第二話 鏡より、問題集
最初に変わったのは、制服のスカートだった。
11月の終わりの朝、ホックを留めようとして指が止まる。昨日まで余っていた布が、今朝は足りない。
「柚葉、朝からなにもたもたしてるの。遅れるよ」
「いま行く」
安全ピンで留め具をずらして、ブレザーの裾で隠した。
12月に入ると、頬に赤いものがぽつぽつ出はじめる。
洗顔料を替えても、翌朝には新しいのが一つ増えている。
廊下ですれ違った玲香が、私の顔を見て足を止めた。
玲香の頬の線は、先週よりはっきり細い。
「うわ。それ、潰さないほうがいいよ」
親切そうな声だった。
玲香の手には、ドラッグストアの袋がふたつ提がっている。
「お姉ちゃん、それ全部化粧品?」
「そうだけど。なに、あんたも使いたいの?」
「別に」
「だよね。塗るとこ増えて大変そうだもんね、柚葉は」
その晩から、玲香の部屋からは毎晩、メイク動画の音声が漏れてくるようになった。
「ベースは薄く。ここで一回、ティッシュオフしてください」
知らない女の人の声を壁越しに聞きながら、私は去年の数学の問題集を開く。
スマホには、城ヶ崎からのメッセージが一件だけ届いていた。
「今週むり」
先月までは、毎晩三件は来ていた。
冬休みに入るころ、玲香の制服の袖は余りはじめ、私のブラウスは第二ボタンのあたりが引きつれるようになる。
鏡は、あまり見なくなった。
*
問題集の最初のページには、去年の私の字が残っている。
赤ペンのバツが5つ。その横に、小さく「なんで?」。
二次関数の最大値の問題だ。定義域が0から2までの版なら、去年の私にも解けた。
同じ問題の、定義域が a から a+2 に変わっただけの版。これに去年の私は5回挑んで、5回とも白旗を上げている。
「はい、はじめまして。……今年もよろしく」
シャーペンを持つ。
グラフを描く前に、手のほうが先に場合分けの線を引いていた。
動くのは定義域で、軸は動かない。それさえ見えれば、あとは軸が区間のどこにあるかを確かめるだけだ。
答えを出して、解答のページをめくる。
合っていた。もう一度めくり直しても、やっぱり合っている。
「……え、これだけ?」
声に出してから、部屋に一人なのを思い出した。
5つのバツの隣に、小さく丸をつける。
筆箱から消しゴムを出すと、紙のケースの角が一か所だけめくれ上がっていた。指で押さえても、また起きてくる。
その夜、数学の問題集を二冊、最後まで解いた。
「柚葉、いつまで電気つけてるの。電気代」
「もうちょっと」
翌日、英語の長文を開いて、3行目で止まる。
単語がわからない。
頭の回転がいくら速くなっても、知らない単語は知らないままだった。
古文も同じ。助動詞の活用表は、覚えていない段はどこからも出てこない。
「頭がよくなれば、全部できる」
そう決めつけていたのは誰だったか。私だ。
前提が間違っていたなら、やることを並べ直せばいい。
単語帳を買いに行った本屋で、玲香と鉢合わせた。
玲香の手には、ファッション誌が三冊。
「なにそれ」
「単語帳」
「今さら? まだ勉強してんの?」
「してるよ」
「無駄なのに。あんた、昔から何回やっても覚えられないじゃん」
「昔は、ね」
「……なにそれ。感じ悪」
玲香は鼻で笑って、レジに向かった。
私は単語帳を一冊と、古文の助動詞だけを扱った薄い問題集を一冊、レジに持っていく。
*
1月の最初の週、変化は終わった。
朝、リビングの姿見の前に、玲香が立っていた。
「お母さん。ねえ、ちょっと来て」
「なに、朝から……あら」
母は菜箸を持ったまま、玲香の横で動かなくなった。
「玲香、あなた……」
「すごくない? これ私だよ」
父が新聞の上から顔を出す。
「見違えたな」
玲香は鏡越しに、廊下に立っている私を見た。
「柚葉も見れば? 顔、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「ふうん」
「ま、こっちが本来の私なんだけどね。当然でしょ」
私は答えずに、自分の部屋へ戻った。
机の上には、今日の予定を書いた紙が貼ってある。
英単語100個と、古文の助動詞を「らむ」まで。数学の過去問は、大問ふたつだけにしてある。
その紙の端に、クリップで一枚のプリントを留めてあった。
年明けに学校の掲示板から一部もらってきた、湊南大学図書館の一般利用案内。
「高校生の方も、生徒手帳の提示で利用登録ができます」
開館は平日の夜9時まで。利用登録の窓口は、平日の夕方6時で閉まるらしい。
3学期が始まったら、どこかの放課後で行けばいい。
プリントを留め直して、英単語の1個目に取りかかる。
夜の11時。予定の最後の行に線を引いて、私は机の上を片づけはじめた。
消しゴムのかすを手のひらに集めて、ゴミ箱の上ではたく。




