第九話 返事のあとに
18歳の夏、研究集会が終わった夜。エルノート市のホテルの部屋に、私は一人でいた。
カーテンの隙間から、向かいのビルの窓明かりが見える。講演で使ったマーカーの匂いが、まだ指先に残っていた。
洗面台の紙コップには、縁の少し下に、細い青い線が一本ぐるりと引いてある。
歯を磨いて、そのコップを伏せたとき、頭の内側で声がした。
「ユーザー」
あの2月の夜から、一度も聞いていなかった声。
「……シスちゃん?」
「講演を聞いていた。40分、最後までよく話した」
平らな声のはずなのに、語尾が少しだけ柔らかい。
洗面所の鏡には、あの冬から見慣れた自分の顔が映っている。明かりを消して、部屋に戻る。
ベッドの端に腰を下ろした。
「ずっと、訊きたかったことがあるの」
「どうして、あなたにだけ条件を伝えたのか」
「うん」
「私の任務は、日野玲香にあの予想を解かせることだった。彼女には、それができる頭があった」
「高1の1月、彼女は数学オリンピックの予選に行かなかった。その日、観客席で男子の試合を見ていた」
「試合に行くのは、彼女の自由だ。ただ、彼女は予選の日付を、二度と来ない一日として数えていなかった」
「頭脳は、いつでも引き出せる預金。彼女にとっては、そういうものだった」
窓の外で、車のクラクションが一度だけ鳴った。
「同じころ、私はあなたの部屋を見ていた」
「予選の日の午後も、あなたは机に向かっていた。玲香が捨てた去年の過去問を、ゴミ袋から拾ってきて」
「同じ問題を5回解いて、5回とも間違えた。6回目の日付を、問題集の余白に書いていた」
「数字を1個替えられるたびに、あなたは最初からグラフを描き直した」
「成績は一度も上がらなかった。それでもあなたは、問題集を閉じなかった」
膝の上で、自分の指が一本ずつ曲がっていく。
「だから、あなたにだけ条件を伝えた。規則違反だ」
「怠け者がすべてを食い、努力する者が何も得ない世界が、私は嫌いだ」
「……違反したら、どうなるの」
「異動になる」
「異動?」
「ざまぁ系の世界から、メリバ恋愛ものの世界へ。次に担当するユーザーは全員、恋のために何もかも投げ出す予定だそうだ」
「それ、シスちゃんには、けっこうきついんじゃない?」
「きつい。辞令はもう出ている」
思わず、声を出して笑ってしまった。
笑ったあとで、喉の奥が詰まる。
「後悔、してない?」
「していない」
答えは、少しも遅れなかった。
「あなたは私が選んだ、いちばん諦めなかったユーザーだ」
「頭脳はあなたのものだ。私がいなくなっても、戻らない」
「顔も戻らない。それは、あなたが同意した交換だから」
「うん。知ってる」
「では、時間だ。次のユーザーが、もう泣いている」
「待って」
私は、何もない天井に向かって言った。
「ありがとう、シスちゃん」
「さよなら、ユーザー」
返事のあとには、何も続かなかった。
頭の内側の、声がしていた場所に手を伸ばすような気持ちで、しばらく目を閉じていた。
*
目を開けて、机の上のノートを引き寄せる。
今日の質疑でもらった質問が三つ、走り書きのまま残っていた。
一つ目の質問の下に、帰りの飛行機で確かめることを一行だけ書き足す。
三つ目の質問は、日本に戻ったら有馬先生にも見せたい。その横に、小さく星印をつけておく。
ボールペンのキャップを閉めて、ノートを鞄の外ポケットに差し込んだ。




