第八話 名前
ビスケットを分け合った翌日、空は雲ひとつない晴天だった。朝から強い日差しが荒野を照りつけている。男は空を見上げ、小さく眉をひそめた。暑くなりそうだった。
二人は早めに歩き始めた。昼になる前に少しでも距離を稼ぎたかった。
荒野はどこまでも続いている。景色は相変わらず変わらない。だが不思議なことに、以前ほど果てしなくは感じなかった。後ろから聞こえる足音のせいかもしれない。男はそんなことを考え、自分で苦笑する。昔の自分なら考えもしなかった。
「ねえ、おじさんってさ」
嫌な予感がした。男は何も言わない。
「名前なんていうの?」
やはりその質問だった。
男はしばらく黙った。そういえば、出会ってからずっと、少女は自分を「おじさん」と呼び続けている。男も少女のことを「お前」としか呼んでいない。それで十分だと思っていた。いや、思い込もうとしていた。名前を聞けば関係ができてしまう。別れた時に辛くなる。だから聞かなかった。無意識に。
「別に何でもいい」
「よくないよ」
少女は即答した。
「なんで」
「呼びにくいもん」
男は少し考えてから、諦めたように息を吐いた。
「……英也」
久しぶりに口にした名前だった。家族を失ってから、誰かに名前を呼ばれることはほとんどなくなった。生存者同士の付き合いは浅い。今日会って、明日死ぬかもしれない世界では、名前など必要なかった。
少女は少し嬉しそうな顔をした。
「英也さん?」
「好きに呼べ」
「じゃあ英也さん」
妙な感じだった。男は少し居心地が悪くなる。だが少女は満足そうだった。
「お前は」
男は思わず言葉を続けた。少女が驚いた顔をする。男から質問されるとは思っていなかったのだろう。
「名前」
「あ、私?」
「他に誰がいる」
「そうだね」
少女は照れ臭そうに頬を掻いた。
「美咲」
男は心の中でその名前を繰り返す。美咲。今までただの少女だった存在に、名前が付いた。それだけのことなのに、急に輪郭がはっきりした気がした。
「美咲か」
「うん」
「そうか」
美咲は少し笑う。
「変な顔」
「誰がだ」
「英也さん」
男は呆れたように息を吐く。だが美咲は楽しそうだった。
その日、二人はいつもより多く話した。他愛もないことばかりだった。戦争前に好きだった食べ物、学校の話、嫌いだった教科、好きだった季節。男は基本的に聞く側だったが、以前のように無視はしなかった。必要最低限ではあるが返事をする。美咲はそれだけで満足そうだった。
昼過ぎ、二人は大きな岩場へ辿り着いた。日陰ができている。休憩にはちょうどいい。男は腰を下ろした。左足が痛む。最近は少し無理をしていた。美咲も隣へ座る。以前なら数歩離れていただろう。今は違う。
「英也さん、海に着いたらさ」
男は顔を上げる。
「ママがいたら紹介するね」
「紹介?」
「うん。英也さんがいなかったら、ここまで来れなかったし」
男は返事ができなかった。胸の奥が少し苦しくなる。感謝されることに慣れていない。むしろ逆だった。守れなかった。救えなかった。そんな記憶ばかりだった。
「別に」
ようやく出た言葉はそれだけだった。
「またそれ」
「何がだ」
「別にって」
男は苦笑した。自分でも気付いていた。最近よく言っている。照れ隠しなのかもしれない。そんなことを考えてしまう自分にも驚いた。
夕方、二人は岩陰で野営の準備を始める。焚火を囲む。炎が揺れる。夜空には星が浮かんでいた。
美咲は火を見つめながら言う。
「英也さん、名前って不思議だね」
「どういう意味だ」
「昨日まで、おじさんだったじゃん」
「そうだな」
「でも今は違う。ちゃんと英也さんになった」
ぱちり、と薪が弾ける。その言葉は妙に心に残った。名前。確かに不思議だった。ただの呼び方なのに、その人を特別な存在に変えてしまう。
家族を失ってから、名前を呼ぶことも、呼ばれることも、ほとんどなくなっていた。だからだろうか。美咲に名前を呼ばれた時、少しだけ、自分がまだ人間であるような気がした。
風が吹く。火が揺れる。美咲は眠そうに目を擦っていた。
「寝ろ」
「うん」
美咲は素直に横になり、しばらくして寝息が聞こえ始める。
男は焚火を見つめ続けた。海へ辿り着いた時、美咲が母親と再会できたなら。もしいなくても、避難民がこの子を受け入れてくれたなら、自分はそこで役目を終える。それでいい。それでいいはずだ。
なのに。
胸の奥に小さな寂しさが生まれていることを、男はまだ認めようとはしなかった。




