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第十一話 灯り

 その日の夜は、廃墟となった物置小屋で過ごすことになった。


 宿泊に満足なものはほとんどないが、野営が多い中で、雨風を避けられるだけでもありがたい。


 英也は入り口付近の一角に腰を下ろした。日は完全に落ち、暗闇が広がっている。焚き火の火だけが小さく揺れていた。パチパチと薪が爆ぜる音。その音だけが、この世界にまだ人間が残っていることを教えてくれていた。


 向かい側では、美咲が毛布にくるまっている。昼間は元気そうにしていたが、何度も欠伸をしていた。


「眠いなら寝ろ」


「まだ平気」


 そう言った直後に欠伸をする。英也は少しだけ笑った。


「全然平気じゃないな」


「うるさい」


 美咲が頬を膨らませる。その顔が少しだけ娘に似ていて、英也は視線を逸らした。


 娘のことを考える時間は増えていた。以前は思い出すだけで苦しかった。胸が潰れそうになった。だが今は違う。苦しさはある。消えることはない。それでも思い出せる。笑っていた顔を。走り回っていた姿を。新しい靴を履いてはしゃいでいたあの日を。それは美咲がいるからかもしれなかった。


「ねえ、海まであとどれくらい?」


「わからん」


「適当だなあ」


「本当にわからんからな」


 英也は肩をすくめる。地図などない。ただ噂を頼りに歩いているだけだ。それでも、近づいている感覚はあった。風の匂い。土地の様子。少しずつ変わっている。


「でも近い気はする」


 そう言うと、美咲の顔が少し明るくなった。


「そっか」


 その声には期待が混じっていた。母親に会いたい。その気持ちだけでここまで歩いてきたのだろう。


 英也は焚き火へ薪をくべる。火が大きくなり、暗闇が少しだけ後退する。美咲はその火を見つめていた。


 しばらくして、ぽつりと言った。


「怖いんだよね」


「何がだ」


「夜。暗いとさ、また一人になる気がする」


 英也は何も返せなかった。分かるからだ。一人になる怖さを。大切な人を失う怖さを。


「だから火があると安心する。ママといた時もそうだった」


 英也は火を見る。小さな灯り。世界を照らすにはあまりにも弱い。だが一人の人間を安心させるには十分だった。


「消さないでね」


「消さない」


 それだけで満足したのか、美咲は毛布へ潜り込んだ。


「おやすみ」


「ああ」


 ほどなくして寝息が聞こえ始めた。


 英也は焚き火の番を続ける。火を絶やさないように。夜の冷え込みから守るために。そして美咲を安心して眠らせるために。


 炎を見つめながら、ふと思う。いつからだろう。この子を母親の元へ届けることが、自分の目的になったのは。最初は違った。ただ放っておけなかっただけだ。娘を思い出しただけだ。そのはずだった。


 なのに今は、この子に生きてほしいと思っている。母親と再会してほしいと思っている。幸せになってほしいと思っている。それはきっと、守れなかったものを重ねているからではない。美咲自身を大切に思っているからだ。


 英也は小さく息を吐いた。


 炎が揺れる。静かな夜だった。


 しばらくして、小さな声が聞こえた。


「……パパ」


 英也は顔を上げる。美咲だった。眠ったまま、目を閉じたまま。


「……パパ……」


 その呼び声に、英也の胸が強く締め付けられた。娘の声が蘇る。戦争が始まる前、何度も呼ばれた言葉。失ってしまった言葉。もう二度と聞けないと思っていた言葉。


 英也はしばらく動けなかった。ただ美咲を見つめる。何も知らずに、安心しきった顔で眠っている。その寝顔を見ているうちに、胸の痛みが少しだけ和らいでいく。


 英也はゆっくりと立ち上がり、ずり落ちていた毛布をそっと肩まで掛け直した。


「……寝ぼけやがって」


 小さく呟く。もちろん返事はない。美咲は穏やかな寝息を立てている。


 英也は再び焚き火の前へ戻った。火はまだ燃えている。小さいが、確かな灯りだった。


 世界は壊れた。失ったものは戻らない。それでも消えていない灯りがある。守りたいと思えるものがある。


 英也は炎を見つめながら夜を過ごした。その灯りが消えないように。そして隣で眠る少女の未来が消えないように。

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