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天才の姉が私の顔を欲しがったので、頭脳と交換してあげました。返してほしい? それ、私の同意が要るんですよ  作者: 空の異変


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第六話 九時四十七分

2月25日、着替えは夜明け前に済ませてあった。受験票と鉛筆6本と腕時計を鞄に入れて、制服のままベッドで目を閉じる。


8:30、出発の時刻に合わせたアラームが鳴る。鞄を肩にかけて、ドアノブをつかむ。


「……よし」


ノブは回った。


押しても、ドアは開かなかった。


二度目は肩で押した。


ドアは数ミリだけ動いて、硬いものに当たって止まる。その向こうで、誰かが体重を移す気配。


「……お父さん?」


返事の代わりに、パイプ椅子のきしむ音。


「今日はどこにも行かせん。玲香のためだ」


「努力が一晩で消える気分を味わえ」


廊下の少し先から、玲香の声がした。


「今日はここから出さない」


「柚葉、今日一日だけだから。ね」


母の声は、台所のほうから聞こえる。


窓を開けると、2月の空気が入ってくる。5階の窓の外に、足をかける場所はない。


私は窓を閉めて、スマホを手に取った。


    *


8:30、110番を押す。


「110番です。事件ですか、事故ですか」


「事件です。家族に、部屋から出られないようにされています」


「場所を教えてください」


「梢川(こずえがわ)市桜台2丁目、サンハイツ桜台の502号室です。私は日野柚葉、18歳です」


「怪我はありますか。いま、危険な物を持っている人は」


「怪我はありません。刃物は見ていません」


「ドアの外に父がいて、押さえています」


「お父さんのほかに、家にいるのは」


「母と、姉です」


「わかりました、すぐに警察官が向かいます。到着まで、部屋から動かないでください」


オペレーターの質問に、一つずつ答えていく。今日が入試で、会場は東央市だということも。


8:33、通話を終えて、有馬先生に電話をかけた。


「先生、日野です。家族に部屋を塞がれて出られなくて、110番はしました」


先生は一度だけ息を吐いた。


「住所を」


さっきと同じ住所を、同じ順番で言う。


「入室の締め切りは、9:50です」


「わかった、院生が研究室にいる。恒と、すぐに向かう」


8:35、今度は有馬くんからビデオ通話がかかってきた。


画面の中の有馬くんは、上着を片腕だけ通したまま走っている。


「日野さん。受験票、ある?」


「ある」


「鞄に入れよう。充電はあとどのくらい?」


「62%」


「なら大丈夫。鉛筆と消しゴムと時計、一個ずつ画面に見せて」


言われたとおりに、一個ずつカメラに向ける。


「警察がどうするかは、俺にはわからない。だから、いまできることだけやろう」


「うん」


「靴は?」


部屋の隅の、学校用のスニーカーを鞄の横に置いた。


    *


8:44、インターホンが鳴った。


玄関の鍵が開く音。母の声が、急に高くなる。


「すみません、うちの家のことなんです。ちょっと姉妹で喧嘩をしてて」


「部屋に閉じ込められている、という通報がありました。上がらせてもらいます」


廊下を踏む、重い靴の音が二人分。


「お父さん、そこから立ってください。部屋の中にいるのは娘さんですね」


「家の問題だ。お巡りさんには関係ない」


「これは監禁です。刑法220条」


警官の声は、少しも大きくならなかった。


「外から人を閉じ込めれば、家族でも罪になります。まずは、そこから立ってください」


父は何も言わない。パイプ椅子が、一度だけきしんだ。


「開けたら堕ろすから」


玲香の声が、廊下に響いた。


「お姉さん、こちらで話を聞かせてください。体調はどうですか、座れますか」


もう一人の警官の声が、玲香のほうへ遠ざかっていく。


8:50、ドアの向こうで無線の雑音が混じった。


「……受験生1名、本人の意思確認済み。会場までの先導、要請します」


8:56、もう一度、無線。


「了解。白バイ2台、そちらへ向かわせる」


8:57、玄関のほうが、また慌ただしくなる。


「日野さんの友人の父親です。湊南大学の有馬です」


先生の声だった。その後ろに、有馬くんと、知らない男の人たちの声が続く。


「お父さん、玄関のほうで少しお話を」


8:58、パイプ椅子の脚が床を擦って、父の気配がドアの前から離れていった。


9:00、ドア越しに有馬先生の声がした。


「柚葉。外に出る意思は、あるね」


「あります」


「わかった。君たち、頼む」


「日野さん、湊南の院生です。テープを剥がしますから、ドアから少し離れていてください」


9:03、粘着テープを剥がす音が、ドアの上から下へ走った。ゴムの擦れる、きゅっという音。


「私は見ていません」


玄関のほうを向いたままの、警官の声がした。


9:05、ドアノブを回す。ドアは、あっけなく開いた。


廊下の床に、外した突っ張り棒が一本寝かせてある。ドアの枠には、剥がし残したテープが何本も垂れている。


ドアの正面に、座布団を載せたパイプ椅子。


玄関のそばで、父が警官の前に立っていた。


「大学に受かっても、学費は出さん。勝手にしろ、柚葉」


父はこちらを見ないまま言った。


「死んでも許さんからな」


「柚葉、出ていくなら二度と帰ってこないで」


母は台所の入口で、布巾を握っている。


玲香は、奥の部屋で警官と並んで座っていた。私を見て、口を開きかけて、閉じる。


私は靴を履いて、鞄を持ち直した。


「今日で家を出ます。分籍します」


誰の返事も待たずに、玄関を出る。


    *


9:06、マンションの前に白バイが2台停まっていた。


有馬先生の車の後部座席に乗り込もうとしたとき、父と話していた警官が追いついてきた。


「お嬢ちゃん」


帽子のつばを押さえて、その人は言った。


「終わったら、もう戻らなくていい」


9:08、有馬先生の車が動き出す。院生の3人は、マンションの前に残った。


シートベルトを締める手が、少し震えている。


先生はハンドルを握ったまま、一度も制限速度を超えなかった。赤信号では、前を行く白バイも止まる。


サイレンに気づいた車が、左右に少しずつ寄って道を空けていく。


ダッシュボードの時計が、9:30を表示する。国語の試験が、いま始まった。


「締め切りまで20分。降りてから3号館まで、走れば4分」


有馬くんはそれきり黙って、私の鞄の持ち手を片方だけ持っていてくれた。


9:41、会場近くの降車場所に車が滑り込む。


「行きなさい」


先生はそれだけ言った。


有馬くんと二人で、門まで走る。


9:42、入口で係員に受験票を見せた。


名札を留めた透明なクリップが、胸元で光る。係員は腕時計に目を落とした。


「まだ入れます。この先の3号館、2階です」


有馬くんが、門の内側で足を止めた。


「ここから先は、俺は行けない」


「うん」


「行ってきて」


背中を押されたわけではない。私は一人で、3号館の階段を上った。


9:46、試験室の入口で、監督の先生が受験番号を確かめる。


「確認しました。席は窓側の、前から4番目です」


9:47、自分の席に座った。


締め切りまで、3分。試験が始まってから、17分。


問題冊子を開いて、第一問の最初の一行を読む。


鉛筆を握り直して、解答欄の最初のマスに芯の先を下ろした。

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