15話 閑話.狙う者
京都――平安京。
陰陽寮の一棟は、異様な静けさに包まれていた。
静かすぎた。
つい先ほどまで、そこには怒号があった。
術式展開の詠唱があり、抜刀の音があり、結界の軋みと霊力の衝突音があった。
断末魔すら、確かにあった。
だが今は、何もない。
残っているのは、血の匂いだけだった。
広間の中央。
不釣り合いな黒いスーツを纏った男が、床の上に胡座をかいていた。
片肘を膝に乗せ、頬に手を当てたまま、いかにも退屈そうにこちらを見下ろしている。
その姿勢には隙があるようでいて、まるで無い。
現代風の仕立ての良いスーツ姿だというのに、場違いどころか、この場そのものを己の座とでも思っているような不遜さがあった。
晴明。
本来は、月夜見の名を持つはずの男。
その周囲には、十を超える武士と陰陽師の死体が転がっている。
壁際に叩きつけられた者。
喉を裂かれた者。
上半身と下半身が泣き別れた者。
術式を組んだまま絶命した者。
腕だけを残して消えた者。
腹を裂かれ、畳へ臓物をぶちまけた者。
誰一人として、まともな形では残っていなかった。
血は畳の目に沿って黒く滲み、死体の下でぬらぬらと光っている。
鉄臭さに混じって、焼けた霊符の焦げ臭さと、臓腑の生臭さが鼻を刺した。
それでも広間に満ちているのは、戦いの熱ではない。
ひどく冷えた、死の気配だった。
広間の隅で、まだ息のある陰陽師が喉の奥でひゅうひゅうと音を立てていた。
片脚は膝から先ごと消し飛び、止血の術式も途中で途切れている。
その隣では、若い武士が折れた刀を握ったまま腰を抜かし、じりじりと後ずさっていた。
視線は晴明から外せないのに、焦点は合っていない。
「う、そだろ……」
武士の唇が、かすかに震える。
「これだけで……終わり、なのか……?」
誰に向けた言葉でもなかった。
集められ、備え、囲み、仕掛けた総力戦が、たったこれだけで終わったという現実を、まだ受け止めきれていないのだ。
晴明は頬杖をついたまま、死体の群れを見回した。
「判断としては悪くない」
穏やかな声だった。
まるで弟子の未熟を諭すような、落ち着いた声音。
「憑依分身を解くには、術者を討つのが最上。理としては正しい。……それが成るならば、だが」
誰も答えない。
答えられる者は、もうこの場にいなかった。
剣山での試験会場。
そこで監督官たちは、異常な気配を察知した。
晴明の霊力。
そして、憑依分身で喚び出された酒呑童子の霊力。
事態の重大さを悟った天ノ宮蒼天は、即座に天逆矛を用いて天皇へ連絡を取った。
そのうえで、現場で下せる最善の判断を選ぶ。
術者を叩く。
酒呑童子そのものではなく、それを現世へ繋いでいる晴明を討つ。
理屈としては正しい。
むしろ、それ以外に打つ手はなかった。
だからこそ、武士と陰陽師はここへ来た。
そして死んだ。
晴明は足元に転がる陰陽師の亡骸を一瞥し、それから広間の奥へ視線を向けた。
そこには二つの死体があった。
いずれも胸から下を太い木の根に貫かれ、床へ縫い止められている。
外見こそ征夷大将軍と天皇そのものだったが、その霊的構造は薄い。
本体ではない。
依代を霊力で包み込み、術者と同一の姿へ偽装した人形分身の術によるものだと、一目で分かった。
広間の隅で、まだ息のある武士が引きつった声を漏らす。
「九条征宗征夷大将軍が……手も足も出ない……だと……」
別の武士が、血に濡れた手で床を掻きながら呻いた。
「嘘だ……征宗公だぞ……あの御方が斬り込んで……届きもしなかった……」
陰陽師の一人が、蒼白な顔で首を振る。
「天御統天皇陛下の神術が……逆用された……っ」
「逆用、だと……?」
「違う……あれは、そんな生易しいものじゃない……!」
別の陰陽師が、半ば悲鳴のように叫んだ。
「術式そのものを奪われたんだ! 支配権ごと、丸ごと……! あんなこと、あり得るか……!」
その声は震えていた。
つい先ほどまでの光景が、脳裏に焼きついて離れないのだろう。
天御統天皇の豊穣神術が発動した瞬間、陰陽寮の庭園と中庭、さらには建物の床下にまで眠っていた木々の霊脈が一斉に呼応した。
柱のように太い根が隆起し、無数の枝が蛇のようにうねり、晴明を四方から拘束しようと殺到した。
同時に、九条征宗征夷大将軍の分身が前へ出る。
神速の踏み込み。
抜刀。
木々によって動きを封じた一瞬を狙い、晴明の首を落とす――はずだった。
「見えなかった……」
若い武士が、呆然と呟く。
「征宗公の太刀筋は見えた……なのに、あいつは……あいつだけは、何もしていないように見えた……」
「していたさ」
別の陰陽師が、乾いた笑いを漏らした。
「何もかも、だ。あの男は……何もかも、こちらより先にいた……」
