04話 再会
枕元の台に置かれたスマートフォンを手に取る。
画面を点灯させると、白い数字が浮かび上がった。
【20xx.03.06】
その数字を見て、私は小さく息を吐いた。
(……なるほど)
十二歳。
思っていたより、ずいぶん前まで戻ってきたらしい。
父さまは、もういない。
十歳のとき、酒呑童子率いる万妖暴走で殿を務めて死んだ。
だから、何も失っていない頃ではない。
けれど、まだ全部が壊れたわけでもない。
風臥兄さんは生きている。
【万華鏡雅叙苑】の一件も、まだ先だ。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
指先がわずかに脈打つ。
さっき弾け飛んだばかりの痛みが、まだ熱を残していた。
(それにしても、やっぱり不便だね。この身体)
《現時点では、霊力制御の再調整が必須です》
(うん。でも、面白いよ。積み上げたものを持ったまま、最初からやり直せるなんて)
修羅道無限回廊では、死ねばほとんどすべてを失った。
強さも、成果も、拾ったものも消えて、残るのは経験だけ。
だからこそ、今の状況は新鮮だった。
最強の中身に、最弱に近い器。
なるほど、これはこれでやりがいがある。
《神奈さまは本当に前向きですね》
(前向きっていうか、せっかくなら楽しんだほうが得でしょう?)
そう返したところで、
コン、コン。
扉がノックされた。
「神奈さま、起きていらっしゃいますか?」
その声に、思考が止まった。
(……あ)
閂だ。
知っている声だった。
毎日のように聞いていた声。
少し低めで、落ち着いていて、でも私を呼ぶときだけほんの少し柔らかくなる声。
その声を認識した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
封じられていた箱が、内側からこじ開けられるみたいに、扉間閂に関する記憶が一気に浮かび上がってくる。
――なんで、今まで思い出さなかったんだろう。
いや、違う。
思い出せなかったんだ。
風臥兄さんを喪ってから、私に残された最後の家族みたいな人だった。
それなのに、その人のことを、私はずっと思い出せずにいた。
《神奈さま。大丈夫ですか? 霊力が激しく乱れています》
(……うん。大丈夫)
そう返したけれど、少しだけ喉が詰まった。
前の人生で、私は閂を失った。
――私が、殺した。殺してしまった。
あれは、【万華鏡雅叙苑】の一週間ほど前だった。
伊邪那美によって力を与えられた最強四大妖怪――四死妖。
酒呑童子、玉藻前、鞍馬天狗、禰々子河童。
その一角である禰々子河童に、閂は攫われた。
『神殺しの御子へ。大切な人から尻子玉を抜かれて失いたくなければ、深淵・穢界まで来なさい。もちろん一人でね』
古風にも、新聞の文字を切り抜いて作られた脅迫文だった。
封筒の中には、閂がいつも着物の内側に仕舞っていた短刀が同封されていた。
尻子玉は、霊力や生きる意思を凝縮したものだ。
それを抜かれた人間は、廃人同然になる。
明らかな罠だった。
家の者たちにも、素戔嗚家当主代行として軽率に動くべきではないと窘められた。
蒼天さまからも、『素戔嗚家の唯一の継承者であるお前が助けに行く必要はない』と言われた。
分かっていた。
家の者たちも、蒼天さまも、間違っていない。
私は伊邪那岐さまが遺した御三家の一角、素戔嗚の末。
伊邪那美を殺す――神殺しの役割を負った、最後の一人だ。
使用人と私とでは、命の価値が違う。
それでも、行った。
理屈ではなく、行くしかなかった。
あの頃の私は、父さまも、風臥兄さんも喪っていた。
家族と呼べる支えは、もう閂しかいなかった。
私は周囲の制止を振り切って、深淵・穢界へ向かった。
そこで、閂を攫った禰々子河童と戦った。
苦戦しながらも、愛染明王で一閃。
その身体を斬り伏せて、私は勝った――はずだった。
でも、おかしいと気づくべきだった。
四死妖の一角である禰々子河童が、あの程度の苦戦で斃せるはずがない。
斃した禰々子河童の姿は、閂へと変わった。
人形分身の術。
【万華鏡雅叙苑】で厄災鬼に使用されたものと同じ術。
