16話 閑話.地獄「変」
地獄は、悲鳴で満ちていた。
賽の河原には、死者が溢れている。
泣き声、呻き声、怒号、懇願。
生前の執着を手放せぬ魂魄たちが、石を積み、崩され、また積み、終わりの見えぬ順番を待ち続けていた。
獄卒が名を呼ぶたびに列はわずかに動く。
だが、そのわずかな前進を嘲笑うように、新たな死者が次々と流れ着く。
一人を裁く間に、五百人が増える。
それが今の地獄だった。
かつて黄泉は、地獄の一部であった。
だが今、黄泉と地獄は別世界として切り離されている。
理由は伊邪那美にある。
黄泉に座す伊邪那美の呪詛と怨念はあまりにも強く、その存在そのものが地獄の秩序を侵していた。
輪廻転生は滞り、魂魄は穢れに侵され、転生できぬまま淀む魂が増えていった。
これを看過できなかった天照と伊邪那岐は、十王と交渉を行った。
その結果、黄泉と地獄は空間ごと断絶され、別世界として分離された。
そうしてようやく輪廻転生の循環は立て直され、伊邪那美の「一日千殺」の呪詛も、ひとまずは直接届かぬものとなった。
もっとも、すべての死者が地獄へ来るわけではない。
妖魔は賽の河原へは辿り着かない。
輪廻転生の理から外れ、伊邪那美より生じた存在であるがゆえに、妖魔は死ねば地獄ではなく黄泉へ還る。
一方、人間は違う。
現世で死んだ人間の魂魄は、まず賽の河原へ辿り着く。
生前の執着、罪、未練、穢れを抱えたままそこに留まり、やがて順番に十王の裁定を受ける。
賽の河原は、死者が次の処遇へ進むための通過点であり、裁定前の滞留地であった。
獄卒に呼ばれた魂魄は、一人ずつ十王審判を受ける。
秦広王、初江王、宋帝王、五官王が主として罪業を裁き、閻魔王が六道への大枠を定める。
変成王が魂の変成条件を整え、泰山王が具体的な処遇先を最終決定する。
その後、必要に応じて特殊処遇が課され、平等王と都市王が再審を行い、最後に五道転輪王が転生先を確定して送り出す。
それが、本来の輪廻転生の仕組みであった。
――だが今、その仕組みは破綻しかけている。
裁きは追いつかない。
再審も滞る。
送り出しも詰まる。
賽の河原は膨れ上がり、六道の各処遇領域にも滞留が生じ始めていた。
十王たちにも矜持がある。
裁くべき魂が増えたからといって、審判を雑にし、簡略化することはできない。
魂の行き先は、その後の輪廻そのものを左右する。
誤れば、世界の理に歪みが生じる。
だからこそ、誰も手を抜けなかった。
そして、誰も休めなかった。
「あああああぁぁああああああ!!」
閻魔の絶叫が、裁定の間に響き渡った。
机の上には判決記録が山のように積まれ、未処理の魂魄札が床にまで溢れている。
浄玻璃鏡は休みなく死者の生前を映し、業秤は罪の重みを量り続け、人頭杖は裁定のたびに鈍く震えていた。
獄卒の中には、立ったまま気絶し、そのまま引きずられていく者すらいる。
それでも止まらない。
止められない。
寝ることもできない。
満足に休むことすらできない。
ただ、ひたすら裁き続けるしかない。
それは閻魔に限ったことではなく、十王も、獄卒も、皆が似たような有様だった。
「どうなってる! なんで際限なく死者が賽の河原に来る! 現世で何が起こった!!」
閻魔が持つ神具――業秤、人頭杖、浄玻璃鏡。
それらは死者個々の罪を見通すことはできても、死者全体が激増した理由までは映し出さない。
妖魔に殺された者が多いことは感じ取れていた。
だが、ここまで極端に増えた理由だけは分からなかった。
「閻魔さま。ただいま戻ったッスよ」
場違いなほど軽い声がした。
「樒。原因は分かったかっ」
彼岸樒。死神である。
基本的に、地獄の者は現世へ干渉できない。
だが死神だけは別だ。
地獄と現世を行き来し、現世に留まってしまった魂魄を回収する役目を持つ。
人間は死ねば賽の河原へ召される。
しかし何らかの理由で、魂魄が賽の河原へ来ず、現世に留まってしまうことがある。
その魂魄を回収するのが死神の役割だった。
「あー、凄く言いにくいんスけど……大和は終わりッスね」
樒はいつもの調子で言った。
その軽さが、かえって言葉の重みを際立たせる。
「たぶん、魂魄が賽の河原に来るのが終わる頃には、大和から生者はいなくなってるんじゃないッスか」
「なん、だと。どうして、そう、なった!」
「首都の京都、副首都の東京は四死妖によって死滅。黄泉比良坂の大本を封じていた伊邪那岐さまは、伊邪那美さまに斃されたッス。もう護るべき場所も人材も、大和には残ってないんじゃないッスかね」
「――待て。それはおかしいぞ。こちらに天皇も征夷大将軍も、誰も来ていない!」
「晴明の仕業ッスよ。斃した強者の死体を、伊邪那美の瘴気で禍津に堕として、その魂を縛る。そうして、護るべきだった人や地を、正気のまま殺し回らせてるッス」
閻魔は頭を抱えた。
