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華には修羅がある~修羅道より回帰した令嬢は運命を覆す~  作者: 華洛
第二章:新しい従者

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18話 朔影


SIDE:月光輝夜


 気がつくと、私は白い世界に立っていた。


 どこまでも白い。

 空も地も境目がなく、淡い光だけが満ちている。


 音はない。

 風もない。

 温度すら曖昧だった。


 ――現実ではない。


 そう理解した瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。

 ここで、何かを見なければならない。

 そんな気がした。

 白い空間の向こうに、一人の少女が立っていた。


 月光輝夜。


 そう思ったのは、面影があまりにも自分に似ていたからだ。

 けれど、同じではない。

 背は私より高い。

 伸びた手足に、少し大人びた顔立ち。

 数年後の自分が、そのまま目の前に立っているようだった。


 けれど――。


 その目だけは、私の知らないものだった。

 ひどく静かで。

 ひどく疲れていて。

 何かを諦めきった人の目をしていた。


 私はわずかに息を止める。

 向こう側の私が、静かに口を開いた。


「……これが、私が神奈姉さんを殺してしまった罪の記憶です」


 言い訳ではなかった。

 ただ、変えようのない事実だけを置くような声音だった。

 私はすぐには返事ができなかった。


 神奈姉さん。


 その呼び方が、少しだけ遠い。

 私にとって今のあの人は、まだ「神奈さま」に近い存在のはずだった。

 けれど、目の前の私は迷いなくそう呼んだ。

 その違和感が、胸の奥に小さく引っかかる。


「……記憶、というより」


 言葉を選ぶ。

 責めるように言うのは、違う気がした。


「あなた自身、なのですね」


 向こう側の私は静かに頷いた。


「はい。その通りです」


 迷いのない返答だった。

 言い逃れをするつもりはないのだと、それだけで分かった。

 私は目を伏せる。


「神奈姉さんを、追い詰めたのですね」


「はい」


「晴明と共に」


「……そうです」


 淡々と認める声を聞きながら、胸の奥が少しずつ冷えていく。

 本当なら、責めるべきなのだと思う。

 許せないと、思うべきなのだと思う。


 けれど――。


 目の前の自分を見ていると、そんな言葉が出てこなかった。

 責めるより先に、痛々しいと思ってしまった。


「どうして、そんなことをしたのですか」


 問いかけると、向こう側の私は少しだけ目を伏せた。


「晴明は、私のことも信じていませんでした」


「……え?」


 思わず顔を上げる。


「神奈姉さんだけではありません。私にも、いつでも操れるよう楔を打っていました」


「楔、ですか」


「はい。心魂縛潜影で分割した魂魄です。神奈姉さんへ潜らせたものと同じように、本体の私にも潜らせていました」


 私は息を呑んだ。

 晴明らしい、とどこかで思う。

 誰も信じず、誰も道具以上には見ない。

 たとえ共犯者であっても、例外にはしない。


「閂さんが死んだ時」


「……閂?」


 知らない名前だった。

 けれど、その名を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに痛んだ。

 まだ会ったこともないはずなのに。

 何か大切なものを失ったような痛みだけが残った。

 向こう側の私は、その反応を見てもすぐには何も言わなかった。


「神奈姉さんの心に隙ができました。……ですが、壊れたのは神奈姉さんだけではありません」


「……」


「私の心にも、同じように孔が空きました。そこへ晴明は、分割した魂魄を潜らせたのです」


 私は黙って聞いていた。

 知らないはずの話なのに、胸の奥が重い。

 向こう側の私の言葉が、ただの説明ではなく、感覚ごと流れ込んでくるようだった。


「閂は、向こう側の私にとって大切な人でした」


「……そう、なのですね」


「はい」


 その一言だけで十分だった。

