26話 奪
樒との手合わせを終えたあと、私は別邸の大浴場に来ていた。
檜で造られた浴場は、まるで温泉みたいな風情がある。
湯気の向こうに木目がぼんやりと浮かび、熱を含んだ空気には、ほのかに木の香りが混じっていた。
戦闘の熱が、まだ身体の奥に残っている。
だからこそ、この湯気と温かさが心地いい。
木の椅子に腰かけ、ボディータオルにボディーソープを押し出して泡立てる。
腕、肩、首筋。
汗と埃を洗い流していくたびに、ようやく一息つける気がした。
肩口には、さっき樒に打ち抜かれかけた時の鈍い感覚がまだ少し残っている。
【在りしへ還る】で戻してはいるけれど、痛みの記憶まで消えるわけじゃない。
それにしても、強かった。
掴みどころがなくて、軽くて、ふざけているように見えるのに、戦うと厄介極まりない。
ああいう相手は嫌いじゃない。
むしろ、かなり好きな部類だ。
そんなことを考えながら泡を流していると、不意に背後から声がした。
「闘いは凄かったッスけど、胸はまだまだのようッスね」
「樒!?」
私は反射的に振り返り、慌てて胸元を両手で隠した。
いつの間に入ってきたのか、樒はすぐ後ろに立っていた。
湯気の中でも分かるくらい、にこにこと楽しそうな顔をしている。
「女同士なんだから、気にすることないッスよ」
「……樒って、女も大丈夫なんでしょ」
「求められたら相手はするッスけど、自分からはしないッス。安心していいッスよ」
そう言いながら、樒は一歩近づいてくる。
近い。
さっきまで戦っていた時とは違う意味で、距離感がおかしい。
私は思わず椅子の上で少し身を引いた。
「……それよりもッス」
その声色が、ほんの少しだけ変わった気がした。
次の瞬間、身体が動かなくなる。
「っ……!」
肩。
腕。
腰。
見えない何かに押さえつけられたみたいに、ぴたりと固定される。
間違いない。
さっきの戦いで使われたスキル――【空は既に手の内】。
「樒、なに――」
言い終える前に、樒の両手が私の肩を押さえた。
そのまま、ぐっと顔を寄せてくる。
近い、と思った時には、もう遅かった。
唇に、柔らかい感触が重なる。
「――ッ!」
一瞬、頭が真っ白になった。
ただ触れるだけじゃない。
深く、絡め取るような口づけ。
舌が触れた瞬間、背筋がぞくりと震えた。
大人のキスだ、と分かってしまう。
まだ男性とは、今世ではしていないのに。
普通のキスは朔影に奪われて、今度は樒にこんなキスを奪われるなんて。
なんだか悔しい。
悔しいのに、身体は動かない。
振りほどけない。
息まで乱されて、頭の芯がじわじわ痺れていく。
おかしい。
ただのキスじゃない。
何かが混じっている。
視界が揺れる。
湯気が滲む。
足元がふわふわして、意識の輪郭がぼやけていく。
樒がそっと唇を離した時には、もうまともに焦点が合わなかった。
「神奈さま。少しお休みくださいッス」
耳元で囁く声が、妙に近い。
「私はちょっと、中の人と話があるッス」
中の人。
その言葉に、ぼやけた意識の中で引っかかりを覚える。
私の中にいる存在なんて、一人しかいない。
――太公望?
そう思ったところで、意識がふっと暗く沈んだ。
SIDE:彼岸樒
神奈さまの意識が落ちたのを確認して、私はそっとその身体を支えた。
檜の香りが湯気に混じって漂っている。
さっきまで騒がしかった浴場は、今は妙に静かだった。
湯面だけが、ちゃぷりと小さく揺れている。
いや、正確には静かじゃないッスね。
静かに見えるだけで、内側は全然静かじゃない。
神奈さまの中にいる“あの子”は、今まさに怒りで煮え立っているはずッスから。
「さて、と」
私は神奈さまの身体を傷つけないよう、ゆっくりと床へ横たえた。
頬には、うっすら涙の跡が残っている。
……あー。
これは怒るッスよね。
私としては、手っ取り早く意識を落として中へ潜るための手段だったんスけど、結果として泣かせたのは事実ッス。
しかも相手は、あの太公望。
次の瞬間、浴場の空気が変わった。
湯船の湯が、ぶくりと膨れ上がる。
熱を帯びた水面が渦を巻き、一本の長い影を形作っていく。
霊力だ。
しかも、かなり濃い。
湯がうねり、鱗を持つ長大な蛟へと姿を変える。
湯気を纏った水の蛟は、青白い光を宿しながら、私へ牙を剥いた。
「うわ、いきなり物騒ッスね」
返事の代わりに、蛟が襲いかかってきた。
速い。
浴場の狭さなんて関係ない。
湯そのものが意思を持ったみたいに、一直線に喉元を食い破りに来る。
私は半歩だけ身をずらす。
