第五話 返却には同意が要ります
翌週の数学の授業。戸倉先生は教室に入ってくると、出席も取らずに黒板へ向かった。
チョークの音が、一行分だけ続く。
「先週の最終問題はD。日野柚葉の指摘が正しかった」
先生はチョークを置いて、教卓の教科書を開いた。
「では、52ページ」
それだけだった。誰も何も言わず、ページをめくる音だけが教室に広がる。
*
5月の実力テストで、10位。7月には、1位になった。
秋の全国模試の結果は、細長い紙一枚で届く。
数学、全国1位。理系総合、全国7位。
同じ封筒で届いた玲香の紙を、母は開いたまま台所の引き出しにしまった。学年400位、全国の欄には順位が載っていない。
10月のある放課後、後ろの席の二人が私の机の横に立った。
「日野さん、……答え合わせ、頼んでいい? 途中式も見せてほしい」
「日野さん、俺の分も頼んでいい? 今度は途中の式から説明する」
二人とも、自分の答案を両手で持っていた。
「いいよ。二人とも、そこ座って」
10月、有馬先生に言われた「逆向きに辿る」を、結論から丸ごと遡る形で試してみた。三週間かけて、最後の一段で必要な条件が足りないとわかる。
ノートのその3ページに、斜めの線を一本引いた。
図書館の『数理論理学の系譜』はとうに返却して、同じ本を古書店の通販で買い直してある。自分の本なら、余白に好きなだけ書き込める。
シャーペンの芯のケースは、側面だけがざらりとした手ざわりをしている。考えが止まると、つい親指でそこをこすってしまう。
12月、有馬くんの東央大学の推薦が、条件付きで内定した。
「共通テストで基準点を取れば、正式に合格。受ける科目は日野さんと同じ」
「じゃあ、1月は一緒に受けに行けるね」
*
その秋、玲香の手首には新しい腕時計が光っていた。
「蓮がくれたの、200万円。あんた、この桁のもの見たことある?」
「ないよ」
「城ヶ崎グループ、湾岸の土地を数百億で落札したんだって。私、そこのタワマンに住むから」
その週末、父はダイニングテーブルに書類を広げた。
「家を担保に借りて、城ヶ崎の社債を買う。年利20%だぞ」
「玲香のおかげね」
母が父の湯呑みにお茶を足す。この家が担保になる書類に、父は判子を三か所押していた。
城ヶ崎が家に来る回数は、年末に向けて目に見えて減っていく。
たまに来ても、玄関で靴を脱がないまま帰っていく日があった。
「玲香、その話、まだ続くの? 俺、もう行くけど」
閉まったドアの前で、玲香は長いこと腕時計を撫でていた。
*
1月の共通テストを終えて、出願を済ませる。2月の初めに、受験票が届いた。
写真は年明けに撮り直したもので、名前の欄には日野柚葉とある。試験場は東央大学槻丘キャンパス。
2月25日、第1日の国語は9:30開始。試験開始後20分を過ぎると入室できない、と注意書きにあった。
受験票をクリアファイルに挟んで、机の上の漢文の問題集に戻る。
「色を以て人に事うる者は、色衰えて愛弛む」
返り点を打って、書き下し文を書く。問3の答えは、ウ。
2月3日の夜、玲香がノックもせずに私の部屋に入ってきた。
手にはスマホ。画面には、既読のつかない吹き出しが並んでいる。
「……まだそんなの読んでんの」
玲香の目が、机の上の『数理論理学の系譜』に落ちた。開いていたのは「逆向きの推論」の章。
「逆向きとか、答えから戻るだけでしょ。そんな簡単なことに何時間かけてんの」
玲香は本をつかんで、開いていた見開きを引き裂いた。
「勉強なんかしたって、あんたの顔じゃ誰も見ないって」
破れたページを床に残して、玲香は出ていく。
私の本だ。図書館の本でなくて、よかった。
拾い上げた紙は斜めに裂けて、左の切れ端には補題の前半だけが、右の切れ端には後半だけが残っている。
ひとつながりに読んでいたときには、気づかなかった。前半だけを読むと、その補題が、ある前提の上でしか成り立たないことがはっきりする。
10月に線を引いたあの3ページも、同じ前提を当たり前のように使っていた。
「……全部を逆に辿る必要は、なかったんだ」
逆に使えるのは、局所的な結論だけ。そこから組み直せばいい。
私は古いノートを全部机に積み上げて、1冊目から日付順に並べる。
11月のノートの14行目に、同じ前提をこっそり借りている箇所がある。そこに赤で丸をつけて、新しいページを開いた。
*
2月5日の明け方、最後の一行を書き終えた。
頭から三回読み直す。飛ばした行がないか、指で一行ずつ押さえながら。
スキャンした証明を、有馬先生に送った。
10分後、スマホが震えた。
「柚葉。第4節の補題、通っている」
先生の声は、いつもより少しだけ速かった。
「全文は今夜読む。細部は、外の査読者が見る」
「私が確かめたのは、君が一番の山を越えたことだけだ」
「はい」
「投稿は、君の名前で出しなさい。私の名前は謝辞でいい」
その日のうちに、原稿を『形式論理学年報』に投稿した。
二次試験まで、あと20日。
*
声が来たのは、投稿から数日後の夜だった。
「ユーザー、日野玲香から返還申請を受信しました。同意しますか」
「同意しません」
「ユーザー、日野玲香から返還申請を受信しました。同意しますか」
「同意しません」
壁の向こうで、椅子を蹴る音がした。
「ユーザー、日野玲香から返還申請を受信しました。同意しますか」
「同意しません」
「なんで。なんで戻らないの」
玲香の声が、壁越しに聞こえる。私は問題集から目を上げずに、同じ言葉を返し続けた。
13回目のあと、声は止んだ。
それからの二週間、玲香は毎晩、私の部屋のドアを叩いた。廊下を往復する足音が、夜中の2時まで続く日もあった。
2月24日の夜、ノックの代わりにドアが開く。
「私の頭を返して。柚葉、聞いてるの?」
「返してって言ってるでしょ」
「返すって、私が借りたことになってない?」
私は椅子ごと振り返った。
「交換には、二人の同意が要るの。返すときも、同じ条件」
「だから、同意しない」
玲香の顔から、色が引いていく。
「……なにそれ。聞いてない」
「聞かされたのは、私だけだから」
玲香の叫び声を聞きつけて、父と母が廊下に出てきた。
「玲香、落ち着け。妊娠してるんだぞ」
「そうよ、城ヶ崎さんのお家だって孫ができれば放っておかないわ。受験なんてどうでもいいじゃない」
母は玲香の背中をさすりながら、私のほうを見ずに言った。
「柚葉も柚葉よ。数学科なんて、どうせお金にならないのに」
三人が廊下の向こうへ消えて、家の中が静まる。
日付が変わるころ、ドアの外で音がした。
粘着テープを、長く引き出す音だった。




