17話 惨劇・影
SIDE:月光輝夜
最初に胸が満たされたのは、神奈姉さんが立っている姿を見た時だった。
婚約披露の場に現れた素戔嗚神奈は、いつも通り綺麗だった。
凛としていて、華やかな場にもまったく気圧されない。
昔からそうだった。
強くて、正しくて、眩しくて、いつだって私の少し先を歩いていた。
――だからこそ。
その神奈姉さんが、今はどこか虚ろに立っている。
目の奥から熱が抜け落ちたみたいに、静かで、空っぽで、誰かに触れられるままになっている。
その姿に、胸の奥がひどく甘く痺れた。
ああ。
やっと、届いた。
そんなふうに思った自分に、少しだけぞくりとする。
でも嫌ではなかった。
むしろ、ずっと欲しかったものをようやく手に入れたみたいで、心地よかった。
この惨劇を考えたのは晴明さま。
けれど、ここまで運んだのは私だ。
最初は、閂さんを攫うところからだった。
閂さん。
神奈姉さんにとって大切な人であると同時に、私にとっても大切な人だった。
あの人は優しかった。
私にも分け隔てなく接してくれて、神奈姉さんの隣にいる時は、いつも少しだけ空気が柔らかくなった。
だから本当は、傷ついてほしくなかった。
――そのはずだった。
なのに私は、晴明さまの指示に従って閂さんを誘拐した。
神奈姉さんが必ず追ってくるように、痕跡を残して。
黄泉比良坂の深淵へ辿り着くように、道を敷いて。
そして深淵で、晴明さまは閂さんを禰々子河童へ変えた。
あの時のことを思い出そうとすると、胸の奥が冷たくなる。
閂さんの面影が、歪んだ異形へ塗り潰されていく光景。
それを見た神奈姉さんの顔。
あの人は迷わなかった。
助けようとして、でももう助からないと理解して、それでも自分の手で終わらせた。
閂さんを、神奈姉さん自身の手で殺させた。
あれほど強固だった神奈姉さんの精神に、あの瞬間、確かに隙が生まれた。
絶対に壊れないと思っていたものに、ひびが入った。
その隙間へ、晴明さまは心魂縛潜影で分割した魂魄を潜り込ませた。
魂の欠片。
影のような楔。
神奈姉さんの内側へ入り込み、記憶を曇らせ、感情を歪め、少しずつ少しずつ、あの人自身を侵していくもの。
私はその術の補助をした。
神奈姉さんの精神が抵抗しきれないように、外から揺らし続けた。
特に蒼天さまへの感情は、重点的に。
好意を嫌悪へ。
信頼を憎悪へ。
寄り添いたいという気持ちを、殺したいという衝動へ。
心魂縛潜影で潜り込ませたものに、そう働くよう仕込んだのは私だ。
蒼天さまを遠目に見た瞬間、神奈姉さんの中で感情が反転するように。
それがどれほど醜いことか、分かっている。
分かっているはずなのに、その理解はいつも薄い膜の向こう側にあった。
罪悪感も、恐怖も、たしかにあるはずなのに、ひどく遠い。
代わりにあるのは、満足感だった。
あれほど私の上にいた神奈姉さんが、今はこんなにも脆く見える。
私が手を伸ばせば届く場所にいる。
私が仕込んだ楔で、こうして立っている。
それが、たまらなく嬉しかった。
私は心の奥で、静かに呼びかける。
(晴明さま)
返答はすぐに来た。
声ではない。
思念が、音もなく意識の奥へ触れてくる。
触れられた場所から、思考の輪郭がわずかに冷えていく。
(見ている。実にいい。あれはもう、ほとんど空だ)
その言葉は褒め言葉というより、観察の結果みたいだった。
けれど、それで十分だった。
晴明さまに見えている。
そう思うだけで、胸の奥が静かに満たされていく。
(ここからは、私が使う)
(はい)
そう返した時には、もう神奈姉さんの身体が動いていた。
神奈姉さんが、地面に手をつく。
「口寄せ――からのぉ、人形分身の術」
その声を聞いた瞬間、背筋が甘く震えた。
神奈姉さんの声だった。
けれど、神奈姉さんの声じゃない。
語尾の軽さも、妙に楽しげな響きも、あの人のものではない。
喉だけを借りて、別の誰かが喋っている。
晴明さまだ。
そう分かるだけで、ひどく満たされた。
床に広がった霊力陣から、黒い巨躯が次々と這い出してくる。
厄災鬼。
黄泉比良坂の深淵・穢界に出現する、災害指定級の魔物。
一体でも街に現れれば壊滅は免れないとされるオーガ種が、十体。
会場の空気が一瞬で塗り替わった。
獣臭と瘴気と殺気が、祝宴の華やかさを呑み込んでいく。
神奈姉さんの身体が、喚び出した厄災鬼を霊力で包み込む。
黒い巨体が歪み、縮み、やがて神奈姉さんと同じ姿へ変わっていく。
十人の神奈姉さん。
その光景は、ひどく綺麗だった。
本物が一人、偽物が十人。
でも今の神奈姉さん自身が、もうどこまで本物なのか分からない。
分身たちが散開する。
悲鳴が上がる。
武士たちが抜刀し、陰陽師たちが術式を展開する。
シャンデリアが揺れ、食器が砕け、血が大理石の床に散った。
私はその場から動かなかった。
動く必要がなかった。
これは晴明さまが描いた舞台で、
私はその舞台を整えた者で、
神奈姉さんは、その中心で踊る人形だった。
神奈姉さんは着物の裏からナイフを抜く。
その視線が、会場の向こうを捉える。
蒼天さまを見つけたのだ。
その瞬間、神奈姉さんの身体に、分かりやすい変化が走った。
空っぽだったはずの瞳に、どろりとした熱が灯る。