次の瞬間、木々の流れが反転した。
晴明が大きく身じろぎしたわけではない。
胡座をかいたまま、頬に手を当てたその不遜な姿勢すら崩さず、ただ術式の支配権だけを奪ったのだ。
晴明を捕らえるはずだった木の根は、そのまま向きを変えた。
征夷大将軍へ。
そして天皇へ。
回避する暇すらなかった。
地を割って噴き上がった太い根が、二人の胸から下をまとめて貫き、そのまま床へ縫い止めた。
鮮血が飛び散り、広間の床を赤く染める。
あまりにも一方的だった。
あまりにも理不尽だった。
「陛下が……」
「征宗公まで……」
「終わりだ……こんなの、どうしろっていうんだ……」
誰かが泣き笑いのような声を漏らした。
別の誰かは、助けを求めるように印を結ぼうとして、指が震えて形にならなかった。
晴明はそれを見下ろし、つまらなそうに呟いた。
「私を斃すために、征夷大将軍と天皇が出張ってくるのはいいが……」
わずかに首を傾ける。
「どちらも人形分身の術で、本体の一割程度しか出せないようでは、私を斃すどころか、立ち上がらせることもできないぞ」
ふ、と口元が歪む。
「憑依分身を使えば依代が耐えきれず死ぬ。だから壊さぬよう、温く出力を落としたか――いや、違うな」
串刺しになった二つの死体を見下ろしたまま、晴明は薄く笑った。
「意識を直接繋ぐ憑依分身では、私に何をされるか分からぬと周囲に止められたか。万が一にも、天皇と征夷大将軍を失うわけにはいくまい」
その声音には、感心よりも嘲りが強かった。
「慎重で結構。為政者としては正しい判断だ。……だが、そんな温い手で私を討てると思われたのなら、少々心外だな」
「……化け物」
誰かが、かすれた声でそう言った。
晴明はそちらを見もしない。
「まあ、よい」
ふ、と口元が歪む。
「ここには無かったがね。代わりに、探し物よりよほど値打ちのあるものを見つけた」
その目が、どこか遠くを見るように細められる。
素戔嗚神奈。
あの娘の中へ潜らせていた、自らの魂魄の欠片。
それが持ち帰った記憶は、晴明にとって予想外の収穫だった。
(見たぞ)
胸の内で、晴明は静かに嗤う。
(造化三神具。まさか地獄に置いてあるとは)
造化三神具。
造化三神そのものが器物へ転じた、世界の根幹法則に干渉する三つの神代遺物。
天之御中は秩序と位相を定め、神産巣日は構造と縁を編み、高御産巣日はそれを現象として断行する。
三位一体で完全となる、御三家の根幹そのものだ。
(天照家め。人も妖魔も手が届かぬ場所へ隠すとは――考えたものだ)
現世に置けば奪われる。
結界の奥に置けば破られる。
ならば、人も妖魔も容易に辿り着けぬ地獄へ沈める。
確かに、悪くない。
しかも修羅道無限回廊は、ただの刑罰場ではない。
修羅道の内部に築かれた、自動生成と自己変質を続ける終わりなき迷宮。
本来は闘争への執着を摩耗させ、魂を輪廻へ戻すための修練場にすぎぬ。
だがその実態は、三神具の均衡を中枢へ組み込み、地獄と黄泉国の境界すら繋ぎ止める神代級封印機構だ。
その深奥、不可思議階層に至れば、もはや空間も時間も距離も意味を失う。
構造そのものが到達者の魂魄、記憶、執着、恐怖に応じて姿を変える。
最奥へ辿り着いたという認識すら、なお迷宮の内部現象にすぎぬ可能性がある。
だが。
(届いた人間がいたぞ)
晴明の口元が、ゆっくりと吊り上がる。
(修羅道無限回廊。不可思議階層。それも最終階層にまで届いてなお、精神を保てる異常な人間が)
くつ、くつ、と喉の奥で笑いが漏れた。
あれはもう、ただの武家の娘ではない。
修羅道無限回廊を潜り、不可思議階層の最終域にまで至り、それでも壊れずに戻ってきた。
精神性。
技量。
魂魄強度。
そして、憑依分身とはいえ酒呑童子を打ち砕く霊力。
どれを取っても、常軌を逸している。
(私の子を産む母体として……)
晴明の瞳に、昏い熱が宿る。
(転生体を産む者として、申し分ない)
その瞬間、喉がひくりと震えた。
「――ごほっ」
咳が漏れる。
続けて、二度、三度。
「ごほっ、げほ……っ」
口元を押さえた指の隙間から、赤いものが滲んだ。
血だった。
広間の隅で、それを見た陰陽師が息を呑む。
「血……?」
「まさか、効いているのか……?」
「違う……違う、あれは……」
希望を抱きかけた声は、すぐに萎んだ。
晴明の立ち姿には、弱りの色が見えなかったからだ。
晴明はしばらく無言でそれを見つめ、それから何でもないことのように袖で拭った。
晴明は、玉藻前と月夜見家当主の間に生まれた魔人である。
霊力、妖力、神力。
本来なら相容れぬ三種を併せ持つ、異形の人間。
だが、所詮は人間だった。
妖魔のような無窮の命はない。
神格のような不滅もない。
生を受けて千年以上。
