13話 暴
顕れた鬼は、ゆっくりと周囲を見回した。
その仕草に警戒はない。
ただ、退屈そうだった。
呼び出された先が期待外れだったとでも言いたげに、気だるげな目が黄泉比良坂をなぞっていく。
「我を憑依分身で喚ぶからには、大将級の一人や二人はいるかと思ったが――砂利しかおらんか」
「……砂利?」
思わず漏れた私の声は、最初から存在しなかったみたいに無視された。
酒呑童子は私を一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように視線を外す。
その腰には二振りの剣があった。
片方は鞘に収まったまま。
けれど、そのうちの一本が、かたかたと小さく震えていた。
まるで、怒っているみたいに。
「ほう」
酒呑童子が、わずかに眉を上げる。
「茨木童子が猛っているな」
そのまま、もう一度だけ私を見る。
「そこの砂利は素戔嗚家……源嵐の血か」
ぞくり、と背筋が粟立った。
その名には聞き覚えがあった。
茨木童子。
前世の記憶の底に、朧げに沈んでいる名だ。
父さま――源嵐が、万妖暴走の際に斃した酒呑童子の配下。
確か、そういう話を聞いたことがある。
酒呑童子は、そんな私の内心など知りもしないまま、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「霊力が高いだけか。くだらん」
吐き捨てるような声だった。
「我が欲しいのは死合だ。砂利遊びに付き合うために喚ばれたのではない」
そう言って、酒呑童子は震える柄を掴んだ。
鞘から、ゆっくりと引き抜く。
重力場はない。
さっきのように、空間そのものを押し潰される感覚もない。
なのに。
抜かれていくその刃を見ているだけで、全身が重くなる。
空気が沈む。
呼吸が浅くなる。
そこにあるだけで、世界の密度が変わったみたいだった。
現れた霊剣は、赤黒かった。
私の愛染明王とも似ているのに、まるで違う。
あれは瘴気に染まった刃なんかじゃない。
血に飢え、命を喰らい、何もかも飲み込むためだけに在る色だった。
酒呑童子が、短く告げる。
「哭け。茨木童子」
その瞬間。
鬼の哭き声が響いた。
耳で聞いたのかも分からない。
けれど確かに、世界そのものが泣き叫んだみたいだった。
妖力が唸りを上げる。
酒呑童子の剣から噴き上がった赤黒い奔流が、竜巻のように回転しながら空間を軋ませる。
黄泉比良坂の瘴気まで巻き込み、景色が歪んだ。
次の瞬間、酒呑童子が剣を軽く振り下ろす。
それだけだった。
それだけなのに、放たれた一撃はあまりにも異常だった。
音が消える。
光が消える。
世界から、そこだけが切り取られたみたいに静かだった。
なのに、そこにあるのは圧倒的な破壊だった。
赤黒い妖力の閃光が、一直線にこちらへ走る。
面だ。
ただの斬撃じゃない。
触れたものをまとめて呑み込み、粉砕し、消し飛ばすための暴力そのもの。
《神奈さま、回避を! 正面相殺は不可能です!》
太公望の声が飛ぶ。
《妖力が面で拡散しています。受ければ後方ごと消し飛びます!》
分かってる。
避けるのが正しい。
まともに受ければ終わる。
けれど、その瞬間、視界の端に輝夜が映った。
地に伏したまま、動かない。
まだ意識が戻りきっていないのか、起き上がる気配もない。
ここで私が避ければ、あの一撃はそのまま後ろへ抜ける。
輝夜ごと、消し飛ぶ。
思考が、一瞬で冷えた。
相殺は無理。
威力が違いすぎる。
真正面からぶつけても、愛染明王ごと押し潰される。
なら、斬る。
真正面から受け止めるんじゃない。
閃光の中心を断ち、その一点から全体へ力を逃がす。
直線で来る暴力を、左右へ裂いて逸らす。
《……中心軸に出力が集中しています。断つなら、そこしかありません!》
できるかじゃない。
やる。
私は愛染明王を両手で握り直し、残っている妖力をすべて刃へ叩き込んだ。
赤黒い刃が、悲鳴みたいに脈打つ。
「愛染明王――」
喉が焼ける。
それでも叫ぶ。
「私は、一つだって諦めない。私は全部欲しい。だから一つも零さない――力を寄越せ!」
踏み込む。
迫る閃光の中心へ、愛染明王を振り下ろした。
ぶつかった瞬間、腕が砕けたかと思った。
重いなんてものじゃない。
山そのものを斬ろうとしたみたいな手応え。
刃が軋む。
骨が悲鳴を上げる。
全身の霊力回路が焼き切れそうになる。
でも、止まるな。
閃光の中心。
そこだけを見ろ。
面で広がる暴力の、核になっている一点。
そこへ刃を食い込ませる。
断て。
押し返すな。
受け止めるな。
裂いて、逸らせ。
「っ、あああああああああッ!!」
愛染明王が、閃光の中心を噛んだ。
その瞬間、背後で太公望の術式が走る気配がした。
幾重もの薄い光陣が私たちの後方へ展開し、逸れた妖力の奔流を受け止めようとする。
《後方に緩衝陣を展開! 逸らした衝撃を少しでも殺します!》
