第六話 背中
翌朝も男は少女より先に目を覚ました。
空はよく晴れている。夜の冷気はまだ残っていたが、日が昇れば暑くなるだろう。男は立ち上がり、左足を軽く動かした。鈍い痛みが走る。いつものことだった。痛くない日の方が珍しい。気にしたところで治るわけでもない。
朝食と呼べるものはなかった。水を少し飲む。それで終わりだ。少女も文句を言わない。もう慣れてしまったのだろう。
二人は出発した。荒野は相変わらず広い。土。岩。風。そして空。景色も変わらない。それでも海へ近付いているのだと信じるしかなかった。
昼前、少女の足取りが重くなり始めた。男は気付いていた。だが何も言わない。少女も何も言わない。
しばらく歩いて、後ろから足音が消えた。
男は足を止め、振り返る。少女がしゃがみ込んでいた。肩で息をして、顔色も悪い。
「おい」
少女は返事をしない。ただ苦しそうに呼吸を繰り返している。
男は近付いた。
「立てるか」
少女は頷こうとした。だが身体が言うことを聞かず、そのまま前へ倒れそうになる。男は慌てて腕を掴んだ。
「無理するな」
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
少女は悔しそうな顔をした。分かっているのだ。自分が足手まといになっていることを。
男はため息をついて、少女の前でしゃがみ込んだ。
「乗れ」
「え?」
「いいから」
「でも」
「早くしろ」
少女は戸惑っていた。当然だった。出会ってからまだ数日。男は優しくない。必要以上に話さない。笑わない。そんな男が背負うと言っている。
「重いよ」
「知ってる」
「本当に重いよ」
「知ってる」
男は少しだけ苛立ったように言った。
「乗れ」
少女は観念した。おずおずと背中へ手を回す。男は身体を持ち上げる。
思ったより軽かった。軽すぎるくらいだった。十歳の子供ならもっと重いはずだ。それだけ痩せている。それだけ食べられていない。男は胸の奥に嫌な感覚を覚えた。
娘も一度だけこんなことがあった。高熱を出した時だ。病院まで背負って走った。小さな身体。軽い体重。必死にしがみついてくる手。男は記憶を振り払うように歩き始めた。
少女は最初、何も言わなかった。やがて小さな声が聞こえた。
「ごめん。迷惑かけて」
「別に」
本心だった。迷惑だとは思っていない。むしろ少女が倒れることの方が困る。そう自分に言い聞かせる。
「おじさん、足痛いの?」
男の歩みが一瞬だけ止まりそうになる。
「誰が言った」
「いつも引きずってる」
見ていたのか。男は少しだけ苦笑した。子供は案外よく見ている。
「昔な」
「戦争?」
男は黙る。少女もそれ以上は聞かなかった。
風だけが吹いている。男は歩く。左足は痛む。肩も重い。だが不思議だった。嫌ではなかった。むしろ懐かしかった。誰かを背負う感覚が。家族がいた頃の感覚が。
「ねえ、海ってどんな匂いするのかな」
「知らん」
「行ったことないの?」
「ない」
「そっか」
少女は少し笑った。
「じゃあ一緒だ」
一緒。その言葉が妙に残った。
男は黙ったまま歩く。空は高い。雲が流れている。戦争が始まる前も、きっと同じ空だった。
ふと、背中の重みが少し変わった。少女が眠っていた。振り返らなくても分かる。呼吸が穏やかになっている。身体から力が抜けている。完全に安心し切った人間の眠り方だった。
男は少し驚いた。こんな世界で。こんな男の背中で、眠れるものなのか。娘なら眠っただろう。だが少女はまだ出会って数日だ。それなのに。
知らないうちに歩幅が少しだけゆっくりになっていた。少女を起こさないように。自分でも気付かないうちに。
その日の夕方、二人は小さな岩陰へ辿り着いた。男は慎重に少女を降ろす。少女は目を覚まし、少し恥ずかしそうな顔をした。
「寝ちゃった」
「ああ」
「ごめん」
「だから何がだ」
少女は少しだけ笑った。男もそれ以上何も言わない。
出会った日のような重苦しい空気はもうなかった。まだ家族ではない。まだ信頼し切っているわけでもない。それでも少女にとって男は、ただの見知らぬ大人ではなくなり始めていた。そして男にとってもまた、少女はただ守るべき子供以上の何かになり始めていた。
焚火の火が灯る。夜が訪れる。
二人は何も言わず火を見つめていた。だが不思議と、沈黙は苦しくなかった。