同時に、指先で空間を弾いた。
ぱん、と乾いた音がした。
次の瞬間、蛟の頭部が内側から破裂する。
形を保っていた湯が一気に弾け、熱い飛沫となって四方へ散った。
続けざまに胴も尾も耐えきれず、ぼろぼろと崩れていく。
最後には、ただの湯へ戻って床を濡らしただけだった。
「いやー、怖い怖い。お湯で蛟を作るとか、発想が完全にブチギレてるッスよ」
湯気の向こうで、気配が立ち上がる。
神奈さまの身体。
でも、中身は違う。
閉じていた瞼がゆっくりと開く。
その目に宿る光は、さっきまでの神奈さまのものじゃない。
もっと冷たく、もっと鋭く、もっと理知的で――そのくせ、今ははっきりと怒っていた。
「初めましてッス。姉弟なんですから、仲良くしましょうッス」
「神奈さまを泣かせておいて、仲良くできるとでも? それに、此はスキルです。姉弟などいません」
ぴしゃり、と切り捨てるような声だった。
怒ってる怒ってる。
しかも、かなり本気で怒ってるッスね。
「いやー、間違いなく私と貴方は姉弟ッス。なんてったって、同じ物から産み出された存在なんッスからね」
「……どういうことです」
その一言で、浴場の温度がまた少し下がった気がした。
怒りはそのまま。
でも、理性で押さえ込んでいる。
さすが太公望ッス。
「『太公望』なんて名前のスキルは存在しないッス。スキルの名称から言って、ありえないッスよね」
「――ッ」
図星。
神奈さまの中で長く補助を続けてきたからこそ、自分でも薄々は気づいていたんでしょう。
でも、認めないままにしていた。
あるいは、認める必要がなかった。
「疑問には思っていたようッスね。では、私たちの親の話をするッス」
私は濡れた髪をかき上げながら、湯気の向こうに立つ“弟”を見た。
「私は地獄で閻魔大王から命令を受けたあと、逆口寄せで親の元へ行ったッス」
「親、ですか」
「そうッス。私の親と呼べるのは、修羅道無限回廊の不可思議階層深奥に封じられている造化三神具ッス」
太公望は黙っている。
でも、その沈黙は聞く姿勢の沈黙だ。
「昔、天照家、月夜見家、素戔嗚家は、それぞれ造化三神具を一つずつ持っていたッス。天照家が天之御中、月夜見家が神産巣日、素戔嗚家が高御産巣日。どれも世界の根っこに触るような、とんでもない神具ッス」
単独でも危険。
三つ揃えば、なお危険。
「でも、月夜見家が離反したあと、天照家が三神具をすべて回収したッス。その後、閻魔との交渉で、三神具は修羅道無限回廊の不可思議階層深奥にまとめて封印されたッス」
「一箇所に、ですか」
「そうッス。分けて封じるんじゃなくて、あえて一箇所に集めて封じたッス。あの三つは、揃って初めて完全になる神代遺物ッスからね。その均衡そのものが、修羅道無限回廊の安定維持に使われてるッス」
つまり今の造化三神具は、ただ封印されているだけの神具じゃない。
「地獄と黄泉の分断。修羅道無限回廊の自己維持。死後世界の境界安定化。そういう中枢機構の一部として、三神具は封じられてるッス」
太公望の目が、わずかに細くなる。
「……それが、私とどう繋がるのです」
「簡単な話ッスよ」
私はにっと笑った。
「私は造化三神具によって造り出された神造死神ッス。造化三神具によって、私は修羅道無限回廊に発生するスキルのうち、百八個のスキルを持っているッス」
「神奈さまには及びませんね」
即答だった。
しかも、ちょっと誇らしげだ。
「えー、完全な状態なら神奈さまは幾つスキルを持っているッス」
「数え切れないほどです。修羅道無限回廊を不可思議階層の最終階層まで踏破した神奈さまを舐めないで下さい」
神奈さまの身体でドヤるの、だいぶ面白いッスね。
でも、そこは否定しないッス。
「その神奈さまが、不可思議階層の最終階層まで行って精神が保っていたのは、太公望……貴方が精神補助を行っていたからッスよね」
「当たり前です。私がサポートしているのに、神奈さまを狂わせたりはしません」
即答。
迷いなし。
そこに関してだけは、一片の揺らぎもない。
やっぱり、そうッスよね。
「――それが親の意思でもあったッス」
太公望の表情が、初めてわずかに動いた。
「太公望。貴方はスキルではなく、軍師の原型とされる『太公望』を元に、王佐の才を注ぎ込まれて造られた神造精神体ッス。同じ親に造られた者同士。だから、私と貴方は姉弟なんッス」
読んでいただきありがとうございました。
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