第十話 帰れなかった家
その日は、会話が少なかった。
美咲が拳銃を見てからというもの、二人の間にはどこか静かな空気が流れていた。気まずいわけではない。けれど、お互いに何かを考えていた。
美咲が少し前を歩いている。英也は数歩後ろを歩く。立場が逆だった。出会った頃なら考えられなかった。少女は英也が追いついてくることを疑わない。英也もまた、そんな少女を自然に見守っている。
風が吹く。乾いた荒野を抜ける風。その音が、遠い記憶を呼び起こした。
帰ろう。あの日の英也は、それだけを考えていた。
前線は崩壊していた。命令系統もなくなり、補給も途絶え、部隊は散り散りになった。戦う理由もなくなった。だから帰ろうと思った。妻と娘のいる家へ。それだけだった。
左足には包帯が巻かれていた。破片が刺さった傷だった。痛みはあった。だが生きていた。仲間の多くは帰れなかった。自分は帰れる。それだけで十分だった。
帰ったら娘を抱き上げよう。また重くなったと言って笑おう。妻に謝ろう。長く家を空けたことを。怖い思いをさせたことを。それから――。
英也は目を閉じる。思い出したくない。だが忘れたこともない。あの日を。あの光景を。
遠くから煙が見えた。最初は工場火災だと思った。戦時中だ。どこかが燃えていても不思議ではない。だが近づくにつれ気付いた。煙の場所が、自分の街だった。
英也は走った。傷ついた足で。転びながら。何度も立ち上がりながら。胸の奥で嫌な予感が膨らむ。違う。大丈夫だ。きっと家は無事だ。妻も娘も生きている。そう自分に言い聞かせながら。
そして辿り着いた。故郷へ。いや、故郷だった場所へ。
そこには何もなかった。焼け野原だった。家がない。道もない。見慣れた商店も、公園も、学校も。本当に何もなかった。黒く焦げた瓦礫だけが続いていた。
英也は夢の中を歩くように自宅があった場所へ向かった。現実感がなかった。受け入れられなかった。そこなら。そこだけは。そう願いながら。
だが、何もなかった。家が建っていた場所には、焼けた基礎だけが残っていた。
英也は立ち尽くした。しばらく、本当にしばらく、動けなかった。
娘の靴があった。片方だけ。煤だらけになって、転がっていた。誕生日に買ってやった新しい靴だった。
『パパ見て!速く走れる気がする!』
娘の声が蘇る。英也は震える手で靴を拾った。抱き締めるように。
そして泣いた。
戦場では泣かなかった。仲間が死んでも、自分が撃たれても、泣かなかった。だがあの日だけは止まらなかった。声が枯れるまで。喉が潰れるまで。泣いた。叫んだ。誰に向かってかも分からず、泣いた。
どれだけ時間が経ったのか覚えていない。気付けば夜になっていた。瓦礫の中に座り込み、娘の靴を抱えたまま、英也は空を見ていた。星が出ていた。戦争なんて関係ないように、静かに、綺麗に。
腹が立った。世界が平然と続いていることに。自分だけが終わってしまったことに。
その夜、英也は初めて思った。もうどうでもいい、と。守る相手がいない。帰る家がない。生きる理由が見つからなかった。自分だけが残った。その事実が、何よりも重かった。
「英也さん?」
声で現実に戻る。美咲だった。いつの間にか立ち止まっていた。
「大丈夫?」
英也は気付く。自分が立ち止まっていたことに。過去へ沈み込んでいたことに。
「ああ」
「疲れた?」
「いや」
「じゃあ何?」
英也は答えなかった。答えられなかった。
だが少しだけ思った。もしあの日、焼け野原で泣いていた自分に今の美咲が会ったなら、きっと同じ顔をしただろうと。心配そうに。困ったように。そして放っておけない顔で。
「行くぞ」
「うん」
二人は再び歩き出す。荒野に足音が響く。一人分だったはずの足音が、今は二人分になっていた。
英也はまだ気付いていない。自分がなぜ美咲を見捨てられなかったのか、その答えに少しずつ近づいていることを。




