第九話 拳銃
朝は冷え込んでいた。
美咲は疲れきっていたのか、昨夜は焚火の横でそのまま眠り込んでしまった。いつもならすぐに目を覚ますのに、今日はどれだけ呼びかけても起きない。
「美咲、起きろ」
英也は肩を揺すった。反応はない。顔色は少し青白い。空腹と疲労で限界だったのだろう。
英也はため息をついた。このままやり過ごす時間はない。仕方なく、少女を背負うことにした。
「すまんな」
小さく呟き、背中に手を回して持ち上げる。美咲の身体は軽かった。子供だからというだけではない。食べていないからだ。
英也は左足をかばいながら、ゆっくりと歩き出した。背中に少女の気配。その小さな体温が、寒さの中でわずかな温もりをくれた。
しばらく歩いた頃、背中で小さな動きがあった。
「ん……」
「ああ、起きたか」
「ごめん、寝ちゃってた……」
「気にするな」
英也は歩き続けた。しばらくして、美咲が言った。
「降ろしてもらってもいい?」
少し歩いた先で英也は立ち止まり、背中から美咲をそっと降ろした。
「ありがとう……本当に助かったよ」
美咲は肩を軽く回し、ふうっと息を吐いた。
その時だった。美咲の視線が、英也の腰のあたりで止まった。上着の裾が少しめくれていた。その内側、ベルトの右側に、黒い金属の形が見えた。
「……それ、何?」
美咲の声は小さく震えていた。英也の背筋がわずかに硬直する。気をつけていたつもりだった。だが、今さら誤魔化せるものでもない。
英也は上着を下ろしながら言った。
「拳銃だ」
美咲の顔から表情が消えた。
「銃……」
その響きだけで十分だった。戦争が始まってから、誰もが知っている言葉だ。人を殺す道具。死を運ぶもの。美咲は少し後ずさった。その動きが、英也の胸に小さな痛みを走らせる。当然だ。怖がられて当然だ。
「撃ったこと、あるの?」
静かな問いだった。英也は答えなかった。答えられなかった。脳裏に浮かんだのは、遠い戦場だった。
銃声。爆発。叫び声。土煙の中を走る兵士たち。敵か味方かも分からなくなる混乱。
目の前に現れた人影。反射的に引き金を引く。相手が倒れる。そしてその顔を見る。まだ若かった。自分と同じくらいの年齢だった。ただ、生まれた国が違っただけの人間。
英也はゆっくり目を閉じた。
「ああ」
嘘はつかなかった。
「何人もな」
風が吹く。荒野を渡る乾いた風。美咲の顔がこわばった。英也はその表情を見てしまった。恐怖。戸惑い。そして少しの悲しみ。それはきっと、自分に向けられたものではない。戦争というものに向けられた感情だ。だがそれでも、胸は痛かった。
「怖いか」
気付けば口にしていた。美咲は少し考えてから、首を横に振る。
「ううん」
英也は驚いた。
「怖いのは、その銃じゃない」
美咲はゆっくり言う。
「そんな顔をしてる英也さん」
英也は言葉を失った。美咲は拳銃を見ていたのではなかった。拳銃を見た時の英也を見ていた。過去に囚われた男の顔を。
美咲は少しだけ笑った。
「もう行こう」
そして先に歩き出した。
英也はその背中を見る。小さな背中。守るべき背中。
誰かに許されたような気がした。もちろん、本当に許されたわけではない。撃った人間は戻らない。失われた命も戻らない。それでも、ほんの少しだけ、胸の奥の重さが軽くなった気がした。
英也は美咲の後を追った。二人の足音が荒野に響く。海はまだ遠い。だがその足音は、昨日より少しだけ近くなっていた。




