19話 脅威
SIDE: 素戔嗚風臥
高知市内にある素戔嗚家別邸。
その一室で、俺は珍しいものを見ていた。
蒼天さまが、苛立っていた。
この人は、滅多なことでは感情を表へ出さない。
出したとしても、せいぜい苦笑か、呆れたようなため息程度だ。
次期天皇として育てられてきた人間らしく、常に一歩引き、感情より先に全体を見ようとする癖がある。
目の前の一事ではなく、その先に連なる十、百の影響まで見据える。
そういう人だ。
その蒼天さまが、机に置いた扇子を指先で静かに叩きながら、低く吐き捨てた。
「やってくれた……狐め!」
狐。
言うまでもなく、玉藻前のことだ。
月光輝夜から聞かされた――玉藻前の目的。
そして、そのために必要とされる神術、神合一元法について。
あまりにも危険だった。
危険、などという言葉で足りるのかも分からない。
あれは知った時点で、知った者ごと災厄の一部になる類の情報だ。
ことがことだけに、漏洩は許されなかった。
蒼天さまはその場で輝夜に命じ、さらに俺を含めた三人で術式封印を施した。
蒼天さま、輝夜、そして俺。
神合一元法に関する情報を、記憶と口の双方から封じるための術だ。
互いに互いを縛る形で重ねた封。
軽々しく語ることも、意図せず漏らすこともできない。
それほどの処置を、即座に必要とする内容だった。
俺は思わず問い返していた。
「そこまでのことなのですか」
「ああ。そこまでだ。下手をすると、大和が滅びかねん」
その声音に誇張はなかった。
脅しでも、危機感を煽るための言葉でもない。
冷静に状況を見積もった上で、それでもなおそう断じるしかない、切実な結論だった。
だからこそ、背筋が冷えた。
今の大和における黄泉比良坂からの黄泉災害は、あくまで大和単国の出来事だ。
もちろん被害は深刻だし、放置など論外だ。
だが諸外国から見れば、基本的には大和国内で発生している災厄にすぎない。
だからこそ各国は、静観しつつも、被害が外へ波及しないよう物資や技術の支援を行ってくれている。
大和の内側で起きている問題だからこそ、まだ国家間秩序の枠内で処理できていたのだ。
だが、神合一元法は違う。
あれは、その前提そのものを破壊する。
神話とは、文明の根だ。
国が違えば歴史が違い、歴史が違えば信仰が違う。
そして信仰の最奥には、それぞれの神話がある。
つまり、神話とは単なる昔話ではない。
文明そのものを支える土台だ。
民族の起源。
王権の正統。
死生観。
善悪の基準。
世界の始まりと終わり。
そうしたものすべてが、神話の上に積み上がっている。
その神話を、大和神話と一本化する。
異国の神と大和の神を同一存在として結び直し、世界中の神格をひとつの系譜へ収束させる。
そんなものは、もはや一国の秘術ではない。
全国家に対する侵略だ。
全宗教に対する冒涜だ。
全文明圏に対する簒奪だ。
もし現実に行使可能だと知れれば、それだけで大和は世界秩序の敵と見なされかねない。
そんな脅威を内に抱えた国家を、誰が支援する。
誰もしない。
支援どころか、封じ込める。
必要とあらば、排除する。
そう判断されても、何ひとつ不思議ではない。
大和が世界から切り離される。
その可能性が、空想ではなく現実の選択肢として立ち上がってくる。
「しかも京都は、晴明の神術とやらのせいで、各所が未だ混乱中のようだ」
蒼天さまは苛立ちを押し殺したまま、そう続けた。
一週間前。
神術・九天落曜砕星によって、京都――平安京を中心に、いくつもの隕石が降り注いだ。
平安京では防御対策として、天皇陛下が降り注ぐ隕石の一部を海や琵琶湖へ転送させたらしい。
だが、すべてを処理することは不可能だった。
都を守るために最善を尽くしても、被害そのものをゼロにはできない。
死者は数百名。
被害総額は数百億規模とも試算されている。
加えて、諸外国からの照会、抗議、確認要請も殺到しているという。
当然だ。
あれだけの神術が、公然と行使されたのだ。
しかも大和の都へ向けて。
大和の中枢が攻撃され、なおかつ世界規模の神話改変術の存在までちらついている。
