第三話 Dを選んだのは私
4月、新入生歓迎会の体育館は、照明を落とすと少し寒い。
ステージの袖に、青い座面の折り畳み椅子が一脚だけ出しっぱなしになっている。
『春待ちステップ』のイントロが流れて、スポットライトの中に玲香が立った。
淡いピンクのワンピースの裾が、一歩ごとに揺れる。二番に入ったところで、袖から黒いジャケットの城ヶ崎が出てきて、玲香の手を取った。
「なあ、あれが日野の姉? マジで同一人物の双子?」
後ろの席の男子が、背もたれ越しに言った。
「前は俺、妹のほうに告ろうか迷ってたんだよな。いま見ろよ、ブスでデブで、危なかったわ」
私は膝の上のノートに目を戻した。
3学期に登録した図書館で、ある解説書の最後の章に載っていた未解決問題。ハーゲン=ソルベイ予想。
1990年代に出されて、まだ誰も証明していない。
曲が終わると、玲香は城ヶ崎の肩にもたれて客席を見下ろした。
「蓮、見てた?」
「見てた。玲香、次も出んの?」
*
その週の実力テストで、数学の最後の選択問題が割れた。
「Bだって。ほら、ここでこう変形して」
「いや、俺はDにしたんだけど」
後ろの二人が、答案を広げて言い合っている。
Bのほうが途中式を読み上げはじめた。3行目で、x の範囲の条件が一つ抜けている。
「Dだと思う。3行目で、条件を一つ落としてるから」
振り返って言うと、二人は同時に黙った。
「俺もDにした。日野と同じって、それ外してるだろ」
「だよな。日野に言われてもさ」
そこへ、前から解答冊子が回ってきた。
最後の問題の欄には、太字でBと印刷されている。解説の3行目は、後ろの男子とまったく同じところで条件を落としていた。
「答えもBじゃん。日野、どこが違うっていうんだよ」
「解答にBって印刷してある。それで、3行目の計算まで合ってることになる?」
「なるだろ。印刷してあんだから」
二人は顔を見合わせて笑った。
私は赤ペンを出して、自分の答案の余白にDと、そこまでの式を全部書き写しておく。
*
翌週、廊下に順位表が貼り出された。
日野柚葉、30位。
日野玲香、150位。
人だかりの後ろで、誰かが「逆じゃね?」と言った。
その日の数学の授業中、戸倉先生が玲香の机の前で立ち止まった。教科書の陰から、手鏡を取り上げる。
「日野玲香、このままでは上位私大も厳しい。試験前に戻せると言うなら、今日の問題を解いてみなさい」
「1位ならいつでも戻れる。当然でしょ」
玲香は手のひらを上に向けて、先生に差し出した。
「鏡、返して」
いつでも戻れる。玲香は本気でそう思っている。
自分が申請すれば、頭はいつでも返ってくると。あの夜、条件を聞かされたのは私だけだった。
家では、また玲香を中心に食卓が回りはじめた。
城ヶ崎が週に何度も来るようになり、母は彼の好きな唐揚げを揚げる。壁の薄い家で、玲香の部屋の笑い声は私の机まで届く。
私は鞄に問題集を詰めて、夜の図書館へ通うことにした。
*
湊南大学図書館の入口には、同じポスターがもう三週間貼られている。
「数理論理学 連続講義 講師:有馬徹三教授 毎月第3金曜 18:30〜」
入館ゲートにカードをかざす。記録の画面には、今夜で12日連続と出た。
2階の窓際、端から3番目の席。机の縁に、誰かがつけた浅い引っかき傷が何本か走っている。
ノートを席に広げたまま、上の階の書架へ向かう。
『数理論理学の系譜』。市内の図書館を検索して、蔵書が出てきたのはここだけだ。
目当ての棚の前に、槻原高校の制服の男子が立っていた。
「有馬さん、お父様のご予約分ですね。今週も代理で」
「はい。毎週すみません」
彼は最上段に手を伸ばす。私が背伸びしても届かなかった段から、あの大判の背表紙が抜き取られた。
「あの、すみません」
声が出てから、断られる準備をした。最近の男子は、私に話しかけられるだけで嫌な顔をする。
「その本、次に借りられるのはいつになりますか」
「ああ、これ父の予約なんだ。2週間で返すと思うけど」
彼の目が、私の後ろの閲覧席へ流れた。広げたままの私のノートに。
「あれ、君の?」
「そのノート、見てもいい? うちの父に聞けることがあるかもしれない」
少し迷ってから、うなずく。
彼は席まで行ってページを二枚めくり、そこで手を止めた。
「これ、ハーゲン=ソルベイ予想だよね。え、ここまで一人で?」
「……まだ途中です」
「入口のポスター、見た? あれ、うちの父なんだ」
「俺は有馬恒。槻原の3年」
表紙に書いた私の名前を、彼は指でなぞって読んだ。
「日野さん。一回、父に会ってみない?」
「もちろん、日野さんがよければだけど」
*
次の土曜、電車で東央市の有馬家を訪ねた。
有馬先生は、挨拶もそこそこに私のノートを開く。
赤ペンが止まったのは、私自身がいちばん自信のなかったページだった。
「ここで条件が1つ足りない。逆向きに辿ると、どこまで戻れる?」
「……わかりません。まだ」
「まだ、でいい。日野さん、来週もこのノートを持ってきなさい」
台所から、有馬くんが顔を出した。
「日野さん、食べられないものある?」
「甲殻類です。エビとカニ」
「了解。うち、焼きうどんくらいしか作れないけど」
出てきた焼きうどんには、キャベツと豚肉が入っていた。
食べながら、有馬くんが箸を止める。
「論文になったらさ、謝辞に俺の名前、入れてくれる? 父さんにそのページだけ拡大して見せたい」
「入れます」
「出世したら忘れんなよ」
「そっちこそ。忘れたら、学会で名指ししますから」
有馬先生が、急に手を打った。
「恒。お前、星杜に移れ」
「は?」
「つまらん息子一人で新星を守れるなら、安いものだ」
有馬くんは口を開けたまま、しばらく焼きうどんを噛むのを忘れていた。
*
家に着いたのは、夜の10時過ぎ。
玄関で靴を脱いでいると、玲香が階段の上から降りてきた。
「こんな時間まで、どこ行ってたの」
「図書館」
「うわ、まだやってんだ。努力しても無駄だって、一生私には勝てないんだから」
「そう」
「それに、その顔で頭よくなってどうすんの」
「男が世界を取って、女はその男を取るの。あんた、どっちも無理じゃん」
私は靴を揃えて、顔を上げた。
「男が世界を征服して、女は男を征服する?」
「昭和かよ。令和だぞ、玲香」
玲香の口が、中途半端に開いて止まる。
初めて、名前で呼んだ。
玲香は自分の部屋に入り、ドアを叩きつけるように閉めた。
「よく言った」
頭の内側で、あの声がした。
平らなはずの声が、少しだけ弾んでいた。
「……シスちゃん?」
呼んでみる。返事はない。
「ねえ。どうして、私にだけ条件を教えたの」
廊下の電気が、じじっと鳴った。




