第十二話 缶詰
街が見えたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「あっ!」
先に気付いたのは美咲だった。小高い丘を越えた先、地平線の向こうに、いくつもの建物が並んでいる。崩れている。焼けている。それでも間違いなく街だった。
「街だ!」
美咲の声が弾む。英也は目を細めた。街を見るのは久しぶりだった。戦争が始まってから、多くの街は爆撃で、略奪で、飢えで消えた。目の前の街も同じだろう。遠目にも、人の気配は感じられない。だが英也は少しだけ期待していた。街には物が残っていることがある。食料。水。衣類。運が良ければ何か見つかるかもしれない。
「行くぞ」
「うん!」
美咲は珍しく英也の前を歩いた。それだけ期待しているのだろう。英也は少しだけ笑った。子供らしい、と思った。
街へ入る。静かだった。静かすぎた。風が吹く音だけが聞こえる。割れた窓。崩れた看板。焼け焦げた車。人が暮らしていた痕跡だけが残っている。まるで世界から人間だけが消えてしまったみたいだった。
美咲も最初の勢いを失っていた。無言で歩いている。きっと想像してしまったのだろう。自分の街も。母親も。英也は何も言わなかった。今は余計な言葉はいらない。
二人は手分けして建物を調べ始めた。成果はなかった。空っぽの棚。壊れた冷蔵庫。ひっくり返された机。誰かが先に漁った後だった。英也は諦めかけていた。
その時だった。
「英也さん!」
美咲の声が響く。少し離れた建物の中からだった。英也は急いで向かう。
「どうした」
「これ!」
美咲が両手で何かを抱えていた。缶詰だった。少し錆びている。だが破損はしていない。英也は思わず目を見開いた。
「どこにあった」
「あそこの棚の奥!」
倒れた棚の裏側に隠れるように転がっていた。見落とされていたのだろう。奇跡みたいな話だった。英也は缶を持ち上げる。ずっしり重い。中身が入っている。間違いない。
「食べられるかな」
「たぶんな」
それだけで胸が高鳴った。まともな食事がいつ以来か思い出せない。干からびたパン。少量のビスケット。そんなものばかりだった。今日は違う。
二人は建物の隅に腰を下ろした。英也はナイフを取り出し、慎重に蓋をこじ開ける。固い。だが少しずつ隙間ができる。やがて、ぱこん、と乾いた音と共に蓋が外れた。
香りがした。ほんの微かに。それでも十分だった。
美咲の目が輝く。
「すごい……」
缶の中には肉の煮込みが入っていた。冷えている。それでもご馳走だった。
「食べろ」
「いいの?」
「見つけたのはお前だ」
美咲は遠慮がちに一口食べた。そして目を丸くした。
「おいしい……!」
その顔を見た瞬間、英也は吹き出した。声を出して笑ったのは久しぶりだった。美咲が驚く。
「な、なに?」
「いや、そんな顔するかと思ってな」
「だって美味しいんだもん!」
二人は交代で缶詰を食べた。一口、また一口、大事に、味わうように。最後の一滴まで。
食べ終わる頃には、二人とも満たされていた。腹だけではない。心も。
美咲は満足そうに息を吐く。
「幸せ……」
「安い幸せだな」
「英也さんは?」
「俺か?」
英也は少し考える。幸せ。そんな言葉を考えたのはいつ以来だろう。家族を失ってから、そんなものは自分には関係ないと思っていた。だが今、隣で笑う少女を見ていると、不思議と悪くない気分だった。
「まあ……悪くない」
美咲が笑う。
「それ、幸せって言うんだよ」
英也は返事をしなかった。だが否定もしなかった。
ふと、美咲の頬に缶詰の汁が付いていることに気付く。食べることに夢中だったのだろう。本人は気付いていない。
「動くな」
「え?」
英也はポケットから布切れを取り出し、何気なく美咲の頬を拭った。
「付いてる」
「あ……」
英也はそれ以上気にしていなかった。ただ自然に身体が動いただけだった。昔もよくやっていた。娘が食べこぼした時。口の周りを汚した時。何度も、何度も。だから今も同じようにしただけだった。
美咲は黙っていた。その横顔を見つめている。英也は気付かない。その仕草が、どれほど父親らしかったかを。
「……ありがとう」
小さな声が聞こえた。英也は軽く手を振る。
「気にするな」
その時だった。
「パパ」
言葉がこぼれた。
静寂が落ちる。美咲自身が目を見開いた。英也も固まる。数秒、誰も動かなかった。
「ご、ごめんなさい!違うの、その……」
美咲が慌てて立ち上がる。顔が真っ赤になっている。
英也はしばらく黙っていた。胸の奥が少し痛んだ。もう二度と呼ばれないと思っていた言葉。けれど不思議と嫌ではなかった。むしろ、少しだけ温かかった。
「謝ることじゃない」
美咲が顔を上げる。
「え?」
「呼びたいなら好きに呼べ」
英也はそれだけ言って立ち上がった。照れ隠しだった。これ以上話すと、何か余計なことを言ってしまいそうだった。
美咲はしばらく呆然としていた。やがて、少しだけ笑う。
「……うん」
その返事は小さかった。だが確かだった。
窓の外では風が吹いている。世界は相変わらず壊れたままだ。明日生きている保証もない。それでもこの瞬間だけは、二人は確かに家族のようだった。




