「伊邪那美と四死妖を斃してくれ」「私たちは神にも人にも辟易しているけれど、滅んではほしくないの」
「無理ッス。私だけじゃ絶対に無理ッス!」
私は即座に抗議した。
そんなもの、無茶振りにもほどがある。
「大丈夫」「少々反則技ではあるけれど、造化三神具を彼岸樒に与える」
「彼岸樒は神造死神」「適性は十分すぎるほどある」
軽く言う。
けれど、その内容は軽くない。
「造化三神具がある所、私たちも移動できる」「別天津神が揃えば、不可能なことは何一つとしてない」
「伊邪那美と四死妖を斃す際に、戦闘データを取るといい」「そして過去へ戻ったあと、そのデータを元に神奈を鍛えてあげればいい」
「伊邪那美と四死妖がいなくなれば、神話の時代は本当に終わる」「残った者たちが、その先を紡いでいけばいい」
私はしばらく黙っていた。
断りたい。
ものすごく断りたい。
けれど、ここで断ったところで、たぶん別の形で押しつけられるだけだ。
何より、もう話を聞いてしまった時点で、完全に無関係ではいられない。
面倒ッスね、本当に。
でも、面倒だからと放り出せる段階は、たぶんとっくに過ぎている。
「もういっそのこと、過去に戻っても私が造化三神具を使って伊邪那美たちを斃すのはどうッスか」
その提案に、二柱はほとんど間を置かずに答えた。
「ダメだ」「歴史とは神が紡ぐものではなく、人が紡いでいくもの」
静かな声だった。
けれど、そこには一切の揺らぎがなかった。
「私たち別天津神が出るのは、あくまで超法規的措置だ」「それに私たちが斃すのは伊邪那美と四死妖だけ」
「晴明は対象外だ」「晴明は残った人たちに任せる。アレは人間だから」
私は目を細めた。
伊邪那美は神。
四死妖は伊邪那美の眷属。
だが、晴明は違う。
半妖半人ではあっても、神ではない。
だからこそ、討伐対象には含まれない。
理屈は分かる。
分かるッスけど、面倒な線引きッスね、本当に。
「晴明に滅ぼされるのなら、この世界はそれまでということ」「人間の悪あがき次第」
あまりにも淡々とした言い方だった。
冷たい、と言えば冷たい。
けれど、それがこの二柱の在り方なのだろう。
神は世界の外枠に手を入れることはあっても、その先を生きるのは人だ。
神が全部を片づけてしまえば、それはもう人の歴史ではなくなる。
だからこそ、伊邪那美と四死妖までは斃しても、その後に残る晴明は人間へ委ねる。
それが、この世界に許された最低限の均衡なのだ。
私は小さく息を吐いた。
「……つまり、私は一回ボス達と戦い経験して、戦闘データを持って過去へ戻り、神奈さまを鍛えろってことッスね」
「そういうこと」「簡単でしょう?」
「全然簡単じゃないッスよ!」
思わず叫んだ。
だが二柱は、どこ吹く風だ。
結局、私はその役目を引き受けた。
いや、引き受けさせられたと言うべきかもしれない。
そして――四死妖と伊邪那美を斃し、宇摩志阿斯訶備比古遅さまと天之常立さまに【八門遁甲・輪廻逆行辿生】を施され、過去へやって来た。
そこまで語り終えたところで、浴場にはしばし沈黙が落ちた。
湯気がゆっくりと揺れる。
檜の香りが、少し遅れて鼻をくすぐった。
さっきまで怒気を孕んでいた空気は、今は別の重さを帯びている。
理解の追いつかなさと、自己認識を揺さぶられた者の沈黙。
そのどちらもが、静かな圧になって場に沈んでいた。
「……」
神奈さまの身体を通して表に出ている太公望は、珍しく絶句していた。
その顔立ちも、声を発する喉も、器としては神奈さまのものだ。
けれど、今そこに宿っている意識は神奈さまではない。
神奈さまの意識が眠っているあいだだけ、内側にいる太公望が表層を担っている。
別々のようでいて、切り離せない一心同体。
そういう在り方ッス。
神奈さまの手が、ゆっくりと額へ伸びる。
その仕草には、いつもの神奈さまらしい感情の動きではなく、理知的で抑制の利いた太公望の癖が滲んでいた。
「つまり貴方は、自分がただのスキルだと思い込みながら、神奈さまをここまで導いてきた神造精神体だった、ということッス」
「……整理する時間をください」
低い声だった。
神奈さまの唇から発せられているのに、響きは明らかに太公望のものだ。
いつもの冷静さは保っている。
けれど、その奥で思考が激しく回っているのが分かる。
太公望は理知的だ。
理知的だからこそ、自分の存在定義を覆されることの重さも、誰より正確に理解してしまうのだろう。
「でも、神奈さまを支えたい気持ちは本物だったッスよね?」
その問いに、神奈さまの身体がぴたりと静止した。
沈黙は短かった。
迷いは、ほとんどなかった。
「……それは、疑う余地もありません」
即答だった。
そこだけは、何一つ揺らがない。
私は、ふっと笑った。
なら十分ッス。
出自がどうであれ、今ここにいる太公望が、神奈さまを支えたいと願ってきた事実は消えない。
造られた理由がどうであれ、その後に積み重ねた意思まで偽物になるわけじゃない。
「なら十分ッス。出自がどうであれ、今の貴方が神奈さまを支えてきた事実は変わらないッスから」
湯気の向こうで、神奈さまの目がわずかに細くなる。
その眼差しに宿るのは、神奈さまの熱ではなく、太公望の静かな思索だ。
怒りはもう薄れていた。
