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華には修羅がある~修羅道より回帰した令嬢は運命を覆す~  作者: 華洛
プロローグ:輪廻辿生

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03話 辿生


 意識が覚醒した。


 ゆっくりと瞼を開く。

 最初に目に入ったのは、木造の天井だった。

 見慣れた木目の走り方。節の位置。薄く滲んだ染み。


 ああ、これは知っている、と思った。眠れない夜に何度も眺めた天井だ。

 身体を起こし、周囲を見回す。


 学習机の上に置かれたノートパソコン。

 木製のクローゼット。

 壁に掛けられた見覚えのある学生服。

 刀掛けに納められた愛刀・愛染明王。

 無造作に置かれた、霊力を鍛える器具の数々。

 血圧計とよく似た形状の霊脈測定器。

 霊子を循環させるための符と印が、部屋の四方に張り巡らされている。


 ――ここは、私の部屋だ。


 一つひとつを目で辿るたびに、記憶が砂の中から掬い上げられるように浮かんでくる。


 修羅道無限回廊の果てしない時間の中で、記憶はかなり摩耗していた。それでも、この部屋の空気は身体が覚えていた。日当たりの悪い午前中の薄さ、畳と木材が混ざり合った匂い、どこか張り詰めた静けさ。素戔嗚家の屋敷の中で、ここだけが私だけのものだった。

 地獄へ堕ちる前まで暮らしていた記憶が、徐々に蘇ってくる。

 それと同時に、私の半身がきちんと存在しているか、不安になった。


(太公望……太公望……太公望!)


《はい。宿主さま》


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に張り詰めていたものがほどけた。

 気づいたら、息を吐いていた。こんなに深く息を吐いたのは、修羅道無限回廊でもなかったかもしれない。


(――良かったぁ。太公望がいるってことは、【八門遁甲・輪廻逆行辿生】は成功したってことでいいんだよね?)


《…………とても成功とは言えません》


(え?)


《【八門遁甲・輪廻逆行辿生】で辿る先は、無限回廊一階へ戻るよう設定していました。ですが実際には、宿主さまの幼少期にまで遡ってしまいました。申し訳ございません》


(ああ、そんなこと?)


 太公望が「成功とは言えない」などと言うから、どれほど致命的な失敗をしたのかと思った。

 けれど、幼い頃へ戻った程度なら、むしろ許容範囲だ。

 確かに、修羅道無限回廊の楽しさをすぐ味わえないのは少し惜しい。


 だけど、人はいずれ死ぬ。


 死ねばまた、あの無限回廊へ行けるのだ。

 それを待つのも悪くない。

 問題があるとすれば、閻魔大王に再び修羅道へ落とされるかどうかだが――たぶん落とされる気がする。


 うん。きっと落とされる。

 むしろ落とされなかったら、それはそれで物足りない。


 ……まあ、それはそれとして。

 今は約束を守ってもらうほうが大事だった。


(太公望。【八門遁甲・輪廻逆行辿生】が成功したら、私のことは名前で呼ぶって言ったよね?)


《……先ほども申しましたが、とても成功とは言えません》


(いやいや、十二分に成功だよ。だって、こうして太公望と一緒にいられるんだから。【八門遁甲・輪廻逆行辿生】を使うって決めたのも、太公望と離れたくなかったからだし。こうして一緒にいられる以上、文句なしの成功。転生先なんて些細なことだよ)


《……しかし》


(それに、太公望はちゃんと私のオーダーを果たしてくれた。それに……生前に未練が全くないわけじゃないから、やり直せるなら、それも悪くないよ)


 修羅道無限回廊の果てしない時間の中で、記憶はかなり摩耗している。

 それでも、前回の人生に満足していたかと問われれば、答えはノーだった。


 【万華鏡雅叙苑】の件。

 風臥兄さんの死。

 その他諸々。


 薄れた記憶の中にも、未だ胸に引っかかるものは残っている。燃え尽きる寸前に見た、蒼天さまの手と、輝夜の笑みが、今もどこかに刺さっている。


 ――やり直せるのなら。


 それは決して悪いことではない。


《それだけではありません、宿主さま。指先に少しだけ霊力を込めてください》


(指先に?)


