第八話 三件の連絡
研究室のプリンターが、ゼミの資料を一枚ずつ吐き出していく。
取り上げた紙の縁が、まだ少しだけ温かい。
「日野先生、それ何部刷りますか」
「12部。院生の分と、私の分」
27歳の春、私は東央大学の教授になった。
22歳で学部を卒業した年に、大学に一つだけある特例の任用制度で、助教として採用されている。働きながら大学院に通って、24歳で二本目の論文を出した。
「先生、学内報に『史上最年少』って載ってましたよ」
「載せないでって言ったのに」
「あ、おめでとうございますって、言い忘れてました」
「ありがとう。それ、ホチキス留めもお願い」
「あと、例のアプリの会社から、来月の打ち合わせの日程です」
大学院で書いた推薦アルゴリズムの研究は、兼業の届けと顧問契約の書類を何通も重ねた末に、ある動画配信アプリの中で動いている。
書棚の端には、先月届いた恒の論文の抜き刷りが立ててある。謝辞の最後の行には、私の名前。
午後は1年生向けの講義で、黒板を二枚使う。二枚目になると寝る学生が出るのは、有馬先生の言ったとおりだった。
日曜の夜は、たいてい東央市の有馬家で夕飯を食べる。先生は「柚、今週は何を証明した」と訊き、恒は電池の話しかしない。
*
昼休み、ニュースアプリの特集欄に、見覚えのある社名が出ていた。
「5年前の今日 城ヶ崎グループ、負債2兆円で経営破綻」
湾岸のタワーマンションの写真が添えてある。5年前と同じ、鉄骨の骨組みのまま。
年利20%をうたった社債は、個人の買い手の分も含めて紙くずになった。記事はそう結ばれている。
研究室の郵便受けには、見慣れない差出人の葉書が一枚入っていた。
差出人は、実家の隣の部屋の人。宛名は大学の住所で、書き出しは「テレビで拝見しました」。
「日野さんのお宅、去年の春に引っ越していかれました。業者さんが家具を運び出すのを、ベランダから見ました」
それ以上のことは、何も書かれていない。葉書の隅に、小さな桜の切手が貼ってあった。
*
夕方、スマホに不在着信が一件残っていた。
見覚えのない固定電話の番号。留守番電話に、2分37秒のメッセージが入っている。
再生すると、最初に聞こえたのは母の声だった。
「柚葉? お母さんです」
「テレビで見たのよ。みんなで見てたら、これ日野さんの娘さんじゃないのって。東央大学の、ええと、助手の……教授。教授になったのね」
息を継ぐ音がして、母は一つずつ順番に話しはじめる。
「お父さんがね、家を担保にしてお金を借りたの。それでも足りなくて、伯母さんのところと、叔父さんのところからも借りて」
「城ヶ崎さんの社債。年利20%だったでしょう。玲香があちらのお家に入るんだから、間違いないって」
「それが全部、紙くずになっちゃって」
「家は競売。会ったこともない人たちが来て、玄関の前で写真を撮っていったわ」
「お母さんがパートで貯めてきた分も、定期も、一円も残ってないのよ」
そこまでは、家計簿を読み上げる声だった。
「それでね、柚葉。エビフライ、揚げてあるからね。冷めないうちに、早く帰ってらっしゃい」
私が食べられないものを、母は今も揚げて待っている。
受話器の向こうが、がさがさと鳴った。
「柚葉、少し金を貸せ。家のことで困ってるんだ」
父の声はそれだけで、語尾が昔より半拍遅れていた。
家はもうないのに、家のことで、と言う。
「あなた、まだよ。まだ柚葉と話してるの」
受話器が、また母に戻る。
母の声が、そこで一度途切れた。
「柚葉……助けて」
その後ろから、別の女の人の声が近づいてくる。
「日野さん、もう時間ですよ。次の方が待ってますから」
受話器を置く硬い音。メッセージは、そこで終わっている。
