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第七話 ビスケット

 夜明け前だった。


 男は目を覚ました。長年の癖だった。戦場では、ぐっすり眠るということが許されなかった。いつ砲撃が来るか分からない。いつ敵が現れるか分からない。眠っている間に死ぬ人間を何人も見てきた。だから今でも、身体が勝手に目を覚ます。


 周囲を確認する。焚火は消えかけている。空はまだ暗い。少女は少し離れた場所で規則正しい寝息を立てていた。異常はない。


 男は再び目を閉じようとした。その時、ぐう、と小さな音がした。自分の腹だった。


 男は顔をしかめる。昨日まともに食べたものはない。一昨日も似たようなものだ。空腹には慣れている。だが慣れていることと平気なことは別だった。


 男は荷物を引き寄せ、中身を確認する。水が少量。そして小さな包み。男はしばらくそれを見つめた。ビスケットだった。最後の食料だ。戦争が始まる前なら子供のおやつにもならない量だ。だが今は違う。この一枚に命の価値がある。


 男は包みを戻した。朝になってからだ。


 太陽が昇り始める頃、少女も目を覚ました。まだ眠そうな顔をしている。髪も少し乱れていた。年相応の子供らしい姿だった。


 二人は出発した。今日も荒野を歩く。歩いても、歩いても、歩いても、世界は同じ顔をしている。


 昼近くになった頃、少女の足取りが重くなり始めた。男も同じだった。身体が重い。力が入らない。それでも歩くしかない。立ち止まれば終わりだ。


 不意に少女が言った。


「お腹すいた」


 男は少しだけ笑いそうになる。あまりにも率直だった。


「そうだな」


「すごく」


「俺もだ」


 少女は少し驚いた顔をした。


「おじさんも?」


「腹くらい減る」


「減らないと思ってた」


「なんでだ」


「なんとなく」


 少女は少しだけ笑う。男も呆れたように息を吐いた。


 そして荷物へ手を伸ばし、包みを取り出す。少女の目が丸くなった。


「それ」


「最後だ」


 男は包みを開いた。中には丸いビスケットが一枚。それだけだった。


 男は少女へ差し出す。


「食え」


「え?」


「食え」


「おじさんは?」


「いい」


 嘘だった。腹は減っている。だが少女の方が深刻だった。成長期の子供だ。自分より必要としている。


 少女はしばらく迷ってから、ビスケットを受け取った。男は前を向く。食べ終わるのを待つつもりだった。


 だが。


「はい」


 振り返ると、少女がビスケットを差し出している。半分になっていた。


「なんだ」


「半分」


「食え」


「半分」


 少女は譲らない。男は困った。本当に困った。戦場で銃を向けられた時より困ったかもしれない。


「俺はいい」


「私もいい」


「食え」


「おじさんも」


 少女は少し怒ったような顔をした。


「一人で食べるの嫌」


 男は言葉を失った。


 その瞬間、記憶が蘇る。娘だった。休日の午後。テーブルの上のクッキー。娘は半分に割って笑った。


「パパも食べる?」


 男は当時の自分を思い出す。仕事で疲れていた。適当に返事をした。娘はそれでも嬉しそうだった。今なら分かる。あれはクッキーを食べたかったんじゃない。一緒に食べたかったのだ。ただそれだけだった。


 男は現実へ戻る。目の前には少女がいる。ビスケットを差し出して、待っている。


 男はゆっくり受け取った。


「……そうか」


 少女は嬉しそうに笑った。


「うん」

挿絵(By みてみん)

 二人はビスケットを食べた。一口で終わる量だった。味なんてほとんどしない。だが不思議だった。ここ数日で食べた何よりも美味かった。


 少女も同じだったらしい。


「美味しい」


「そうだな」


 風が吹く。雲が流れる。空は高い。


 少女は空を見上げた。


「海って近いかな」


「どうだろうな」


「早く見たい」


 男は少女を見る。初めてだった。数日前まで絶望しか映していなかった瞳に、今は希望が見えた。母親に会えるかもしれないという希望。未来へ向かう希望。生きたいという希望。


 男は目を細めた。そして立ち上がる。


「行くぞ」


「うん」


 二人は再び歩き出した。男が前、少女が後ろ。だが距離はもうほとんどなかった。後ろから足音が聞こえる。以前より近く、以前より軽く。


 男は気付かないふりをした。けれどその音が、少しだけ心地良かった。

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