外から見れば、危険信号が一気に増えたどころの話ではない。
国家としての統治能力、危機管理能力、そして神秘管理能力そのものを疑われても仕方がない状況だ。
蒼天さまはまだ十二歳だ。
年齢を考えれば、本来ならこうした混乱の最前線に立たせるべきではない。
だが同時に、晴明たちのことを考えれば、今は帰京せず素戔嗚家にいた方が安全だという判断もあったのだろう。
その判断自体は理解できる。
理解できるが――だからといって、この人の肩から責任が消えるわけではない。
むしろ都にいないからこそ、見えない火種まで背負わされる。
次期天皇とは、そういう立場だ。
「……風臥。お前に謝らなければいけない」
不意に、蒼天さまがそう言った。
そして、頭を下げた。
俺は一瞬、言葉を失った。
蒼天さまは、そう簡単に頭を下げる人ではない。
次期天皇という立場もある。
それ以上に、この人自身が、軽々しく謝罪を口にする性格ではない。
謝るということは、自分の責任として引き受けるということだ。
その重みを知っているからこそ、安易にはやらない。
その蒼天さまが、頭を下げた。
「まず、神奈たちを誘拐して人身売買をしようとした京華族については……事実上の棚上げとなった」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
晴明の神術によって、平安京は大混乱に陥っている。
人手も足りない。
京華族に対する聞き取りすら、まともに進められないほどだという。
しかもあの件は、単なる誘拐未遂ではない。
巽累は、身分を偽装して一等武士試験を受けていた神奈と輝夜を狙い、ヤクザまで使って人身売買にかけようとした。
それだけでも万死に値する外道だ。
その背後に京華族がいた疑いまである。
にもかかわらず、都の混乱に紛れれば、捜査も追及も鈍る。
責任の所在は曖昧にされ、証言は散り、やがて「今はそれどころではない」の一言で押し流される。
最悪、巽累の単独犯として処理される可能性すらあるらしい。
ふざけるな、と思った。
あれだけのことをしておいて。
神奈をああまで追い詰めておいて。
都が混乱しているから後回しで済まされるのか。
だが、怒りをぶつける相手を間違えるほど、俺も子供ではない。
蒼天さまが頭を下げたのは、そういう理不尽を分かった上で、なお止めきれない現実を俺に伝えているからだ。
「それに、巽累本人はもう死んでいる。晴明に憑依分身の術をかけられ、酒呑童子にされて討たれた。死人に口なしだ」
低く告げられたその言葉に、胃の底がさらに冷えた。
死人に口なし。
まさにその通りだった。
巽累がどこまで自分の意思で動き、どこから晴明の干渉を受け、どこに誰の意図が噛んでいたのか。
今となっては、本人の口から確かめることはできない。
そして死人は、権力者にとって都合がいい。
反論しない。
告発しない。
真相を持ったまま、土の下へ沈んでくれる。
死者ひとりに罪を集めれば、背後の連中は生き残る。
そういう形に持ち込まれる危険が、今の都にはある。
「それと、だが……これは京に置いてきた私の影からの報告だが」
蒼天さまはそこで一度言葉を切った。
嫌な予感がした。
さっきまでの話ですら十分に最悪だったのに、まだ底があるのかと、胃がきしむ。
「陰陽寮の一部に、晴明が転生にあたり神奈へ目をつけたと仮定し――」
その時点で、俺の中の何かが軋んだ。
「神奈を晴明に差し出し、子を産ませ、その子を火之迦具土で自焼させることで、晴明の肉体を失わせる。たとえ魂魄を地上へ縛り付けたとしても、禁術・血統操縛は使えなくなる。そういう案を、天皇へ上奏しようとする陰陽師の動きがある」
聞いた瞬間、視界が白く弾けた。
霊力が爆発した。
轟音。
畳が裂け、柱が軋み、障子も壁もまとめて吹き飛ぶ。
部屋どころか、別邸の一角が盛大に破壊された。
自分でやったことなのに、一瞬遅れて理解した。
息が荒い。
胸の奥が焼けるように熱い。
怒りで、手が震えていた。
神奈を差し出す?
子を産ませる?
その子を焼く?
