第十四話 笑顔
翌朝、英也が目を覚ますと、東の空がわずかに白み始めていた。
隣では美咲が眠っていた。昨夜見つけた絵本を抱えたまま、小さな寝息を立てている。英也はしばらくその様子を見つめた。戦争が始まる前、まだ娘が生きていた頃、休日の朝にはこんな時間があった気がする。だが記憶は曖昧だった。思い出そうとすると胸が痛む。だから英也は立ち上がった。火の残りを始末し、出発の準備をする。
しばらくして美咲も目を覚ました。
「おはよう」
「……おはよう」
少し眠そうな声だった。しかし、思い出したようにもう一度、はっきりとした声で言った。
「おはよう、パパ」
自然だった。昨日までのような照れもない。まるで最初からそう呼んでいたみたいに。英也は一瞬だけ眉を動かした。だが何も言わない。
「支度しろ」
「はーい」
美咲が笑う。その様子を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。むしろどこか安心する。それが何故なのか、英也自身にも分からなかった。
街を出る。空はよく晴れていた。風も穏やかだ。久しぶりに歩きやすい一日だった。荒野は終わりに近付いている。遠くには緑も見え始めていた。海岸地帯が近い証拠だった。
「海ってどんな匂いするのかな」
「さあな」
「知らないの?」
「話で聞いたことしかないな」
「じゃあ知ってること教えてよ」
「塩の匂いがする」
「それだけ?」
「それだけだ」
「つまんない」
美咲が頬を膨らませる。英也は少し笑った。
「行けば分かる」
「それもそうか」
二人は歩く。並んで、同じ方向へ。以前のように数歩離れることはなくなっていた。気付けば自然と隣を歩いている。それが当たり前になっていた。
昼頃、休憩のために岩陰に腰を下ろした時だった。
「あっ」
美咲が何かを見つけ、少し離れた場所にしゃがみ込んだ。
「どうした」
「これ」
手の中にあったのは小さな白い花だった。岩の隙間から咲いている。荒野の中では珍しい光景だった。
「まだ生きてるんだな」
英也が呟く。戦争が始まってから、人間はたくさん死んだ。街も消えた。だが草木は違う。誰もいなくなった場所でも生き続け、季節が来れば花を咲かせる。まるで世界そのものが、人間なんていなくても構わないと言っているようだった。
「綺麗」
美咲が微笑む。その笑顔を見て、英也は花よりもそちらに目を奪われた。最近よく笑うようになった。最初に会った頃は違った。泣きそうな顔ばかりしていた。絶望していた。それが今は未来を信じている。母親に会えると信じている。英也のおかげではない。きっと美咲自身の強さだ。それでも、少しだけ誇らしかった。
「パパ」
「なんだ」
「ありがとう」
英也は首を傾げた。
「何がだ」
「分かんない」
美咲が笑う。
「でも言いたくなった」
英也は返事に困った。こういう時、何を言えばいいのか分からない。昔からそうだった。娘にもよく笑われた。
「そうか」
それしか言えなかった。美咲が吹き出す。
「またそれ」
「他に何て言うんだ」
「知らない」
二人は少し笑った。
風が吹く。白い花が揺れる。空は青い。戦争前ならどこにでもあった景色だった。だが今は違う。だからこそ尊かった。
再び歩き始める。海まではもう遠くない。旅の終わりが見え始めていた。
英也は少しだけ足を止め、前を歩く美咲を見た。小さな背中。焼けた街で出会ったあの日、ただそれだけの存在だったはずなのに、今では違う。守りたいと思っている。無事に母親へ会わせたいと思っている。それはきっと、失った娘に向けられなかった想いではない。美咲自身に向けられた感情だった。
英也は小さく息を吐き、再び歩き出した。
前を行く少女の足音が聞こえる。軽やかな足音だった。未来へ向かう足音。その音を聞きながら、英也は少しだけ思った。夢見ていた未来は、それほど遠くないのかもしれないと。
だがその穏やかな時間は、終わりを目前にしていた。彼らはまだ知らない。明日、旅の中で最も残酷な一日が訪れることを。