 それ以上を聞かなくても、失ったものの大きさだけは伝わってきた。


「それでも、あなたは晴明に従ったのですね」


「はい」


「どうして、でしょうか」


 向こう側の私は少しだけ黙った。


「最初は、神奈姉さんが怖かったのです」


「怖かった……」


「風臥さまを失ってからの神奈姉さんは、ずっと危うかったので」


 私は静かにその言葉を受け止める。

 風臥……素戔嗚風臥さま。

 神奈さまのお兄様だ。


「強すぎる人が、そのまま修羅へ落ちてしまいそうで、怖かったのです」


「……」


「蒼天さまが、そんな神奈姉さんを止めました」


 そこで、向こう側の私の声がわずかに揺れた。


「救った、と言ってもよかったのかもしれません」


 私は何も言わなかった。


「私は、それを見ていました。神奈姉さんが少しずつ落ち着いていくのを。蒼天さまの隣で、戻っていくのを」


「……」


「それ自体は、きっと良かったのだと思います」


 向こう側の私は、そこで一度言葉を切った。


「ですが、ある時……二人が、そういう関係になったのを見てしまいました」


 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 けれど、その痛みを表に出してはいけない気がした。

 そんなことを思ってはいけないと、どこかで自分に言い聞かせる。


「……見てしまえば、心が揺れることも、あるのだと思います」


 そう言うのが精一杯だった。

 向こう側の私は、少しだけ寂しそうに笑った。


「はい。分かってはいたのです。祝うべきことだと。私には関係のないことだと。頭では、ちゃんと」


「……」


「ですが、駄目でした」


 向こう側の私は、小さく息を吐く。


「置いていかれた気がしたのです」


 その言葉は、責めるにはあまりにも弱く、幼かった。

 だからこそ、痛々しかった。


「そこへ、陰陽寮へ潜入していた晴明さまが現れました」


「陰陽寮に侵入っ」


「あの方は定期的に侵入しているのです」


 さらりと言われ、私は思わず言葉を失う。


「そこで、月光家の人間でありながら、本家に劣らない才があると評されました。見ていると。分かっていると」


 私は目を伏せた。

 弱っている時に、そんな言葉を向けられたら。

 揺らがない方が難しいのかもしれない。


「最初は、ただ話を聞いてもらっているだけのつもりでした」


「ですが、違いました」


「気づけば、少しずつ蝕まれていたのです。自分で選んでいるつもりで、選ばされていました」


 向こう側の私は、自嘲するようにわずかに笑った。


「その果てが、閂を攫うという最悪の手段でした」


 私はしばらく黙っていた。

 許されることではない。

 それは、はっきりしている。


 けれど。


 目の前の自分を見ていると、ただ断罪するだけでは足りない気がした。


「……してはいけないことでした」


「はい」


「どんな理由があっても、許されることではありません」


「ええ。その通りです」


 向こう側の私は静かに頷く。


「ですが、言い訳はしません。晴明に蝕まれていたとしても、私がやったことは消えませんから」


 その言葉に、私は小さく息を吐いた。

 逃げていない。

 少なくとも、この人はもう、自分の罪から目を逸らしてはいない。


「時間がないのです」


「え……?」


「私はもう、長く保ちません」


 その姿が、わずかに透けたように見えた。


「酒呑童子との戦いで、あなたの身体を借りました」


「……はい」


「あの時、魂魄も霊力もかなり摩耗しました。このままだと、私は消えます」


 消える。

 その言葉に、胸の奥が静かに沈む。


「けれど、このままでは消えられません」


「……」


「私は神奈姉さんに裁かれなければならないのです。できるなら、神奈姉さんに殺されたい。無理なら、せめて怨みを晴らしてもらいたい」


「……それが、あなたの望みなのですね」


「はい。贖わないまま消えることだけは、できません」


 その答えは、ひどく真っ直ぐだった。


「ですが、このまま同じ魂魄が同じ精神に居続ければ、いずれ引き合います」


「引き合う、ですか」


「はい。同質の魂魄同士は、もともと一つだったものです。近くにあれば、自然と再融合しようとします」