 言われた通り、指先へわずかに霊力を込める。


 次の瞬間。


 指先が、骨ごと弾け飛んだ。

 音が先だった。

 湿った破裂音が耳に届いて、それからようやく痛みが来た。


 鋭い、というより、熱かった。肘から先が丸ごと焼かれているような感覚が、波のように繰り返し押し寄せてくる。弾け飛んだ指先から血が滲み、畳に赤い染みが広がっていく。

 修羅道無限回廊では、戦闘中に痛みで意識を乱されることを嫌い、常に痛覚を遮断していた。

 だからこそ、ここまで鮮烈な痛みを味わうのは、本当に久しぶりだった。懐かしい、とすら思った。痛みがある、ということは、それだけ生きているということだ。


(……これは?)


《宿主さまは修羅道無限回廊にて、不可思議最終階層へ至るまで潜り続けた結果、霊力が常軌を逸するほど鍛えられています。総量だけで言えば、十王すべての霊力を合わせてもなお上回るでしょう。その膨大な霊力が、幼い宿主さまの躰に過剰な負荷を掛けています。今の宿主さまは、ほんの僅かに霊力を放出しただけで、自壊してしまう状態なのです》


(へぇ)


 ――それは朗報じゃない?


 だって、新しい苦難に挑戦できるってことでしょう。

 修羅道無限回廊では、全てをリセットしての挑戦は何十回も経験した。

 だけど、積み上げたものを維持したまま苦難へ挑むのは初めてだ。


 誰かが言っていた。


『真の強さとは、苦難を乗り越え、その果てに適応した者だけが得られる』


 私は、この言葉が好きだった。


 誰の言葉だったか、もう思い出せない。でも言葉だけは、記憶の摩耗を生き延びて残っていた。

 ならば、この苦難を乗り越えれば。

 私はまた、一つ強くなれる。


(全然問題ないね。むしろ楽しみが増えたくらいだよ)


《……バックアップしたスキルも、未だ完全には復元できていません》


(スキルは追々でいいよ。便利すぎる力は、実力を腐らせるから)


 修羅道無限回廊では、相手も当たり前のようにスキルを使ってきた。

 だからこちらも必要に応じて使っていただけだ。

 けれど、この世界では違う。


 蒼天さまが私へ時間停止を掛けたのも、「天逆矛」の権能によるものだった。

 この世においてスキルとは、霊剣や神具やのような道具に宿るのが一般的であり、個人に定着する例は極めて稀だ。

 そして稀に個人へ宿ったとしても、その利便性に溺れ、自身を鍛えることを怠る者も少なくないと聞く。

 それよりも、今は別のことが気になった。


(さっきから失敗したってことばかり強調してるけど……そんなに私のこと、名前で呼びたくないの? もしかして嫌い?)


《そんなはずありません! 私が宿主さまを嫌うなど――!》


 珍しく取り乱した太公望の声に、思わず笑みが零れる。


(ならさ。私が成功だって言ってるんだから、成功でいいじゃん。だから、名前で呼んでよ。太公望)


 しばらく、沈黙があった。

 太公望が黙るときは、いつも何かを整理しているときだ。修羅道無限回廊でも、難攻不落の深階層を前にして、太公望が長く黙った後に導き出した答えは、いつも正確だった。

 だから今も、待った。


《………………》


 沈黙が続く。

 太公望がこれほど長く黙るのは珍しかった。スキルが言葉を選んでいる、というより、何か別のものと戦っているような、そんな気配があった。

 私は何も言わずに待ち続けた。


《………………宿主さま……いえ》


 もう一度、間があった。

 その間が、何かを手放す時間なのだと、なんとなく分かった。「宿主さま」という呼び方に込められていたものを、太公望なりに整理している。スキルと宿主という関係の外側へ、初めて踏み出そうとしている。


 私は静かに、その一歩を待った。


《神奈さま。貴女さまは、本当に頑固ですね》


(あ、名前! 呼んでくれた……ありがとう、太公望! これからもよろしくね、相棒)


 一拍置いて、私は小さく笑った。


(ううん。私の半身)



読んでいただきありがとうございました。

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