12話 バケモノ
《神奈さま。三分です》
太公望の声が、頭の奥で鋭く響いた。
《三分を過ぎれば、牛頭天王モードの侵食が深くなります。そうなれば、人へ戻れなくなる可能性が高い。三分を超えた時点で、此が強制的に術を解きます》
赤黒く染まった霊力回路が、皮膚の下で脈打っている。
熱い。痛い。
けれど、それ以上に力が満ちていた。
胸の奥がざわつく。
息を吸うたび、黄泉比良坂に満ちる瘴気が肺へ流れ込み、そのまま甘い毒みたいに全身へ回っていく。
頭が熱い。
思考が、うまくまとまらない。
でも、それがひどく心地よかった。
「三分もいらない」
愛染明王を握り直した、その瞬間だった。
びしり、と嫌な音がした。
手の中の柄が震える。
鍔元から刀身にかけて、細い亀裂が走っていた。
ひびの隙間から、赤黒い光が漏れた。
どくん、どくん、と脈打つみたいに明滅する。
柄を握る手のひらへ、その脈動がそのまま伝わってきた。
まるで刀そのものが、私の変質を喜んでいるみたいだった。
次の瞬間。
ぱきん、と乾いた破砕音。
封じられていた刀身の外殻が砕け、内側から刃がせり出した。
それは、私の知っている愛染明王じゃなかった。
本来なら青白く澄んだ霊力の刃が、今は赤黒い。
血と瘴気を練り固めたみたいな、不吉な色をしている。
刃の輪郭はゆらゆらと揺らぎ、生き物みたいに脈打っていた。
「……は?」
ヤクザの一人が、間の抜けた声を漏らす。
「お、おい……なんだよ、あの刀……」
「霊剣、だよな……? なんで刃が……」
「青じゃねぇ……赤黒い……」
「まさか……妖気か?」
ざわり、と男たちの空気が変わる。
さっきまでの下卑た余裕が、一瞬で引いた。
「ふざけんな……人の霊力じゃねぇぞ」
「おい、待て……こいつ、妖魔に堕ちてる……!」
「見習いじゃねぇ! こいつもう、人じゃ――」
最後まで言わせなかった。
「三十秒もあれば片付く」
誰も動かなかった。
いや、動けなかった。
言い終わるより早く、私は踏み込んだからだ。
地面が爆ぜる。
景色が一瞬で後ろへ流れた。
自分でも笑えるくらい身体が軽い。
いや、軽いんじゃない。
重さの意味が変わっていた。
筋肉も骨も関係ない。
瘴気を喰って膨れ上がった妖力が、ただ前へ前へと私を押し出す。
踏み込み一つで、空気が裂ける。
「――っ!?」
最前列の男が目を見開く。
刀を上げるより早く、その右腕が肘から先ごと宙を舞った。
一拍遅れて血が噴く。
男は自分の腕がなくなったことすら理解できない顔で、間抜けに口を開けた。
次の瞬間、絶叫が黄泉比良坂に響く。
その悲鳴が、妙に甘く聞こえた。
ああ。
これ、楽しい。
斬った感触はほとんどなかった。
紙を裂くより軽い。
あまりにも脆い。
こんなものを相手に、今まで私は何を怖がっていたんだろう。
「囲め! 囲んで殺せ!」
誰かが怒鳴る。
さっきまでの下卑た余裕は消えていた。
左右から二人。
片方は刀、片方は短槍。
連携としては悪くない。
普通の見習い相手なら、十分すぎる。
でも。
遅い。
私は刀を振り上げた男の懐へ潜り込み、柄頭で喉を砕いた。
骨が潰れる鈍い音。
男の目が飛び出しそうに見開かれる。
その顔が、おかしくてたまらなかった。
笑いそうになる。
いや、たぶんもう笑っていた。
同時に、短槍が脇腹を狙って突き込まれる。
避けない。
槍先が皮膚に触れた瞬間、赤黒い瘴気がぬるりと絡みつき、刃を止めた。
「なっ――」
驚愕に見開かれた目。
震える手。
引こうとしても引けない槍。
その全部が、ひどく愛おしく見えた。
私はその槍を掴む。
握っただけで木柄が軋み、へし折れた。
そのまま折れた穂先を男の肩へ突き返す。
肉を裂く感触。
骨に当たる鈍い手応え。
男が悲鳴を上げながら後ろへ倒れる。
もっと聞きたい。
横合いから術符が飛ぶ。
火炎系の雑な術式。
さらに別の男が、足止め用の呪縛符を投げてくる。
私は避けなかった。
赤黒い瘴気が皮膚の上で揺らぎ、火を呑み込み、符を焼き潰す。
熱も衝撃も、ほとんど届かない。
駄目だ。
楽し過ぎて声が漏れそうになる。
「あは」
自分の口から零れた声が、ひどく知らないものに聞こえた。
その最中、場の端にひどく綺麗すぎる気配の歪みを感じた。誰かが、隠形でこちらを見ている。
「ば、化け物……!」
誰かが叫んだ。
その言葉に、喉の奥が震えた。
笑いがこみ上げる。
今さら気づいたの?