何を言っている。
何を考えている。
どこまで腐れば、そんな発想ができる。
人を駒として扱うだけでも反吐が出る。
だがあれは、駒ですらない。
犠牲を前提にした器材だ。
血と命を、最初から消耗品として数えている。
そこへ、破壊音を聞きつけた閂が駆け込んできた。
「風臥さま! 何が――」
「大丈夫だ、閂。空間を閉めてくれ」
蒼天さまが先にそう言った。
閂は一瞬だけ俺と蒼天さまを見比べ、それ以上は問わず、すぐに印を結ぶ。
封印術が展開され、破壊された一角ごと空間が閉じられていく。
外への被害拡大を防ぐためだ。
さすがに手慣れている。
こういう時の判断が早い。
別邸に仕える者たちも、平時の使用人ではない。
有事を前提に動ける者だけが、ここにはいる。
「そう怒るな……は無理か」
蒼天さまが、半ば諦めたように言った。
「しかし、私も父上も、このような愚策を採用する気はない」
その言葉で、かろうじて理性が戻る。
分かっている。
蒼天さまがそんな案を是とする人ではないことくらい、俺は知っている。
天皇陛下もまた、そこまで堕ちてはいないと信じたい。
それでも、そんな案が上奏の形を取りうるという事実そのものが、俺には耐え難かった。
俺は荒い息を吐きながら、拳を握りしめた。
「……陰陽寮は、そこまで落ちましたか」
「一枚岩ではない。だが、追い詰められれば、人は愚かな近道を選びたがる」
蒼天さまの声は低かった。
怒っているのは俺だけではない。
この人も、この話を心底不快に思っている。
ただ、俺みたいに爆発させないだけだ。
爆発させれば終わる立場ではないからこそ、飲み込んでいる。
「問題は、神奈の転校先だ」
蒼天さまは話を切り替えるように言った。
「中学から上京する話であったが、こんな話が持ち上がった以上、平安京にある高天原学園への転校は危険だ」
「……はい」
高天原学園。
皇立、つまり天皇陛下が立てた学校だ。
平安京にあり、華族や有力家系の子弟も多い。
本来なら、神奈が進む先として最有力だった。
だが、今の話を聞いた後では、とても安全とは言えない。
表向きどれほど格式があろうと、内側にああした発想を抱えた者がいる以上、神奈を置ける場所ではない。
「とはいえ、出雲の将立武甕槌学園は、黄泉比良坂の大本がある関係で高校生以上しか無理だしな」
「そうですね」
将立。つまり征夷大将軍が立てた学校。
出雲の最前線に近い以上、年少者を入れられないのは当然だ。
安全保障上の理屈としては正しい。
だが、正しい理屈がいつも救いになるわけではない。
「確か……お前の弟が東京に居たな。そちらはどうだ」
「……雷臥ですが。あまり神奈と一緒にはさせたくはないです」
「なぜだ」
「ブレーキの効かない自動車を二台も一緒に置いておくと、心配事が二倍になってしまうでしょう」
健速雷臥。
俺の弟で、神奈の兄に当たる。
父の源嵐が万妖暴走で死に、同時に健速家の後継者も失われた。
本家筋に近い分家を無くすわけにはいかないと分家の健速家へ養子を出す話が持ち上がり、雷臥が自らが名乗り出て東京へと向かった。
常に常住先陣を心がけていて、粗暴ではあるものの、根は他者を思いやれる優しいヤツだ。
ただ神奈同様に、己の価値を低く見すぎて、好き勝手して無茶をしてしまう事がある。
素戔嗚家の血と言ってしまえばそれまでなんだが。
蒼天さまは少し呆れた表情をしたものの、直ぐに真剣な表情へ戻る。
「今の神奈は、本人の意思に関わらず注目を集めすぎている。守るにせよ、利用するにせよ、手を伸ばしたがる者は増える」
その言葉に、返事ができなかった。
守るために近づく者ばかりではない。
力ある者、特異な血を持つ者、晴明に狙われる可能性のある者。
そういう札には、必ず別の思惑が群がる。
「私は雷臥とはあまり会ったことはないが、信用できる相手に思えたぞ」
「……弟ですよ。信頼をしてますよ。いい意味でも、悪い意味でも。です」
「そうか。私たちがどうこうするよりも、大切なのは本人の意思だ。そろそろ出しても良いのではないか」
「そう、ですね」
そう答えながら、俺はため息を吐いた。
神奈は今、素戔嗚家別邸の地下にいる。
禁術:牛頭天王を使用して無茶をした罰として、まだ未成年のため正式な当主ではないが、代行権限で蟄居を命じたからだ。
世界は様々な脅威に揺れている。
都は混乱し、陰陽寮の一部は狂った案を口にし始めている。
京華族の追及は棚上げされ、死人に口なしで真相は埋められかねない。
その中心に据えられかねない神奈は、地下で何も知らず閉じ込められている。
頭痛も胃痛も、まだしばらく治まりそうになかった。
読んでいただきありがとうございました。
少しでも「いいな」と思ったら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