閂はそれによって、禰々子河童の姿に変えられていたのだ。
『……神奈……さま……私の……ことは……忘れてくだ……さい』
できるわけがなかった。
母さまのいない私にとって、閂はただの使用人じゃない。
母親で、姉で、家族だった。
そんな人を忘れられるはずがない。
『……神奈……さま……私に……記憶を……閉じ………』
血塗れの手が、私の額に触れた。
その瞬間、閂に関する記憶が、何かに蓋をされるみたいに閉じていく感覚があった。
そして、誰かがいた。
誰だったのかは分からない。
でも、閂を殺して壊れかけていた私に、誰かがさらに術を施したのだと思う。
次にはっきり意識が繋がったとき、私はもう【万華鏡雅叙苑】で厄災鬼を口寄せしていた。
――つまり。
私は閂を失っただけじゃない。
失ったことすら、奪われていた。
だから今、扉の向こうから聞こえた声が、こんなにも胸を抉る。
《神奈さま》
(……うん)
短く息を吐く。
大丈夫。
少なくとも、今はまだ大丈夫だ。
扉の向こうにいるのは、死体じゃない。
幻でもない。
まだ失う前の、扉間閂だ。
「……入って」
そう告げる声は、思ったよりも普通だった。
扉が静かに開く。
「おはようございます、神奈さま。お加減は――」
姿を見た瞬間、私は少しだけ目を見開いた。
いる。
当たり前みたいに立っている。
当たり前みたいに息をしている。
当たり前みたいに、私を見ている。
割烹着の白。
整えられた髪。
胸元に隠した小刀の気配。
少しだけ目を細める癖。
全部そのままだ。
ああ、本当にいるんだ、と思った。
(……太公望)
《はい》
(これは、思ったより効くね)
《そうでしょうね》
他人事みたいな返しなのに、妙に優しかった。
私はベッドから降りると、そのまま閂のほうへ歩いていった。
走るほどではない。
でも、止まる理由もなかった。
「……閂」
「はい、神奈さま――わっ」
そのまま抱きつく。
細い。
でもちゃんと温かい。
生きている人の体温だった。
腕に少しだけ力を込める。
逃がさないためというより、確かめるために。
ああ。
いる。
ここにいる。
「……よかった」
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
「本当に、よかった」
「神奈さま……?」
閂は戸惑っていた。
当然だと思う。
朝一番で、主がいきなり抱きついてきたのだから。
それでも振りほどかず、そっと私の頭を撫でてくれる。
その手つきが、記憶の中とまったく同じで、少し困った。
これは、効く。
かなり効く。
(……太公望。泣いたら変かな)
《少し驚かれるでしょうが、不自然ではありません》
(そっか)
でも、泣くほどではなかった。
たぶん私は、泣くより先に満たされてしまったのだと思う。
失ったものが、ここにある。
それだけで、胸の奥のひび割れた場所に、少しずつ何かが満ちていく。
もう一度だけ、腕に力を込める。
「神奈さま。どうなさったのですか?」
「……ううん。ただ、閂が生きててよかったなって」
「はい?」
さすがに意味が分からない、という顔をされた。
もっともである。
説明しようにも、
「前の人生であなたを自分の手で斬りました」
などと言えるはずもない。
なので、私は誤魔化すことにした。
「ちょっと、嫌な夢を見ただけ」
「悪夢、ですか?」
「うん。かなり趣味の悪いの」
嘘ではない。
事実をだいぶ丸めただけだ。
閂はなおも不思議そうにしていたが、やがて小さく息をついた。
「……それで、甘えたくなったのですか?」
「そういうことにしておいて」
「まったく、神奈さまは……」
呆れたような声。
でも、少しだけ安堵も混じっていた。
そのときだった。
閂の手が、ぴたりと止まる。
「……神奈さま」
「ん?」
「血の匂いがします」
あ、と思った。
しまった。
感動に気を取られて忘れていた。
閂がにこりと笑う。
とても綺麗な笑顔だった。
綺麗すぎて、逆に怖い。
「神奈さま。何をなさったのですか?」
(太公望、助けて)
《今回は難しいですね》
(見捨てるの早くない?)