 私は静かに聞いていた。


「再融合すれば、私はあなたへ溶けます。境目は消える。そうなれば、私の罪も、私の意志も曖昧になる」


「……」


「それだけは、嫌なのです」


 向こう側の私が、真っ直ぐこちらを見る。


「だから――私は、式神になります」


「式神……」


「式神契約で主従の霊的構造を固定すれば、同質の魂魄でも別個の存在として留まれます。完全な再融合を先延ばしにできる」


 私は目を伏せた。

 理屈は分かる。

 けれど、それを受け入れるということは、この罪と共に在ることを選ぶということだ。


「もちろん、ただで受け入れてほしいとは思っていません」


「……」


「向こう側で晴明から受けた術式、知識……すべてあなたへ渡します」


「すべて、ですか」


「はい。それと、まだこの時代では誰も知らないことも」


 私は顔を上げた。


「四死妖・玉藻前の目的です」


「……!」


 白い世界の空気が、わずかに張り詰める。


「玉藻前、ですか」


「はい。八卦家の巽累を操った禁術・血統操縛。あれは確かに危険な術です」


「……」


「ですが、あれ自体は本命ではありません」


「本命では、ないのですね」


「ええ。あれは、ある神術を形にする過程で派生した副次術式にすぎません」


「その神術、というのは……」


「神合一元法です」


 初めて聞く名だった。

 けれど、響きだけで分かる。

 あまり良いものではない。


「どういう術なのですか」


「本来は別々の神格を、“同じ存在”として成立させ直す術です」


「同じ存在に……?」


「ただそう解釈するだけではありません。神話と信仰、そして世界そのものへ、それを押し通すのです」


 背筋がぞくりとした。


「そんなことが、できるのですか」


「本来なら、できてはならないことです。ですが、造化三神具が揃えば、理論上は可能になります」


「造化三神具……」


「はい。あれは単なる強力な神具ではありません。神そのものが器物へ転神した、神代遺物です」


 向こう側の私は続ける。


「天之御中は『基準』を定めます。

神産巣日は、異なる神格や神話をひとつへ編み上げる。

高御産巣日は、それを現実へ断行する。

三神具は、それぞれ別の役割で神合一元法を成立させるのです」


 私はゆっくり息を吐いた。


「それが、神合一元法……」


「はい。異国の神と大和の神を結び直し、世界中の神格をひとつの神話体系へ収束させる。それが神合一元法です」


「でも、どうしてそんなことを……」


「玉藻前自身を、根源神にするためです」


 その言葉に、私は息を止めた。


「根源神……」


「すべての神々の起点にいる存在です。あらゆる神格の系譜が、そこから始まるとされる根源」


 向こう側の私の目は静かだった。

 けれど、その奥には冷たいものがあった。


「玉藻前は、世界中の神々をひとつの系譜へ編み直し、その起点に自分を置こうとしています」


「自分を、起点に……」


「ええ。自分こそが根源であり、以後の神々はすべてそこから派生したのだと。神話そのものを書き換えるつもりなのです」


 喉の奥がひどく乾いた。


「そんなことをしたら……」


「神々の由来は上書きされます。信仰の流れも、権能の優先順位も変わるでしょう」


「……」


「そして、系譜の起点に立つ存在は、そこへ連なる神格の上位権限へ割り込めます」


「それでは、神を……」


「はい。縛れます。従わせることも、干渉することも、理屈の上では可能になります」


 白い世界が、急に寒くなった気がした。


「玉藻前は、神を滅ぼしたいわけではありません」


「……」


「神々の違いを消し、自分を頂点とするひとつの系譜へ編み直したいのです」


「そうすれば、神の権能に割って入り、世界の成り立ちそのものへ手をかけられる」


 私はしばらく言葉を失っていた。

 あまりにも大きすぎる。

 あまりにも、恐ろしい。


「禁術・血統操縛は……」


「神合一元法を作る過程で派生した術です」


 向こう側の私は、はっきりと言った。


「血を起点に系譜を手繰り、子々孫々にまで干渉する。あれは本来、神々の系譜を接続し、改竄する理論を、人間の血脈へ縮小したものにすぎません」