代わりにあるのは、困惑と、思索と、ほんの少しの警戒。
私を完全に信用したわけではない。
けれど、話を聞く価値がある相手だとは認め始めている。
そんな目だった。
「……彼岸樒。貴方が私にこの話をした理由は何です」
「簡単ッスよ」
私はにっと笑った。
「これから同じ主を支えるなら、腹の内を知らないままってのもやりにくいッスから」
それは半分本音で、半分は方便だ。
本当はもっと現実的で、もっと切実な理由がある。
私は、今は太公望が表に出ている神奈さまの身体へ視線を向けた。
眠っているのは神奈さまの意識だけで、身体そのものはここにある。
目の前にいるのは神奈さまであり、同時に太公望でもある。
その一心同体の在り方は、見ていて少し不思議な感覚になるッスね。
「それに、私は神奈さまを修行させて、守るために来たッス」
神奈さまの――いや、太公望の意識を宿したその眼差しが鋭くなる。
「……どういう意味です」
「そのままの意味ッス。未来で見た限り、神奈さまが死んだ場合、高確率で大和は滅びに向かうッス。完全に終わるかどうかは分岐次第でも、少なくとも碌な未来にはならない。だから神奈さまには、生き残ってもらわないと困るッス」
言葉にすると、あまりにも重い。
けれど、それが事実だった。
神奈さまは、ただ強いだけの少女じゃない。
あれは流れを変える楔だ。
折れれば、そのまま世界の傾きまで変わる。
だからこそ、私はここにいる。
「守るだけでは足りないッス。神奈さまは放っておいても危険に首を突っ込む人ッスから。だから、守るのと同時に、鍛えて、死なないだけの力をつけてもらう必要があるッス」
太公望は、神奈さまの身体を通して黙って聞いていた。
その沈黙は否定ではなく、続きを促す沈黙だった。
「でも、守るにしても鍛えるにしても、遠くにいたら意味がないッス。近くにいないと、間に合わないこともある。だから私は、神奈さまのすぐそばに潜り込む必要があったッス」
「……まさか」
神奈さまの唇から漏れた声が、わずかに低くなる。
私は肩を竦めた。
「そうッス。風臥さまや、その周辺には少し神術をかけたッス。洗脳って言うと聞こえは悪いッスけど、私が最初からそこにいるのが自然だと思うように、認識を少し整えただけッス」
「整えた、で済ませる話ではないでしょう」
「まあ、そうッスね」
あっさり認める。
実際、軽く言っていい話ではない。
神術による認識操作。
それは人の縁や判断に手を入れる行為で、やっていることだけ見ればかなり強引だ。
でも、そうでもしなければ神奈さまの近くには入れなかった。
「風臥さまは警戒心が強いッスし、素性の知れない相手を神奈さまの側に置くほど甘くない。だから、最初から“そういう流れだった”ことにしたッス。閂パイセンや周囲も含めて、違和感が出ない程度には馴染ませたッス」
神奈さまの目が細くなる。
その変化は表情としては神奈さまのものなのに、そこに宿る警戒と判断は太公望のものだ。
こういうところで、一心同体なんだと改めて分かるッス。
「言っておきますが、害意があってやったわけじゃないッス。神奈さまを守るためッス。あの人が死ねば、大和が傾く。なら、多少強引でも近くにいる方を選ぶしかなかったッス」
しばらく、太公望は何も言わなかった。
浴場に満ちるのは、湯気と檜の香り、それから重い沈黙だけだ。
やがて、神奈さまの唇がゆっくりと開く。
「……手段は到底看過できません」
「でしょうね」
「ですが、目的が神奈さまの生存と成長にあるという点については、理解しました」
私は少しだけ目を丸くした。
もっと強く切り捨てられるかと思っていた。
けれど太公望は、感情だけで断じなかった。
そこがいかにも彼らしい。
「ただし」
案の定、続きがあった。
「今後、神奈さまに不利益となる形でその神術を使うなら、私は貴方を敵と見なします」
静かな声だった。
けれど、その静けさの奥にあるものは重い。
脅しではない。
本気の線引きだ。
私は、ふっと笑った。
「上等ッス。そこまで言うなら、少し安心したッスよ」
「何がです」
「神奈さまの側に、ちゃんとそう言える存在がいるってことッス」
太公望は答えなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
私は改めて、目の前の神奈さまを見る。
今は太公望が表に出ている。
けれど、その内側には神奈さまが眠っている。
完全に別ではなく、切り離せない一つの器の中で、二つの意識が重なっている。
面倒な在り方ッスね。
でも、だからこそ守り甲斐もある。
「とにかく、事情はこんなところッス。納得したッスか?」
「納得はしていません。ですが、理解はしました」
「それなら上出来ッス」
私は軽く手を振った。
「じゃあ、そろそろ神奈さまを返してもらうッスよ。これ以上眠らせてると、起きたあとで余計に怒られそうッスから」
「それは間違いないでしょうね」
太公望の返答は、どこか疲れていた。
その声音が妙に可笑しくて、私は少しだけ笑いそうになる。
――やっぱり、この弟、嫌いじゃないッスね。
読んでいただきありがとうございました。
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