スマホを耳から離すと、耳の縁だけが熱を持っていた。
私は保存のボタンを押して、アプリを閉じる。二度目の再生は、しない。
その日の残りの時間で、ゼミの資料の誤植を3か所直した。
*
夜、SNSのメッセージ欄に、通知が二つ並んだ。
一つ目は、城ヶ崎蓮。
「昔の話だけど、一度会えないか。新しい事業への出資を、柚葉に相談したい」
続く吹き出しには、一時期はほとんど付き合っていたようなものだろう、とある。店はあの頃みたいに自分が用意する、とも。
事業計画書に私の名前を顧問として載せたい、名前があれば投資家の反応が全然違う。最後の吹き出しは、そういう中身だった。
その下に、計画書のファイルが添付されている。ファイル名の末尾には、「v7」とついていた。
既読の印だけをつけて、画面を下へ送る。
二つ目は、玲香だった。
「久しぶり。3度目も離婚した」
吹き出しは短く切れて、一つずつ下に増えていく。
「蓮とは、会社が潰れてすぐ終わった」
「2人目は、籍を入れてから借金のこと言ってきた」
「3人目はもっと最悪。給料、一回も家に入れなかった」
「回を追うごとに、ましな男が寄ってこなくなるの。なんでだと思う?」
「息子、もう小学3年生。蓮から養育費、一回も来てない」
「同窓会も行ったけど、誰も話しかけてこなかった。高校のときは、写真撮ってって列ができてたのに」
次の吹き出しまで、送信時刻が4分あいている。
「お父さんとお母さんのことも言っとく」
「家も貯金も、親戚に借りた分も全部なくなって、二人ともおかしくなった。いまは二人とも精神科に入ってる」
「入院の同意書、書いたの私だから」
私は通話履歴を開いて、夕方の固定電話の番号をもう一度だけ見た。
それから、玲香の吹き出しに戻る。
「私だって、余裕なんかないし」
「あんたはいいよね、頭あるんだから」
吹き出しの下には、写真が一枚。歓迎会のステージの袖で撮った、18歳の春の玲香だ。
淡いピンクのワンピースで、赤い口紅を引いて笑っている。母の鏡台の前ではみ出した口紅を塗っていた小さな顔と、首の角度が同じだった。
送り主のアイコンは、今の玲香の写真になっている。
首の角度は、やっぱり同じ。目の下にはファンデーションが厚く重ねてあって、笑った口の両脇から、口紅の届かない線が下へ伸びていた。
もとは、私の顔だ。
「柚葉、お金を貸して」
最後の吹き出しは、それだけ。
私は返信欄に指を置かないまま、画面を閉じる。
*
色を以て人に事うる者は、色衰えて愛弛む。
受験票が届いた冬に、漢文の問題集で返り点を打った句。あのときは、問3の選択肢を一つ選ぶための材料でしかなかった。解答欄にウと書いて、赤ペンで丸を一つ。
今夜は、その解説のページのほうが、本人の吹き出しで届いた。
うん。脳みそ付きの人生、わりと快適です。
暮らしの中では解きようのない難題でも、千年以上前の歴史の中では、もう何度も結末まで演じられている。
漢の高祖・劉邦に愛された戚夫人は、音律に通じ、袖を翻して腰を折る翹袖折腰の舞を得意とした。帝の寵愛を一身に受けた人だ。
高祖が死ぬと、彼女は永巷に閉じ込められた。髪を削がれ、囚人の首かせをはめられ、そのうえ手足を断たれ、両目をえぐられ、耳を焼かれて音を失い、口のきけなくなる薬を飲まされて、厠に投げ込まれる。史書は、これを人彘と呼ぶ。
スマホを裏返して、机の上に置いた。
葉書をしまおうと引き出しを開けると、奥に茶封筒が一つ入っている。
9年前、エルノート市に持っていった旅程の封筒。角は、あのときのまま丸い。
どうして、私にだけ条件を教えたのか。
その答えを聞いたのは、この封筒を鞄に入れていった、あの夏のホテルの部屋だった。