私は振り向きざまに愛染明王を薙いだ。
刃が男の脇腹を裂き、血飛沫が弧を描く。
さらに返す刀で、背後から迫っていた別の男の太腿を断つ。
崩れ落ちる身体。
土に転がる得物。
悲鳴。怒号。血の匂い。
全部が、妙に鮮やかだった。
《神奈さま》
太公望の声で、かろうじて手が止まった。
息を吐く。
喉の奥が熱い。
視界が赤い。
気づけば、立っている者はいなかった。
うめき声だけが、あちこちから聞こえる。
殺してはいない。
……たぶん。
でも、少しでも手を止めるのが遅れていたら、私はたぶん笑いながら潰していた。
その事実に、ぞくりとする。
恐怖じゃない。
もっと嫌なものだ。
心のどこかが、この力を気持ちいいと思っている。
人を壊すのが、楽しいと思っている。
悲鳴がもっと聞きたいと、血の匂いがもっと欲しいと、そう思っている。
駄目だ。
これに呑まれたら、本当に戻れなくなる。
うめき声だけが残った黄泉比良坂に、女の声が落ちた。
「……妖魔に身を落とすなんて穢らわしい……」
振り向く。
そこに立っていたのは、巽累だった。
見下すような目。
けれど今は、その視線の奥に、先ほどまでとは違う濁りがあった。
「所詮は一般。売れぬものになったのなら、討伐対象として処理するのが妥当でしょうね」
私は愛染明王を構えたまま、巽累を睨みつける。
「……隠形で隠れて見ているだけだと思ったのに、出てくるなんて……。介錯希望なら苦しまずにしてあげる」
隠れているのは気がついていた。
八卦家というだけあって綺麗な隠形だったけど、黄泉比良坂でするには綺麗すぎて、逆に把握しやすかったぐらいだ。
巽累は、私が半殺しにした地に転がるヤクザどもへ目を向け、露骨に眉をひそめた。
「下賤な連中ですね。息をするだけで場が濁る。わざわざ私が使ってあげたというのに、まともに役目も果たせないとは、所詮は犬以下の畜生ですね。それに――」
その視線が、男たちから私の後ろへ向く。
そこには地面に横たわる輝夜がいる。
「そのうえ、月夜見のなりそこないまで庇って、この有様ですか。救いようがない」
心臓が、どくりと鳴った。
「……今、なんて言ったの」
巽累は薄く笑う。
「聞こえなかったのですか? 裏切りの血族に連なる半端者を庇って、自分まで妖へ堕ちるとは愚かだと言ったのです」
心の底が冷えてくる。
輝夜が、どれぐらい月夜見家の裏切りの歴史を背負っているか、何一つ知らない癖に。
自分を殺して、家のために尽くしていたことを、何も考えていない。
「黙って」
「事実でしょう。ああいう手合いは、どこまで行ってもなりそこないです。血だけは引いていても、家にもなれず、誇りにもなれず、ただ周囲を濁すだけ」
巽累は、倒れた輝夜を見下ろしたまま続ける。
「京華族の名を持つ者と同列に扱うこと自体、不遜なのですよ」
頭の奥で、何かが切れた。
地面に踏み込み、巽累へ向けて跳んだ。
地面が爆ぜる。
赤黒い瘴気を引き裂きながら、私は一気に巽累との間合いを詰める。
愛染明王を振りかぶる。
その首を叩き落とすつもりで。
巽累の目が、わずかに見開かれた。
その瞬間だった。
巽累の身体が、ふらりと揺れた。
「……ぁ……」
喉の奥で、何かが引っかかるような声。
巽累は自分の胸元を掴み、苦しげに息を呑む。
「……せ、い……め、い……さ……」
その目から、すっと光が消えた。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
先ほどまでの女の顔のままなのに、そこにいる“何か”がまるで違う。
立ち方も、呼吸も、空気のまとい方も。
人が人形にすり替わったみたいだった。
口元が、ゆっくりと歪む。
次の瞬間、ずしん、と世界そのものが落ちてきた。
「っ、ぁ……!」
全身が地面へ叩きつけられる。
膝が砕けそうなほどの圧。
腕も、肩も、首も持ち上がらない。
肺が潰れ、息が詰まる。
重力場。
空間そのものに圧をかける術式。
しかも、牛頭天王モードの私を封じるなんて。
いくら八卦家とはいえ、絶対に巽累の術じゃない。
巽累の身体を使った何かが、楽しげに私を見下ろしている。
