第四話 日野さんは、どちらですか
4月の最後の週、数学の授業は実力テストの解説から始まった。
「前の席から順に、一人一問ずつ黒板で解説。解答冊子を見ながらでいいぞ」
戸倉先生の声に、教室のあちこちで冊子をめくる音が重なる。
窓際のカーテンには、洗濯のあとのしわが縦に何本も残っていた。
順番は前から回ってきて、私に当たったのは最後の選択問題だった。
チョークを持って、黒板の右端に大きくDと書く。
「最終問題は、Dです。解答冊子の3行目で、x の範囲の条件が一つ落ちています」
「日野柚葉、説明は解答どおりに。いまは授業を進めています」
「でも、3行目の変形は、この条件がないと」
「姉妹そろって何なんだ。片方は授業を聞かない、片方は解答に文句をつける」
後ろの席から、押し殺した笑いが漏れた。
「出た、D」
「印刷されてんのにな」
印刷されていることは、合っていることの証明にならない。
去年の私なら、ここで黙って席に戻っていた。今の私は、チョークを置くだけにする。
Dの下に書きかけた式は、2行目で止まっている。消す理由は、どこにもない。
*
ノックの音がしたのは、そのときだった。
教室の前の扉が開いて、久我校長が入ってくる。その後ろに、グレーのジャケットの年配の男性と、槻原高校の制服の男子。
有馬先生と、有馬くんだった。
戸倉先生が慌てて教卓の横に退く。私はまだ黒板の前に立っていた。
「あの、校長先生。この問題のDの根拠だけ」
「そこの生徒、先生の説明を遮ってはいけません。いまは座りなさい」
久我校長は私を見ないまま、教卓の前に立った。
私は席に戻る。黒板のDは、そのまま残っている。
「本日は、湊南大学の有馬教授にお越しいただきました。今夜の教授の講義に、本校の生徒が招かれています」
校長は、少し得意げに教室を見渡した。
「講義に招かれた日野さんは、どちらですか」
教室中の視線が、一斉に玲香のほうへ流れていく。
玲香は一拍おいて目を伏せ、耳に髪をかけた。
「え……私、ですか?」
控えめな声だった。去年までの1位の顔を、みんなちゃんと覚えている。
「玲香ちゃん、すごっ」
「やっぱ本気出したら違うよね」
校長は「日野さん」としか言っていない。下の名前も、学年も、順位も言っていない。
それでも教室の全員が、同じ方向を向いた。
「そりゃ姉のほうだろ。成績落ちたって、元が違うし」
後ろの席の男子が、聞こえる声で言った。
「妹のほうなわけないじゃん。頑張って30位まで来ただけなんだから」
「俺があいつなら、あんな姉ちゃんいたら学校来れねえわ」
「言えてる」
有馬先生の視線が、玲香から外れて、黒板の右端で止まる。
*
椅子の脚が、床を擦る音がした。
私が立った音だった。
「……いま、座りなさいと言いましたね」
久我校長の声が低くなる。
私は校長ではなく、その後ろの有馬先生を見た。
「有馬先生が探しているのは、私です」
一呼吸おいて、教室が笑いで揺れた。
「は? なに言ってんの」
「努力で30位まで来ただけの子が?」
「教授にすがりつくなよ、日野」
玲香だけは笑っていない。膝の上で、両手の指を固く組んでいる。
有馬先生が、机のあいだの通路を歩いてきた。
笑い声が、先生の足音に合わせて一つずつ消えていく。
先生は私の机の前で止まり、鞄から一冊のノートを取り出した。先週、私が預けたものだ。
付箋のついたページが開かれる。
「柚葉」
名前を呼ばれた。
苗字ではなく、下の名前で。この教室で二人いる「日野」の、どちらなのかを間違えようのない呼び方で。
「今夜の講義で、この補題を説明してくれ。学部生が40人ほど来る」
「分岐の片側だけで成り立つ形に、言い直したところだ。あの言い直しは、私にも思いつかなかった」
「はい」
自分の声が、思っていたより普通に出た。
「講義は18:30からだ。それまでに、この3行を黒板一枚に収まるようにしておきなさい」
「……一枚に、ですか」
「学部生は、二枚目になると寝る」
「久我」
先生は振り返らずに言った。
「お前が修士で3年かけても扱えなかった箇所だ。この子は、ひと月で片をつけた」
「先生、その話は……。まずは生徒へのご紹介を」
久我校長が一歩前に出た。
有馬先生は、丸めた講義案内の紙で、その後頭部をぽんと叩いた。
「紹介なら、いま済んだ」
誰も笑わなかった。
後ろの席で、シャーペンの芯が折れる小さな音がする。そのあと、椅子のきしむ音さえ聞こえなくなった。
振り返らなくてもわかる。さっきまで一番よく喋っていた二人が、いま一番黙っている。
「予想そのものは、まだ解けていない。ここから先が本番だ」
先生は、今度は教室全体に向かって言った。
「けれど、ここまでは間違いなくこの子の仕事だ。私が教えたのは、行き止まりの場所だけだよ」
戸倉先生が、黒板のDと、手元の解答冊子を見比べている。
玲香は顔を上げなかった。組んだままの指の関節だけが、白く浮いている。
*
久我校長が、叩かれた後頭部を押さえたまま咳払いをした。
「それから……本日付けで、県立槻原高校から本校に転入学した生徒を紹介します」
有馬くんが教卓の横に進み出た。
「有馬恒です。専門は物理で、去年の夏、国際物理オリンピックで金メダルをもらいました」
有馬くんが頭を下げると、前髪が一度だけ跳ねた。
さっきまでとは違う種類のざわめきが、教室に広がる。
「え、待って。金メダルって何の?」
「物理って言ってたじゃん。てか、かっこよくない?」
有馬くんは、ざわめきの真ん中で私を見つけて、小さく手を振った。
「日野さん、ノート、全部読んだよ。父さんより先に」
「私より先に読むなと言っただろう」
「読むなとは言われてない」
有馬先生が眉間を押さえる。何人かが、つられて小さく笑った。
「有馬、空いている席は、いちばん後ろの窓側に」
戸倉先生が、ようやく声を取り戻して言った。
有馬くんは教室の後ろを見て、それから私の横の、何も置いていない床を見た。
「先生。日野さんの隣に、机を一つ置いてもいいですか」
「……構わんが」
「では、私はこれで。戸倉先生、授業の邪魔をしました」
有馬先生は戸倉先生に頭を下げ、久我校長には何も言わずに廊下へ出ていった。校長が慌ててその後を追う。
「日野さん、隣、いい?」
私はうなずいた。
黒板の右端では、書きかけのDがまだチョークの粉をかぶっている。誰も消しに行かないし、私も消さない。
有馬くんは教室の後ろから空いた机を持ち上げると、通路を抜けて、私の隣へ運んでくる。
机の脚が、床から少しだけ浮いていた。