あれは恋情ではない。
私が仕込んだ、反転した感情だ。
好きだったはずの相手を見つけた瞬間、嫌悪と殺意が噴き上がるように。
抱きしめたいという衝動が、そのまま喉を裂きたいという衝動へ変わるように。
神奈姉さんは、蒼天さまへ飛びかかろうとした。
蒼天さまが一瞬だけ目を見開く。
けれどすぐに、手の中へ黒い杖矛――神具・天逆矛を出現させた。
その瞬間、世界が凪いだ。
音が消える。
悲鳴も、怒号も、刃の音も、何もかも。
宙に舞っていた血飛沫が、その場に縫い留められたみたいに止まっている。
時間停止。
知識としては知っていた。
でも、実際に目の前で起きると、やっぱり少しだけ息を呑む。
世界そのものが呼吸をやめたみたいだった。
私は動けない。
瞬きも、呼吸も、声も封じられている。
その止まった世界の中で、蒼天さまだけが静かに動いていた。
右手を神奈姉さんへ向ける。
苦い顔だった。
迷いを押し殺しているようにも見えた。
次の瞬間、世界が動き出す。
「やめろ!」
蒼天さまの声と同時に、神奈姉さんの身体へ無数の刃が突き刺さった。
武士たちが、時間停止の間に包囲を終えていたのだ。
分身はすべて討たれていた。
残った本体だけが、背後から一斉に貫かれる。
神奈姉さんの膝が折れる。
血が落ちる。
赤が、白い床に広がっていく。
その姿を見て、胸の奥がまた甘く痺れた。
あれほど強かった神奈姉さんが、今は崩れていく。
誰よりも高いところにいた人が、地に落ちていく。
その事実が、どうしようもなく私を満たした。
――最低だ。
そう思う自分も、たしかにいた。
でも、その声は弱い。
すぐに沈んでいく。
その時、会場の照明が激しく点滅し始めた。
空気が変わる。
神奈姉さんの身体から立ち上る霊圧が、急速に禍々しさを増していく。
一部の武士や陰陽師たちが、弾かれたように距離を取った。
致命傷を引き金に、心臓へ刻んだ禁術が起動し始めている。
私は心の奥で、再び呼びかける。
(晴明さま。起動しました)
返答は間を置かず届いた。
静かで、揺るがない。
(順調だ。悪くない)
その言葉は短く、それだけに逃げ場がなかった。
評価されている。
ただそれだけのことが、ひどく深く染み込んでくる。
けれど同時に、神奈姉さんがゆっくりと顔を上げた。
その目が、一瞬だけ私を見た。
ぞくり、とした。
そこにあったのは敵意じゃない。
憎悪でもない。
空白だった。
私を見ているのに、私が誰なのか分かっていない目。
いや、それだけじゃない。
分からないことにすら気づけていないような、綺麗に削り取られた空白。
その空白を見て、私は満足していたはずだった。
なのに、その瞬間だけ、胸の奥がひどく痛んだ。
閂さんを失った時みたいに。
もう戻らないものを、自分の手で壊してしまった時みたいに。
どうして。
どうしてそんな目をするの。
神奈姉さんは、もっと強くて、もっと眩しくて、もっと――
思考がそこで軋む。
頭の奥に鈍い痛みが走った。
考えすぎるな、とでも言われているみたいに、意識が沈められる。
私は蒼天さまの隣へ駆け寄っていた。
「もう、やめてください! こんなことをしても無意味です!」
叫ぶ。
その声はちゃんと悲鳴の形をしていた。
けれど、その奥にある感情が本当に私のものなのか、もう分からない。
止めたいのか。
止めたくないのか。
神奈姉さんを救いたいのか。
この結末を見届けたいのか。
何もかもが曖昧だった。
その時、神奈姉さんの左手が、かすかに動いた。
ほんのわずか。
けれどそれは、それまでの不自然な動きとは明らかに違っていた。
誰かに操られた人形の動きじゃない。
自分の意思を取り戻した人の動きだった。
左目に霊力が集まる。
その瞬間だけ、私ははっきり理解した。
神奈姉さんは、自分を燃やすつもりだ。
「待っ――」
声は最後まで出なかった。
次の瞬間、神奈姉さんの左目が灼けるように輝き、全身を炎が包み込んだ。
あまりにも速かった。
あまりにも迷いがなかった。
まるで、その一手だけをずっと待っていたみたいに。
炎は神奈姉さんの身体を正確に焼き尽くしていく。
心臓を中心に膨れ上がりかけていた禍々しい術式反応も、その火に呑まれて急速に霧散していった。
禁術の起動が止まる。
私はその場に立ち尽くしたまま、燃えていく神奈姉さんを見ていた。
悲しい、と思った。
たぶん。
嬉しい、とも思った。
きっと。
そのどちらも本物で、そのどちらも偽物みたいだった。
炎が弱まり、神奈姉さんの姿が消えていく。
その時、思念が静かに落ちてきた。
(これで、御三家の神殺しは消えた)
その声音には感慨も惜別もなかった。
ただ、観測を終えた者の確認みたいに、静かだった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えたのか、熱を持ったのか、自分でも分からなかった。
神奈姉さんは消えた。
焼けた匂いと、沈黙と、説明のつかない空白だけが残る。
それでも私は、しばらくその場から動けなかった。
読んでいただきありがとうございました。
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