第十三話 絵本
その日の夜は、街外れにある小さな建物で休むことになった。かつては何かの店舗だったのかもしれない。看板は落ち、窓ガラスも割れている。だが屋根は残っていた。雨風をしのぐには十分だった。
日が沈む。英也は街に入ってから拾い集めた木片を組み、火を起こす。やがて小さな炎が揺れ始めた。美咲は壁際に腰を下ろしている。昼間の缶詰のおかげか、表情は明るかった。
ふと。
「パパ」
呼ばれた。英也の手が止まる。美咲も一瞬だけ気まずそうな顔をした。昼間の出来事を思い出したのだろう。だが今度は言い直さなかった。
「なんだ」
英也も何事もないように返した。そのことに美咲が少しだけ嬉しそうな顔をする。
「これ見つけた」
差し出されたのは一冊の本だった。埃だらけの絵本。角は潰れ、表紙は煤で黒ずんでいる。それでも辛うじて形を保っていた。
「どこにあった」
「棚の下」
美咲は絵本を抱えて英也の隣へ座る。いつの間にかそれが当たり前になっていた。
美咲は表紙を開いた。最初のページには、青空の下を歩く親子の絵が描かれていた。笑顔の父親。母親。手を繋ぐ子供。平和な世界だった。もう存在しない世界だった。
美咲は静かにページをめくる。次のページには隊列を組んだ兵士たち、戦車、空を飛ぶ戦闘機。そして文章。
『ツイニWORLDWARガハジマッテシマッタ』
美咲の表情が少し曇る。さらにページをめくる。
『ニホンヂュウガFIREウミ』
焼け落ちる街。逃げ惑う人々。泣き叫ぶ子供。倒れた大人。絵本のはずなのに、描かれているのは現実だった。
英也は苦いものを感じた。戦争が始まった頃、きっと誰かが作ったのだろう。子供たちに説明するために。何が起きているのかを。なぜ世界が変わってしまったのかを。だが子供に戦争を説明しなければならない世界そのものが間違っている。そんなことを思った。
美咲は黙ったままページをめくり続ける。避難民の列。荷物を抱えて歩く人々。海岸へ向かう家族。船。そして、再会する親子の絵。
そこで美咲の指が止まった。しばらく何も言わない。ただ絵を見つめている。
「ママもいるかな」
小さな声だった。
英也は絵本を見る。描かれている親子は知らない人間だ。もちろん美咲の母親ではない。だが今の美咲には、その絵が希望そのものなのだろう。
英也は少しだけ空を見上げた。本当のことを言えば分からない。戦争は理不尽だ。善人も、子供も、関係なく奪っていく。それを誰より知っている。だが今だけは、そんな現実を語る気にはなれなかった。
「いるさ」
言葉が自然に出た。美咲が顔を上げる。
「本当?」
「会うためにここまで歩いてきたんだろ」
「うん」
「だったら会える」
根拠はない。願いに近い言葉だった。それでも美咲は少しだけ笑った。
「うん」
その顔を見て、英也は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。娘ではない。家族でもない。けれどこの子には生きてほしい。母親と再会してほしい。幸せになってほしい。そう思っている自分がいた。
焚き火が揺れる。炎が美咲の横顔を照らしていた。まだ幼い。未来がある。だからこそ何としてでも海まで連れて行かなければならない。
その時、絵本の最後のページが開いた。戦争が終わった後の世界が描かれていた。青空。緑の草原。笑い合う家族。そして大きな文字。
『アシタハキットクル』
美咲がその文字を指でなぞる。
「来るかな」
英也は少し考えた。明日。そんなものを信じられなくなってから長い。だがこの旅を始めてから、少しだけ考え方が変わっていた。美咲がいるからかもしれない。歩き続けているからかもしれない。
「来る」
美咲が笑った。その笑顔は焚き火よりも温かく見えた。
夜は静かに更けていく。海まではもう遠くない。終わりは近付いていた。そして同時に、二人に残された穏やかな時間も、少しずつ終わりへ向かっていた。