術で肉体を繋ぎ止め、若さを偽り、魂魄を補強し続けてきたが、それにも限界はある。
肉体は、もう保たない。
骨は軋み、臓腑は腐り、器としての完成度は日に日に落ちている。
いずれ、どれほど術を重ねようと、この身体は崩れる。
だからこそ、探していた。
新たな器を。
己の魂を移し替えるに足る、次代の肉体を。
そして今、ようやく見つけた。
転生の器として耐えうる女。
しかも、探していた神具の在処にまで届いた女。
これ以上の好機はない。
晴明は、ゆっくりと立ち上がった。
黒いスーツの裾が、血溜まりを掠める。
その姿は現代の装いをしているはずなのに、どこかこの時代のものではない異物感を放っていた。
その動きだけで、生存者たちがびくりと身を強張らせる。
誰かが短く悲鳴を呑み込み、誰かが反射的に後ずさった。
だが逃げ場はない。
結界も、扉も、もはや意味を失っていた。
「今日は実に気分がいい」
広間の入口付近で、まだ生き残っていた数名の陰陽師と武士が身を強張らせる。
晴明は微笑んだ。
「少し見せてやろう。おまえたち陰陽寮が、ついぞ手にできなかった術をな。御三家の神力をもって為す術だ。そうそう拝めるものではない」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
御三家の神力。
その一言が意味するものを、ここにいる者たちは理解していた。
理解してしまったからこそ、誰も動けなかった。
「やめろ……」
「待て……待ってくれ……」
「結界班! 何をしている、早く――」
「無理だ! もう術圧が……空間が歪んで……!」
半狂乱の声が飛ぶ。
だが、誰一人として前へ出られない。
晴明は静かに両手を上げる。
指が絡み、印が結ばれる。
その所作は滑らかで、美しかった。
あまりにも無駄がなく、あまりにも自然で、まるで世界の方がその動きに従って形を変えていくかのようだった。
空気が軋む。
結界が震える。
陰陽寮そのものが、見えない何かに押し潰されるように悲鳴を上げた。
広間の天井板がみしみしと鳴り、柱に刻まれた護符が一枚、また一枚と燃え尽きていく。
窓硝子が耐えきれずにひび割れ、細かな破片が床へ散った。
「ひっ……」
「やめろ……やめてくれ……!」
誰かが腰を抜かし、誰かが祈るように頭を抱える。
晴明は、薄く笑った。
「星を読み、吉凶を語り、天意を知ったつもりでいたのが陰陽師だ」
その声は静かだった。
だが、そこに滲むものは冷笑ではない。
長い歳月をかけて澱のように積もった、暗く深い憎悪だった。
「父を逐い、母を災厄と呼び、私から名を剥いだ」
広間の空気が、さらに冷える。
「ならば今日は、その天そのものに潰されるがいい」
「神術:九天落曜砕星」
その瞬間。
広間にいる複数人の陰陽師の懐から電子音が鳴り響いた。
場違いなほど日常的な、スマートフォンの着信音だった。
陰陽師は震える手でそれを取り出す。
画面を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
「な、何だ」
隣の武士が呻くように問う。
陰陽師の唇が、わなわなと震える。
「あ、あ……」
喉が張りついたように、声がうまく出ない。
「こ、ここに……隕石が……」
「何?」
「直径六十から百メートルの隕石が、複数……平安京を中心に、落ちてきている、と……!」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
隕石。
空から落ちる星。
そんなものが、術で。
しかも複数。
ここ平安京へ。
「は……?」
「待て、冗談だろ……」
「六十……百……?」
「都が、消える……」
理解が追いつくより先に、恐怖だけが広がっていく。
陰陽師の一人が、その場に崩れ落ちた。
「防げるわけがない……」
「陛下が……いや、都そのものが……」
「家族が、まだ京に……」
武士の一人が、刀を取り落とした。
乾いた音が、やけに大きく響く。
晴明は、その反応を見て満足そうに目を細めた。
「いい顔だ」
くつくつと笑う。
「人はね、自分たちの手に負えぬものを前にした時がいちばんいい。怯えて、理解もできず、それでも見てしまう。実に滑稽だ」
次の瞬間、晴明の背後の空間がぐにゃりと歪んだ。
水面に石を落としたように、空間そのものが波打つ。
黒い裂け目にも似た歪みが、静かに口を開ける。
晴明はそこへ向かって歩き出した。
「では、また会おう」
振り返りもせず、軽く手を振る。
「次はもう少し、見応えのある舞台にしてくれ」
そのまま、歪んだ空間の中へ姿を消す。
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