次の瞬間、赤黒い奔流が左右へ弾けた。
轟音。
いや、轟音すら遅れてきた。
視界が真っ白に染まる。
逸らしきれなかった妖力が全身を削り、地面が抉れ、黄泉比良坂そのものが悲鳴を上げた。
背後で、何枚もの陣が砕ける音がした。
太公望の緩衝陣が余波を受け止め、削れ、砕け、それでも完全には殺しきれない。
焼け石に水だ。
それでも、なかったよりはましだった。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、自分がまだ立っていることだけは分かった。
荒い息が喉を擦る。
「……はぁ、はぁ……っ」
白く焼けた視界の中で、頭の奥に嫌な音が響く。
ぱきり、と。
頭から生えていた牛の角が砕け散る感覚があった。
同時に、身体の奥から何かが一気に抜けていく。
妖力が、空になる。
霊力も駄目だ。
回路が焼き切れかけていて、まともに練れない。
膝が笑う。
それでも愛染明王を杖のように突き立て、無理やり身体を支えた。
まだだ。
立てるなら、終わってない。
白煙の向こうで、酒呑童子がこちらを見ていた。
その目に、さっきまでの退屈とは違う色が、ほんのわずかだけ混じっている。
「ほう。砂利にしては、少しは歯応えがある」
低く、酒呑童子が言う。
その一言だけで、背筋が冷えた。
認められたわけじゃない。
せいぜい、踏んだ石が少し硬かった。その程度だ。
案の定、酒呑童子はすぐに口元を歪めた。
「だが、所詮はその程度よ」
一歩、踏み出す。
「もう尽きたか。ならば茨木童子の腹に収まれ。せめて餌としては役に立て」
上等だ。
身体は限界だ。
妖力は空。
霊力も死んでいる。
まともにやれば、次で終わる。
それでも。
まだ首は落ちていない。
まだ息もある。
なら、戦える。
愛染明王を握る手に、力を込める。
《神奈さま、霊力回路の損耗が深刻です。次撃を正面から受けるのは危険です》
太公望の声は冷静だった。
焦りを押し殺し、事実だけを告げてくる。
《ですが、まだ終わってはいません。手はあります》
そのときだった。
しゃらり、と澄んだ音が響く。
次の瞬間、無数の青白い鎖が酒呑童子の身体へ絡みついた。
腕に。
胴に。
脚に。
鬼の巨体を縛り上げるように、幾重にも巻きついていく。
酒呑童子の眉が、わずかに動いた。
「……封印術・鬼縛爻鎖」
聞こえた声に、心臓が跳ねた。
「鬼に喰わせていいほど、神奈姉さんの命は安くありません」
振り向く。
そこにいたのは、輝夜だった。
ふらつきながらも立っている。
顔色は悪い。
霊力も万全には程遠いはずだ。
それでも、まっすぐ酒呑童子を見据えていた。
「神奈姉さん……?」
その呼び方に、息が止まる。
そうだ。
私をそう呼んでいたのは――前世の輝夜だ。
胸の奥が、ぐらりと揺れた。
輝夜は私から目を逸らさないまま、早口で言う。
「修羅道無限回廊で得た霊力で縛っていますが、さすがに長くは保ちません。あと数秒です」
青白い鎖が、みしみしと軋む。
酒呑童子の妖力に押され、今にも砕けそうだった。
《拘束術式を確認。ですが保って五秒――いえ、三秒です》
太公望が即座に補足する。
《このままでは押し切られます。別手が必要です》
「ですが、一つだけ手があります。協力していただけますか」
私は荒い息を吐きながら、輝夜を見た。
今、この場で助けられた。
その事実だけは、否定しようがない。
それでも、胸の奥にあるものは簡単には消えない。
「……分かった」
喉がひりつく。
「今はあの鬼を斃すのが先。だから手は組む」
一拍置いて、私は言った。
「でも、何をしたって赦す気はないから」
輝夜は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
けれど、逃げなかった。
「はい」
静かな声だった。
「赦されるとは思っていません。謝って済むことだとも思っていません。私の罪は、そんな言葉で軽くできるものではありませんから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ静かになる。
「それでいい。私も欲しいのは謝罪じゃない」
私は酒呑童子から目を離さないまま言った。
「それで、どうする。離脱符で逃げるの?」
「この離脱符は偽物です」
輝夜が即答する。
「使おうとすれば、燃え落ちるよう細工されています」
思わず眉をひそめた。
「……徹底してるね。今回のことを仕組んだのは、あの八卦家一人じゃないってことか」
「はい」
輝夜は短く頷く。
その視線が、私ではなく少し横へ向いた。
「――私の考えた作戦を伝えます。太公望さま、どうかお力を貸してください」
酒呑童子を縛る鎖が、また一本、弾け飛んだ。
残り時間は、もうほとんどない。
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