第一話 エビフライは十日目
食卓の真ん中に、エビフライの大皿がある。
エビフライとエビチリが一日おきに出て、今夜でちょうど十日目。
私の前には、白いご飯と味噌汁しかない。
流し台の横では、薄緑色のスポンジが水を吸ってへたっている。
「柚葉、先週の実力テスト」
父が箸の先で、テーブルの端に置かれた成績表をつついた。
「400人中400位。全国模試の偏差値は38だと」
400人中400位。順位を書く欄だけは、迷わず埋められる。
「ちゃんと勉強はしてるよ、お父さん」
「してそれか」
父はビールの缶を傾けて、今度は隣の成績表に目を移す。
玲香のほうは、見なくてもわかる。学年1位、全国模試1位。
担任の戸倉先生が三者面談のたびにこぼす台詞も、もう覚えてしまった。
「双子なのに、どうしてこうも違うんだろうな」
先生は溜め息をついたあと、決まって玲香のほうを見て笑う。
同じ問題を5回やった。数字を1個替えられたら、はい、はじめまして。
私の机の引き出しには、そういう問題集が6冊入っている。
「高校を出たら工場で働け、柚葉。玲香の学費を稼ぐんだ」
「玲香は特待生だから、学費かからないよ」
「大学のだ。こいつは東央大学に行くんだぞ」
母が玲香の皿にエビフライを足しながら、私を見ずに言った。
「柚葉、食べ物に文句をつけないの。玲香は勉強で疲れてるんだから」
「文句じゃなくて、アレルギー」
「またそれ。頭が空っぽなのに、口だけは一人前ね」
父が鼻で笑う。
「一人は親孝行、一人は疫病神だな」
玲香が箸でエビフライを一本つまみ上げ、私のご飯の上に置いた。
衣の油が、白いご飯にじわりと染みていく。
「柚葉がバカなのって、エビ食べないからじゃない? 頭にいいんだよ、これ」
「……」
「それか、高校出たら金持ちのおじさんに拾ってもらえば? 楽じゃん、顔だけはいいんだし」
玲香は生物で満点しか取ったことがない。
甲殻類のアレルギーが重いと、アナフィラキシーで息ができなくなることもある。玲香なら、それが教科書の何ページに載っているかまで言える。
5歳のとき、エビの入った茶碗蒸しを一口食べて、首から頬まで赤い発疹が広がった。
母は私の腕をさすりながら「大げさね」と言い、玲香は隣でその発疹を指で数えていた。
ご飯の上のエビフライを箸でつまんで、玲香の皿に戻す。
「そんなに羨ましいなら、お姉ちゃんが拾われてくれば?」
乾いた音がした。
頬が熱を持ち、耳の奥で自分の脈が鳴りはじめる。
母が立ったまま、手のひらを下ろした。
「玲香に謝りなさい」
玲香はもう、次のエビフライに箸を伸ばしている。
*
頬を冷やしに洗面所へ行くと、廊下の突き当たりに母の鏡台が見える。
あの鏡台の前で、玲香が母の口紅を塗っていたことがある。
まだ小学校に上がる前。母は後ろから玲香の髪をとかしながら、鏡に向かって言った。
「女は顔よ。覚えておきなさい」
玲香は赤くはみ出した唇のまま、真剣な目でうなずいていた。
私がその鏡を借りたのは、小2の秋に一度だけだ。
ダンス教室の発表会の前の晩。指定の白いバレエシューズを履いて、鏡の前でつま先を立てた。
先生に言われて母が買ってきた、クラス全員おそろいの靴。
翌朝、玄関の靴箱にそれはなかった。
「玲香が履いてったわよ。お友達と公園に行くって」
「今日、発表会なのに」
「柚葉、お姉ちゃんに譲りなさい」
泣きながら父の袖を引いたら、振り払われた。
床に尻もちをついた私を見下ろして、父は言った。
「踊りなんかに金をかける家じゃないんだ。勉強もできないくせに」
白いシューズがないと、舞台には上がれない。
半年練習した演目を、私は客席のいちばん後ろで見た。
二日後、玲香は公園で犬の糞を踏んだシューズを、私の部屋に放り込んだ。
「あげる。もういらないし」
私はそれを、風呂場で何度も洗った。
乾いたシューズは、それから室内練習用になる。つま先が痛くて入らなくなるまで、鏡のない廊下で練習を続けた。
*
城ヶ崎蓮は、学年でいちばん目立つ男子だ。
城ヶ崎グループの一人息子で、父親は星杜学園の理事。体育館の銘板には、寄贈者として城ヶ崎の名前が彫られている。
高1の1月、玲香は数学オリンピック予選の会場に行かなかった。城ヶ崎が出るバスケ部の新人戦を、観客席の最前列で見ていたらしい。
翌週、戸倉先生が廊下で私を呼び止めた。
「日野柚葉。お姉さん、予選の日に具合でも悪かったのか」
知らない、と答えるしかない。学年1位が数オリを捨てて男子の試合に行った話は、三日で学年を一周した。
高2の秋、玲香はとうとう手紙を書いた。
放課後の教室で、薄いピンクの封筒を城ヶ崎の手に押しつけ、振り返りもせずに廊下へ走っていく。
城ヶ崎は封も切らずに、入口のゴミ箱へそれを落とした。