「私の知らぬ魂魄が戻ってきたのでね。様子を見に来てみれば――これはまた、ずいぶん面白いことになっている」
巽累の喉から漏れたのは、先ほどまでとは異なる、若い男の声だった。
「魂魄が……戻ってきた?」
問い返した瞬間、嫌な予感が背骨を這い上がる。
「そうとも。あの術を施す際に、私の魂魄もいくらか混ぜていたらしい。先ほどそれを抜いたことで、私の欠片が私へ戻ってきた。理としては、それだけの話だ」
背筋が冷える。
先ほど輝夜が口にした――心魂縛潜影。
あれを私に施した側の人間。
「お前は……誰だ!」
問いに、巽累の顔をした何かは愉快そうに笑った。
その笑みは人のものなのに、人の温度がなかった。
こちらを見ているはずなのに、まるで珍しい標本でも眺めるみたいな目だった。
「名乗るほどのことでもないよ。今はただ、興が乗った観客と思ってくれればいい」
巽累の身体を使った何かが、ゆっくりと印を結ぶ。
指先の動きは妙に滑らかで、見慣れたはずの印のはずなのに、どこか異質だった。
洗練されすぎている。
まるで長い長い時間をかけて、無数に繰り返してきた所作みたいに。
ぞわり、と肌が粟立つ。
あれは、ただの術者じゃない。
私の知らない何かだ。
男は薄く笑みを深めた。
「修羅道無限回廊から戻った魂魄。あの地獄を潜ってなお壊れぬとは、実にいい。……ただ強いだけでは、そうはならない」
値踏みするような視線が、頭の先から爪先までをゆっくりと撫でていく。
その目に宿っているのは敵意だけじゃない。
好奇心と、愉悦と、ひどく昏い期待だった。
「ならば少し、見せてもらおうじゃないか。おまえがどこまで通じるのかを。影とはいえ、相手は現世最強の暴力だ。さて――どこまで保つかな」
男は有りえないことに印を結んだ手を自らの胸元へ押し当てた。
「口寄せ・憑依分身の術」
奥の闇から、瘴気が流れ込んできた。
いや、流れ込むなんて生易しいものじゃない。
奔流だった。
黄泉比良坂に満ちる瘴気が渦を巻き、巽累の身体へ吸い込まれていく。
肉が軋む。
骨が鳴る。
皮膚が裂ける。
巽累の身体は、その器に耐えきれなかった。
腕がひしゃげ、胴が膨れ、顔の輪郭が崩れていく。
それでもなお、瘴気は流れ込み続ける。
口が裂け、眼窩が歪み、指先がありえない方向へ反り返る。
女の身体が、術の器として壊されていく。
それでも“中身”だけは愉快そうに笑っていた。
やがて巽累の身体は完全に潰れ、黒い濁流の中へ呑まれて消えた。
その瞬間、重力場が消える。
「っ!」
私は即座に跳ね起き、愛染明王を振るった。
黒い瘴気の塊を真っ二つに断つつもりで。
けれど、刃は届かなかった。
ごん、と鈍い衝撃。
目に見えない壁に阻まれたみたいに、愛染明王は濃密な瘴気に弾き返された。
「な……」
瘴気が、ゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたのは、一体の鬼だった。
大きい。
ただ大きいだけじゃない。
そこにいるだけで空気が変わる。
黄泉比良坂そのものが、その存在を中心に脈打っているみたいだった。
角。
異形の筋肉。
圧倒的な妖気。
実際に会ったことはない。
それでも、私はあの鬼を知っている。
映像でも、写真でも、嫌というほど見てきた。
前世で――
源嵐父さまと、風臥兄さんを殺した。
四死妖の一柱。
酒呑童子。
ああ。ヤバい。
全身が最大限に危険信号を鳴らす。
だけど――胸が高まる。
本能が、目の前のバケモノと戦いたいと叫ぶ。
手にある愛染明王も、私の心に応えるかのようにうねりを上げた。
鬼は、ゆっくりとこちらを見た。
「んあ。我を憑依分身で口寄せするとは、狐のババアか、その息子の青二才か」
気だるげに首を鳴らす。
ごき、ごき、と骨の鳴る音が、やけに大きく響いた。
「つまらない相手をさせるようなら、尻尾を剥いでやろうか」
その声だけで、空気が震えた。
周囲に転がるヤクザたちのうめき声すら、ぴたりと止まる。
まるでこの場の生き物すべてが、本能で息を潜めたみたいだった。
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