「……あれで、派生」


「はい。危険な禁術であることに違いはありません。ですが、玉藻前にとっては本命ではないのです」


 私は目を伏せた。

 今まで恐ろしいと思っていたものが、実は枝葉にすぎなかった。

 その事実が、ひどく重かった。


「晴明は……そこまで知っているのですか」


「少なくとも、造化三神具を集めている理由はそこにあります」


「……」


「神合一元法の実現には、三神具が必要です。そのどれが欠けても、完全な成立には至りません」


 私はゆっくりと顔を上げる。


「では、晴明が三神具を探しているのは……」


「玉藻前に、その神術を使わせるためです」


 向こう側の私の声は、どこまでも静かだった。


「もし神合一元法が完成すれば、玉藻前はもはや一体の妖ではなくなります」


「……」


「神話の起源へ割り込み、世界の前提そのものを書き換える存在になります」


 私は胸の前で、そっと手を握りしめた。


「……止めなければならないのですね」


「はい」


 向こう側の私は迷いなく答えた。


「これは、ひとつの国の問題ではありません。神々の系譜そのものが奪われれば、世界の在り方そのものが変わってしまいます」


「……」


「だからこそ、私はあなたに伝えます。私が知っていることを、すべて」


 その声は静かだった。


 けれど、そこには確かな意志があった。


 私は黙り込んだ。


 怖かった。


 この罪を、自分のすぐそばへ置くことが。

 向こう側の私を式神として従えるということが。

 神奈さまを殺した記憶と、これからも共に在るということが。


 けれど。


 目の前の私は、逃げていなかった。


 自分の罪からも。

 消滅からも。

 贖罪からも。


 ならば、私だけが目を逸らしてはいけないのだと思った。


 私はゆっくりと頷く。


「……分かりました」


「ありがとうございます」


 向こう側の私が、ほんの少しだけ笑った。

 それは歪んだ笑みではなく、ひどく静かで、疲れた笑みだった。


「ですが、このままではいけません」


「え……?」


「式神になる以上、名前を変えます」


 白い世界の中で、向こう側の私の輪郭が淡く揺れる。


「私はもう、月光輝夜ではいられません」


「……」


「以後、朔影と名乗ります」


 朔影。


 新月の朔。

 そして、影。


 光の届かない月。

 切り離された罪と残滓の名として、それはひどく似合っていた。


「朔影……」


「ええ。そう呼んでください」


 朔影が右手を差し出す。


「契約してください、輝夜」


「……はい」


 私も手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、白い世界へ波紋のような光が広がる。

 胸の奥へ、冷たいものと熱いものが同時に流れ込んできた。


 術式。

 記憶。

 知識。

 玉藻前へ繋がる情報。


 そして――。

 朔影が抱えていた罪の重さ。

 その中に、知らないはずの誰かへの痛みがあった。


 閂。


 まだ会ったこともない名前。

 それなのに、失ったことだけが分かるような、深い痛みだった。

 苦しい。

 痛い。

 でも、目を逸らさなかった。

 これは、もう私の罪でもある。


 知らないふりはできない。

 やがて光が静まり、白い世界に再び静寂が戻る。

 私の前には、もう「もう一人の私」はいなかった。

 代わりに。

 私の影が、わずかに濃くなったような気がした。

 その影の奥から、静かな声が響く。


「これからよろしくお願いします、輝夜」


「……はい。よろしくお願いします、朔影」


 そう答えた瞬間、白い世界がゆっくりと崩れ始めた。


 目覚めの気配が近づいてくる。

 此処とは違う世界とはいえ、神奈さまを殺してしまった罪は消えない。

 晴明に利用された過去も、何一つ消えない。


 それでも。


 私はもう、目を逸らさない。

 罪ごと抱えて進む。

 朔影と共に。

 神奈さまに裁かれる未来が待っていようとも、あんな未来を起こさせないために。

 私は進む。



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