「お前の姉は無理。あれはない」
振り向いた城ヶ崎が、私の机に片手をつく。耳のそばで、声だけが低くなった。
「お前なら考えてもいい」
近い。息がかかるほどではない距離を、この人は正確に測っている。
城ヶ崎のことは好きじゃない。
好きじゃないけれど、ゴミ箱の中のピンクの封筒は、ちゃんと見えていた。
「考えてもいい、なんだ」
「不満?」
「手紙、書いてくれたら考える。お姉ちゃんから渡してもらって」
城ヶ崎の眉が上がった。
「は?」
「お姉ちゃん、城ヶ崎くんのことが本当に好きだから。私たちのこと、ちゃんと知らせたほうがいいでしょ」
「で、その役を俺にやれって?」
「言いにくい役は、城ヶ崎くんがやって」
城ヶ崎は少しのあいだ私の顔を眺めて、それから吹き出した。
「俺に条件つけた女、初めてだわ」
指の背で、私の額を軽く弾く。
「いいよ。待ってろ」
小さいころから、玲香に勝ったことは一度もない。
一度くらい、勝ってみたかった。
*
三日後、城ヶ崎の手紙はリビングのローテーブルに広げられていた。
「見てよ、お母さん。柚葉、学校で勉強もしないで男に色目使ってるの」
「こんなの、退学させればいいじゃん」
玲香の声が裏返る。
母は便箋を手に取って、差出人の名前を二度読んだ。
「……城ヶ崎くんって、あの城ヶ崎さんの?」
母の声の角が、目に見えて丸くなる。
「柚葉、今日は何が食べたい? 城ヶ崎くんにも聞いておいて」
「城ヶ崎の息子か」
父は煙草を灰皿に押しつけて、私のほうへ身を乗り出した。
「柚葉、そこは逃すなよ」
それから、玲香をじろりと見る。
「お前も、いい加減に妹をいじめるのはよせ」
「城ヶ崎グループなんか、東央大出がいくらでもいる。そのうち妹に就職を頼むことになるぞ」
玲香の指が、便箋の端を握りつぶした。
私は母に向かって、できるだけ柔らかく笑ってみせる。
「エビじゃなければ、何でもいい」
その週から、食卓にエビは出なくなった。
玲香が「脳にいいのに」と何度ごねても、母は首を横に振るだけだ。
「柚葉に何かあったら、城ヶ崎さんに顔向けできないでしょう」
「姫、お迎え来てるって」
城ヶ崎の取り巻きは、学校で私をそう呼ぶようになった。
校門の前には紫色のスーパーカー。ハンドルを握るのは城ヶ崎家の運転手で、私たちは後部座席に座るだけだ。
フレンチの店で、城ヶ崎は伝票も見ずにカードを出した。一食5万円のコースだったと知ったのは、帰りに自分のスマホで店名を検索してからになる。
文化祭の実行委員の班分けで、玲香は城ヶ崎と同じ班を希望した。
「先生、あれ迷惑なんで。班、替えてもらえます?」
翌日の職員室で城ヶ崎がそう言ったことは、昼休みが終わるころには学年中に回っていた。
玲香は廊下を歩くとき、壁ぎりぎりを通るようになる。
11月25日、私たちの17歳の誕生日。城ヶ崎は細長い箱をくれた。
「欲しいもの聞いても、お前何も言わないから。適当に選んだ」
箱の底に挟まっていた明細には、50万円と印字されていた。
*
その夜、玲香が私の部屋のドアを開けた。
ノックはない。
「なんで」
「なんで、あんたなの。城ヶ崎くんも、お父さんもお母さんも」
「頭空っぽのくせに。顔しかないくせに」
玲香の目が、私の手首に落ちる。
「そんなもの、あんたに似合うわけないでしょ」
私は立ち上がって、玲香の腕を取った。
廊下の突き当たりまで引っ張っていく。母の鏡台の前。
鏡に、二人が並んで映る。
同じ日に生まれて、同じ食卓についてきた。玲香の皿にはいつも、私の分まで盛られていた。
教室の男子が玲香を陰でどう呼んでいるか、私も玲香も知っている。
「お姉ちゃん」
鏡の中の玲香に向かって、私は言った。
「お姉ちゃんが男子だったら、どっちを選ぶ?」
玲香は答えない。
鏡の中の自分を、長いあいだ見ていた。頬のにきびを、指先で一度だけ押さえる。
それから私の手を振りほどいて、自分の部屋に戻っていった。ドアの閉まる音は、思っていたより小さい。
私はまだ、鏡の前に立っていた。
「ユーザー。こちらはシステムです」
頭の内側で、声がした。
耳から入ってくる音ではない。平らで、抑揚のない、機械の声。
「日野玲香から、交換申請を受信しました。対象は、日野玲香の頭脳と、ユーザーの容姿です」
鏡の中の私は、口を半分開けている。
「交換には、双方の同意が必要です。返還にも、同じ条件が適用されます」
双方の同意。返還にも、同じ条件。
玲香の部屋からは、物音ひとつしない。
「同意しますか」
5回解いても解けなかった問題が、引き出しの中に6冊分ある。
あの中の一問でいい。自分の頭で、最後まで解いてみたい。
鏡の中で、城ヶ崎のくれたブレスレットが光っている。
「同意します」
鏡の中の私が、手首の留め金に指をかけた。




