↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天才の姉が私の顔を欲しがったので、頭脳と交換してあげました。返してほしい? それ、私の同意が要るんですよ  作者: 空の異変


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/10

第七話 私の名前で話す

第一問は、評論文だった。


才能と努力をめぐる文章。筆者は才能を、「結果が出るまでの時間に耐えられること」と言い換えている。


「問一 傍線部『努力は、結果が出る前の時間にしか存在しない』とはどういうことか、本文に即して説明せよ」


残り時間から逆算して、第一問に使えるのは28分。


傍線の前後を読む。筆者が並べて比べているのは、結果が出た人と、まだ出ていない人。


本文の文字が、途中から滲んで読めなくなる。


袖で目元を押さえて、同じ段落の頭から読み直した。


「試験開始から、1時間が経過しました」


問われているのは、筆者の主張の説明だ。私の話を書く欄は、どこにもない。


解答欄の1行目に、「結果が出たあとから見れば」と書く。2行目の途中で、また文字が滲む。


鉛筆を止めずに、袖で拭う。


問二、問三と進んで、問四の記述は字数の上限の3字手前で止めた。


「残り5分です」


監督の声で顔を上げると、解答用紙の端に、小さな水のしみが一つ残っている。


    *


1日目の最後の科目が終わったのは、夕方の5時過ぎ。


門の外で、有馬先生の車が待っていた。後部座席の窓から、有馬くんが手を振っている。


車が走りだしてしばらくして、先生がバックミラー越しに言った。


「柚葉。うちの娘になれ」


「……え」


「部屋の用意なら、私と恒でできる。数学のできる娘なら、爺さんは踊って喜ぶ」


「父さん、それ、爺さんって自分のこと?」


「ほかに誰がいる」


「日野さん、父さん本気だよ。2階の奥の部屋、ずっと物置だったけど、片づければ使える」


私は膝の上で、鞄の持ち手を握った。


「先生。私、お返しできるものが、何も」


「返さなくていい。明日も試験があるだろう、今夜はうちで寝なさい」


先生の家の食卓には、鶏の照り焼きと、ほうれん草のおひたしと、豆腐の味噌汁が並んでいた。


「柚、醤油を取ってくれ」


箸を持ったまま、先生が言った。


有馬くんの手が、味噌汁のお椀の上で止まる。


「……父さん、いま柚って」


「呼びやすいだろう」


先生はもう、照り焼きのほうに箸を伸ばしている。


有馬くんが、私のほうを向いた。


「あのさ。俺も、柚って呼んでいい?」


「いいよ。じゃあ私も、恒って呼ぶ」


「……うん」


恒はそれきり下を向いて、ご飯を三口続けて食べた。


    *


26日の英語の長文には、1月に単語帳で覚えた単語が3段落目に続けて出てきた。最後の科目まで解き終えて、鉛筆を置く。


3月の初めに、実家から本と服を運び出す。立ち会ったのは有馬先生と恒で、父と母は奥の部屋から出てこなかった。


市役所で分籍届を出したとき、窓口の人が一言だけ付け加えた。


「分籍しても、ご両親との親子関係がなくなるわけではありませんので」


「はい。知っています」


大学の学費は、返還不要の奨学金で賄える。本人負担の欄には、0円と印字されていた。


    *


卒業式の日、体育館の壇上で、久我校長がマイクの前に立った。


「卒業生代表、日野柚葉」


私の名前が、最初に呼ばれた。


答辞を読み終えて席に戻る途中、後ろの席の二人が、通路の端で私を待っていた。


「日野さん。あのときは、悪かった」


「俺も。悪かった」


二人とも、それだけ言って頭を下げた。


「うん。……二人とも、大学でも途中式は書いてね」


「書く書く。日野さんに見せられるくらいには」


二人は顔を見合わせて、少し笑った。


    *


3月の半ば、有馬家に国際郵便が届く。


差出人は『形式論理学年報』の編集長。査読を経て、論文が採録されたという知らせだった。


「長年この問題に挑み、果たせなかった者の一人として、あなたの証明を読めたことを嬉しく思います」


手紙の最後には、もう一枚、別の紙が重ねてある。


北米のエルノート市で開かれる、国際数理論理学研究集会への招待状。招待講演者は12名で、アジアから招かれたのは私一人だった。


「エルノートか、私も若いころに一度行った。冬は寒いぞ」


「夏です、先生」


同じ週、東央大学の合格発表の画面に、私の受験番号が並んだ。


その晩のニュースの終わりに、短い映像が流れた。


「高校3年生の論文、国際誌に採録 30年来の未解決問題」


「柚、これ。アジアから一人って、ニュースでも言ってる」


恒がリモコンで音量を上げた。


台所で電気ケトルに水を入れる。内側の目盛りの、1.0の線まで。


「先生。私、湊南大学に行こうかと思ってて」


お湯が沸くのを待ちながら言うと、先生は新聞をたたんだ。


「どうして」


「先生のところで、研究を続けたいし。いろいろ、お返しも」


「柚」


先生は、私の目をまっすぐに見た。


「私に恩を返すために、進学先を変えるな。君が行きたい大学を選びなさい」


ケトルのスイッチが、かちりと上がる。


    *


18歳の夏、私はエルノート市にいた。


旅程表と航空券は、大学の事務の人がまとめてくれた茶封筒に入っている。封筒の角は、機内で何度も出し入れしたせいで丸くなっていた。


会場の廊下の壁に、額縁を外したあとの四角い跡が一つ残っていた。周りより、少しだけ壁紙の色が濃い。


控室でプログラムを開く。


「Yuzuha Hino」


自分の名前が、12人の招待講演者の中に印刷されている。


持ち時間は40分。最後のスライドには、謝辞を一枚。


有馬徹三教授。その下に、有馬恒。


「約束通り、入れたからね」


会場に向かう前、日本にいる恒にそれだけ送る。返信は、時差を無視してすぐに来た。


「拡大して、父さんに見せる」


演台に立つと、客席のいちばん後ろまで、紙の束を膝に載せた人たちが座っていた。最初のスライドを出して5分で、声の震えは止まる。


客席の後ろには、どこかの放送局のカメラが2台並んでいる。


質疑応答で、前列の年配の研究者が手を挙げた。


「第3節の補題は、この弱い体系の中だけで閉じていますか」


会場のざわめきが引いていく。


私はホワイトボードの前に戻り、トレイからマーカーを一本取って、キャップを外した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。