指が髪に食い込む。
王としての威厳など、とっくに擦り切れていた。
「何が……何が原因で、そうなった」
「あ、不思議に思うッスよね。ちょっと調べた感じ――素戔嗚神奈の死が、キッカケみたいッス」
「……どういうことだ」
「素戔嗚神奈の死以降、まるでドミノ倒しみたいに不幸な連鎖が連鎖を呼んだみたいッス。詳しくは後で報告書を出すッス」
「……素戔嗚神奈。素戔嗚……神奈」
閻魔はその名を反芻し、やがて目を見開いた。
「思い出したぞ。あのイカれたヤツか!」
地獄は大きく六道に分かれている。
天道は高次の清浄と隔絶。
人間道は人としての執着と未練。
修羅道は闘争と勝敗への固執。
畜生道は本能と蒙昧。
餓鬼道は飢えと欠乏。
地獄道は苦痛と罪業の報い。
これらは完全に断絶した別世界ではない。
地獄という巨大な死後秩序領域の内部で、魂の性質、罪業、執着の在り方に応じて分かたれた処遇領域である。
魂魄はその性質に応じた領域へ送られ、そこで罰、摩耗、浄化を受け、やがて再審へ進む。
その中でも修羅道には、特殊な刑罰場が存在する。
修羅道無限回廊。
終わることのない戦闘を通じて魂を削り、闘争への執着を摩耗させ、最終的には悟りと浄化へ至らせる場所だ。
普通の人間の魂魄なら、たとえ敗北せず潜り続けたとしても、億階層から兆階層に至る頃には闘争そのものに飽きる。
そこで初めて、闘う意味を手放し、悟りへ至る。
だが、素戔嗚神奈は違った。
兆階層。
京階層。
垓階層。
そして――無量大数階層の一歩手前、不可思議階層の最終層。
そこまで辿り着いた異常者。
どれほど異常か。
そんな深奥に至ってなお、正気を保っていたことだ。
ありえない。
絶対にありえない。
人間の精神は、そこまで強くはない。
闘争は魂を削る。
執着は摩耗する。
普通なら、どこかで壊れる。
どこかで飽きる。
どこかで、闘う意味そのものを見失う。
だが、素戔嗚神奈は壊れなかった。
だからこそ恐ろしい。
強いからではない。
終わらないからだ。
削れてなお、なお前へ進むその在り方が、地獄においてすら異物だった。
「閻魔さま! 一大事です!」
「今度はなんだ!」
獄卒の一人が、慌てて部屋へ飛び込んできた。
肩で息をし、顔色は蒼白だ。
「平等王さまからです。修羅道無限回廊にいた魂魄――素戔嗚神奈が禁忌を犯したと!」
「なにっ。勝手に転生でもしたか。確かに禁忌ではあるが、このような事態になった原因でもある。現世に戻り、どうにかするというのなら、この際――」
「い、いえ。転生は転生なのですが……逆行転生。過去へ転生したとのことです」
「バカな! ありえない! ただの転生なら術によって可能性はある。だが過去へ転生するだと!? そんな術はない!」
閻魔の声が裏返る。
裁定の間にいた獄卒たちが、一斉に息を呑んだ。
「しかし、実際に監視していた者から、間違いないと報告が……」
「……どうなっている」
「これは、素戔嗚神奈に誰かしら第三者の意思が関わってる可能性があるんじゃないッスか。修羅道無限回廊の特殊性を考えれば、まあ、ありえない話でもないッス」
閻魔は樒を睨んだ。
樒は死神である。
だが地獄においては、誰よりも古い女でもあった。
十王は数百年ごとに入れ替わる。
だが、彼岸樒という死神だけは、ずっとそこにいる。
そして知っていることも、十王たちより多い。
「お前……何か知ってるな」
「いやー、知らないッス。私はただの死神ッスよ」
にこりともしないまま、樒はそう言った。
その飄々とした顔が、かえって底知れなかった。
「――道化め!」
樒は肩を竦めるだけだった。
「ならば、閻魔として命じる。お前は素戔嗚神奈が殺されないよう手助けしろ! 現世に干渉できる死神なら可能だろう!」
「……閻魔さま。さっき言ったじゃないッスか。過去に転生する術はないって」
「素戔嗚神奈は行った! ならば無いわけではない! 術はあるはずだ! お前なら十王の知らぬことも知っているだろう。なんとしても過去へ戻り、この世界線のようなことが起こらぬよう尽力せよ!!」
怒声は、もはや命令というより悲鳴に近かった。
世界の理を預かる王が、理の外に縋るしかない。
それほどまでに、地獄は追い詰められていた。
樒は小さくため息を吐いた。
それから両手を重ね、恭しく頭を下げる。
「微力を尽くすッス」
そうして樒は、これ以上閻魔を怒らせぬよう、さっさと部屋を後にした。
その背を見送りながら、閻魔は歯を食いしばる。
賽の河原では、今も死者が泣いている。
裁きは終わらない。
世界は壊れかけている。
そして、その崩壊を食い止める鍵が、よりにもよってあの素戔嗚神奈だという事実に、閻魔は頭痛を覚えずにはいられなかった。
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