似たもの夫婦に違いなく
キスのついでかついでのキスか。唇は切れ、それをなぞって舌が真っ赤に染まっていた。まさに狼の、ケモノのそれであった。
しかしながら、目覚めて唇に触れると傷という傷は消えていた。痕すらなく、まるで初めから咬まれていなかったかのように皮膚は繋がっていた。夢かと疑ったが、シャツの襟に血が付着していた。夢ではなかったらしい。
怠い身体がさらに怠く、汚されはしなかったようだが汚された以上に怠かった。汚されたことはないので知らないが、兎に角疲れに疲れた。
そう疲れながらもずるずると身体を引きずり、ついでにケモノも一匹引きずり、巴椰はとある部屋へ向かっていた。
この期に及んで後ろからはダラダラと文句が聞こえたが、構うことなく彼はノブを回した。
「お早うさん」
つんと鼻に香る消毒薬の匂いが充満した、白く清潔な部屋。数メートル上部に取り付けられた大窓から陽光を一杯に取り込んだ、壁の白の映える自分と同じ客室だった。
客室のベッドの傍らに椅子を持ってきて腰掛けている彼ににっと愛想良く笑みかけ、巴椰は片手に掴んでいたケモノを放した。
「あァ、おはよう。約束とは随分早いが、何か不都合でもあったか」
「むしろ好都合だった。他の皆が来る前に話終わらせないと、ここはうるさいし」
そうだな、と彼は苦笑し席を立った。その眼は優しく、自分を見て微笑んでくれていた。聖母様のオーラをムンムンに醸し出して。
ぽーっとそれに見惚れていると、背後から狼の低い咳払いが彼を現実に引き戻した。
ひらひらと軽く手を振り、コールは持参した本を抱えて、狼の納得のいくように部屋を出ていった。
「……咳払いとか露骨なやり方すんなよ阿呆。俺コール好きなのに」
「一言多いぞ。あまり嫉妬させるなよ、気がおかしくなる」
「あんまり嫉妬させないで、っていうのはこっちの台詞なんだけどね?」
不意に周辺視野で見えていた掛け布団の膨らみが解け、その塊が会話に乱入した。
寝起きのボサついた髪を手櫛で解きながら、ブルネットの麗人はブレットに軽蔑するかのごとく冷たい視線を送った。
「おはよう、あなた。腕ぶっ千切ってヒトの病室で新しい子とイチャつくなんて、マナーがなってないわよ」
「マナーなんて気にしたことはないがな」ふんとそれを一笑に伏し、彼は先程までコールの腰掛けていた椅子に腰を下ろした。「お前こそ、男と会うのならもう少し整えろ」
「時間も守れないような下衆に諭される義理はないわね。見てくれだけはいいんだもの、ヤになっちゃう」
肘のすぐ上で千切れた腕をさすりながら、彼女は悲しそうにそう吐いた。自虐的にもとれる、軽蔑の言葉だった。
その視線が、巻かれた包帯の赤からこちらへと変わった。
「まだきちんと見てなかったわね。反吐が出そう、自分の夫が気付けば子供に、それも男の子に手を出していたなんて」
「それは、その、すいませんでした。ね、寝取る気はなくて、その」
「寝取ったのは俺なんだがな。お前が居た昔より手間が掛かって、頑なだった分『甘かった』」
珍しくさも幸せそうに笑んで、ブレットはシェリーのその腕の傷口をそろりと指先で撫でた。
包帯越しに未だ赤が染み出してくるのが解り、「悪趣味」と彼女は眉根をひそめた。
「お前は完全だった方が美しかった。惚れられるとまでは思わなかったが、昔もそれなりには楽しかった。生を楽しめたのは、お前のお陰でもあったんだ」
「珍しく褒めてくれるのね。槍でも降りそうね、明日は覚悟しておかないと」
「俺の認めた女として敬意を払っているだけだ。それ以上撃てない俺を存分に嘲笑うといい」
そう言って傷口に軽く口付け、ブレットは席を立った。もう用事は済んだと言わんばかりに。
まるで初めてキスをした少女のように照れ、それを髪で隠しながら彼女はその腕に手を伸ばした。
「待って。また、会いに来なさいね。今度は一人で」
「考えておく。この子と二人で行くかも知れんがな」
へぇ、と軽く目を見開いて大した驚きもなく相槌を打ち、シェリーは巴椰にその眼を向けた。
否応無しにその傍らへと呼ばれ、巴椰は萎縮しつつ彼女の傍へと寄った。
「……見れば見るほど、反吐が出そうなくらい可愛い子。でも私、未だあのヒトのことは諦めてないから」
「はぁ、頑張って下さい。俺としても引っ剥がして欲しい気持ちで一杯です」
「ふ、ははッ。面白いことを言うのね。今まで惚れたヒトは皆、そんなこと言わなかった。自分の欲を満たすため、何度も死闘を繰り広げて--……」
健康的に色づいた片腕を今度は巴椰の頬に滑らせ、彼女はまた一言「可愛い子」と囁いた。
夫婦揃って似たことを言うんだなと呆れながらも微笑ましくすら感じていると、唐突にその腕に力が入り、巴椰は彼女にぐっと引き寄せられた。
混乱する頭をさらに混乱させ、薄い桃色の唇が声を上げようとした彼の口を塞いだ。
ただひたすらに、頭は混乱を極めていた。目の前の女性の肩を掴んで引き離そうとするも、頬へ触れていた手は後頭部を押さえつけて離さず、女性特有の匂いに抵抗の感覚さえ麻痺させられそうだった。あの狼を虜にしていただけのことはあり、抗うにはあまりにも力不足だった。
余すことなく舌が口腔内を舐め、唾液が繋ぎ目から滴った。血が沸き立つ音をはっきりと聞いた時、閉塞感は終わりを告げ、巴椰はシェリーから離されていた。
「、シェリー、さん……?」
「野暮ったいわねぇ、男の嫉妬は醜いわよ?この子は初だから丁寧に手解きをしてあげようと思ったのに。私が筆下ろしもしてあげてもいいのよ?」
悪戯めいて彼女は白い歯を見せて笑っていた。してやったりと言うのが目に見え、廃人のようにさせられた脳では考えが纏まらなかった。
引っ剥がした張本人は、一言も言わずに跪居し、立ち上がれないで惚けている巴椰を両腕に抱えた。
「また遊びましょうね?」と、狡猾な女狼の声が、辛うじて耳に入り頭の中に反響していた。『警戒を怠るなんて』と、内なる自分の戒めとともに。




