第十話 いつもの焼きうどん
日曜の夕方の有馬家は、台所から油の音がする。
居間の座卓で、有馬先生が老眼鏡を額に上げたまま新聞を読んでいた。私はその向かいで、テレビのリモコンを手の中で転がしている。
リモコンの側面には、親指がちょうど収まる浅い溝がある。
2階の奥の部屋は、18歳の冬から私の部屋だった。いまは大学の近くに部屋を借りているけれど、日曜の夜はここへ帰ってくる。
「柚、今週は何を証明した」
「補題を一つ。反例を二つ」
「反例のほうが多いな」
「先生の口癖がうつったんです」
「柚、7時になったらチャンネル変えて」
台所から、恒の声が飛んできた。
「何の番組?」
「……いいから。変えて」
「恒、今日は妙に声が硬いな」
「父さんは新聞読んでて」
フライパンを振る音が、さっきより少し大きくなった。
「今日の、キャベツ多めだから」
「聞いてないよ」
*
7時前のニュースの終わりに、経済のコーナーが流れた。
「国内最大の動画配信アプリ『フリモア』、時価総額1兆円を突破」
画面の下に、細い字幕が続く。推薦アルゴリズムを設計したのは東央大学の日野柚葉教授で、創業期から株式の10%を保有している、と。
「柚、また出てるぞ」
「顔写真は使わないでって、広報に言ったのに」
先生が新聞の端から、ちらりと画面を見る。
「写真が使われていないだけ、広報は仕事をしたんだろう」
株式の10%は、通帳の数字とは違う。研究室のロッカーの一段を、契約書の束が占領しているだけだ。
画面の中では、キャスターが次の話題の原稿をめくっている。
7時ちょうど、私はリモコンの溝に親指を置いて、チャンネルを変えた。
*
科学の特集番組だった。
「全固体電池、世界市場へ」
白い実験室の映像のあとに、見慣れた顔が映る。作業着の胸に、研究所のロゴ。
「チームを代表して、有馬恒さんにお話を伺いました」
画面の中の恒は、テレビ用の少し高い声で話していた。
「これは、チーム全員の成果です。一人ずつ名前を挙げると番組が終わっちゃうので、論文の著者欄を見てください」
後ろに並んだ研究者たちが笑う。
「充電にかかる時間を、いまの半分にできる電池です。ここまで来るのに、8年かかりました」
台所の油の音が、止んでいた。
「最後に、個人的に感謝を伝えたい方はいますか」
インタビュアーの問いに、画面の中の恒は、一度カメラから目を外した。
それから、まっすぐにこちらを向く。
「日野柚葉教授」
私の名前だった。
「高校のとき、論文になったら謝辞に俺の名前を入れてって頼んだんです。そしたら、本当に全部の論文に入れてくれて」
「だから、俺も入れました。今回の論文の謝辞にも」
この春に届いた抜き刷りの、最後の行。
画面の端で、恒が作業着の裾を握っている。
「日野柚葉教授。俺の名前を謝辞に残してくれて、ありがとう」
少しの間。
「俺と付き合ってくれませんか」
スタジオの誰かが、小さく声を上げた。
居間では、誰も声を上げなかった。私は座卓の縁を、指で押さえている。
有馬先生が老眼鏡をかけ直して、新聞をたたむ。
「……風呂の湯加減を見てくる」
先生は立ち上がって、廊下に出ていった。途中で、咳払いが一つ聞こえる。
台所の入口に、恒が立っていた。
両手で、焼きうどんの皿を持っている。耳の先まで赤い。
「……見た?」
「見た」
「……録画、先月だったんだ。今日やるって、知ってたんだけど」
「うん」
「冷めるから。とりあえず、食べて」
恒は皿を私の前に置くと、自分の分を取りに台所へ戻っていった。
*
座卓の上に、焼きうどんの皿がある。
キャベツと、豚肉と、かつお節。17歳の春に初めてこの家で出されたものと、同じ顔をしている。
あの日、恒は料理を始める前に訊いた。食べられないものある、と。
恒が自分の皿を持って戻ってきて、私の斜め向かいに座った。
「ソース、いつものやつだから」
「いつもの?」
「エビのエキスが入ってないやつ。……前に一回、瓶の裏を見て、買い直したことがあって」
「……そうなんだ」
恒はうなずいて、自分の皿に目を落とした。
それからの10年、この座卓には、いろんなものが並んだ。
2日目の試験の前の晩の、鶏の照り焼き。大晦日の年越しそばには、海老天の代わりに玉ねぎのかき揚げ。
「今夜は鍋だ。鶏団子と白菜」
冬が来るたびに、先生は土鍋のふたを開ける前に、中身を読み上げる。
エビも、カニも、一度も出てこなかった。
10年間、一度も。気づいたのは、今だった。
箸立てから、いつもの箸を取る。
皿の上では、かつお節が、湯気に煽られてまだ揺れていた。
(了)