私はそっと閂から離れ、できるだけ自然な顔を作った。
「ええと……今日は、あの、そう! 月のもの!」
誤魔化せる……かな。
でも、馬鹿正直に言ったら絶対に怒られる。
「神奈さま」
閂は私の肩を掴み、くるりとベッドのほうへ向ける。
視線の先には、見事に飛び散った血痕と、破裂した指先の痕跡。
うん。
これはひどい。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
気まずい。
実に気まずい。
「……ごめんなさい」
「詳しく」
「霊力をちょっと込めたら、ちょっと弾けた」
「ちょっと、ではありません」
「そうだね」
素直に頷くと、閂は深々とため息をついた。
怒っている。
でも、半分くらいは呆れだろう。
「神奈さま。ご自分の身体を何だと思っているのですか」
「鍛えがいのある器?」
「怒りますよ?」
「もう怒ってるよね?」
「もっと怒ります」
それは困る。
(太公望)
《ご愁傷さまです》
(冷たくない?)
《事実を述べただけです》
閂はもう一度、小さく息を吐いた。
それから私の手を取る。
「こちらへ」
「……はい」
大人しくベッドの端に腰掛けると、閂は私の前に膝をついた。
その仕草があまりにも自然で、たぶん前の私はこうして何度も手当てされていたのだろうと思う。
閂は傷ついた指先をそっと持ち上げ、眉を寄せた。
「これは……また派手にやりましたね」
「ちょっと加減を間違えただけだよ」
「“ちょっと”で指先を破裂させる方は、そう多くありません」
「それは、まあ……そうかも」
否定できない。
閂は私の手を支えたまま、もう片方の手で静かに印を結ぶ。
指先の動きは流れるようで、無駄がない。
淡い光が、閂の指先から滲むように溢れた。
白に近い、やわらかな霊光。
それが私の傷口を包み込む。
じん、と熱が走る。
痛みとは少し違う。
裂けた肉と砕けた骨が、内側からゆっくり噛み合っていくような、不思議な感覚だった。
「……沁みる?」
「少しだけ」
「我慢してください」
「容赦ないね」
「神奈さまが容赦なくご自分を壊した結果です」
「正論は心に刺さるからやめて」
「刺さってください」
ぴしゃりと言い切られた。
今日は閂が強い。
(太公望)
《当然の報いかと》
(味方がいない)
《私は神奈さまの味方ですが、今回ばかりは閂さまが正しいです》
ひどい。
でも反論はできない。
閂の霊力が傷口へ丁寧に染み込んでいく。
飛び散っていた血はそのままでも、裂けた皮膚は少しずつ閉じ、砕けた指先の形が元へ戻っていく。
見事なものだった。
戦場で使う荒い治癒ではなく、日常の怪我を何度も治してきた者の手つきだ。
なるほど。
これは確かに、昔の私は相当やんちゃだったのだろう。
「……閂、慣れてるね」
「誰のせいだと思っているのですか」
「私だね」
「はい」
即答だった。
少しだけ可笑しくなって、私は小さく笑った。
閂はそんな私を一瞥して、ほんのわずかに表情を和らげる。
「まったく……朝から肝を冷やしました」
「ごめん」
「本当にそう思っていらっしゃいますか?」
「思ってるよ。一応」
「“一応”が余計です」
治癒の光が、ふっと弱まる。
閂が最後に指先をなぞるように霊力を流すと、傷はほとんど元通りになっていた。
赤みはわずかに残っているが、さっきまでの惨状が嘘みたいだ。
閂は私の手を裏返したり表に向けたりして、治り具合を確かめる。
その仕草が丁寧で、少しだけくすぐったい。
「……もう動かしても?」
「今日はあまり無茶をなさらないと約束してくださるなら」
「善処する」
「確約を」
「……します」
「よろしいです」
ようやく閂が手を離した。
治った指先を軽く動かしてみる。
ちゃんと動く。
痛みも、ほとんど残っていない。
怒ってくれる。
呆れてくれる。
治してくれる。
ここにいてくれる。
まるで本当の家族のように、私の傍にいてくれる。
それだけで十分だった。
読んでいただきありがとうございました。
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