第五話 野営
翌朝には雨が止んでいた。
空は薄い雲に覆われている。眩しいほどではないが、昨日までの重苦しさはない。
男は目を覚ますと、まず外へ出た。空気は冷たく、湿った土の匂いがする。遠くまで見渡しても人影はない。いつも通りの世界だった。
男は小さく息を吐いて廃屋へ戻る。少女はまだ眠っていた。毛布に包まって、昨夜より少し穏やかな顔で。
男は何も言わず荷物をまとめる。やがて物音で少女も目を覚ました。目を擦りながら身体を起こし、肩に掛かった毛布を見て一瞬だけ首を傾げた。誰が掛けたのかは聞かなかった。少女は小さく毛布を畳み、男へ返す。
「ありがとう」
男は受け取るだけだった。
雨上がりの荒野は歩きづらかった。土がぬかるみ、靴底にまとわりつく。ただ砂埃が立たない分だけましだった。
男が前、少女が後ろ。相変わらずの並びだったが、二人の距離は以前より少しだけ近かった。男は気付いていない。少女も意識していない。ほんの数歩分。それだけだった。
昼過ぎ、二人は小さな川を見つけた。地図にも載らないような細い流れ。だが十分だった。男は水筒を満たし、少女は顔を洗う。
「冷たっ」
思わず笑った少女の顔を見て、男は口元をわずかに緩めた。少女は気付かなかった。
その日の進みは順調だった。雨のおかげで気温も低く、体力の消耗も少ない。夕方には岩場の近くへ辿り着いた。風を防げそうな場所がある。
「今日はここだ」
少女は黙って頷く。男が決めた場所なら大丈夫だと、理解し始めていた。
男は流木や枯れ枝を集める。少女も真似をする。男は何も言わなかったが、止めもしなかった。火を起こす。小さな炎が生まれ、夜が始まった。
食事はほとんどない。干からびた保存食を少し。それだけだった。少女は文句を言わない。食べられるだけありがたいと知っている。戦争が始まってから、それを嫌というほど学んでいた。
焚火を挟んで座る。風が吹く。火が揺れる。静かな時間だった。
不意に少女が口を開いた。
「ねえ。おじさんって、どこから来たの?」
男の手が一瞬だけ止まる。
「遠くからだ」
「どこ?」
「覚えてない」
嘘だった。覚えている。忘れられるはずがない。だが答えたくなかった。
少女は少し考えてから、それ以上は聞かなかった。代わりに自分の話を始める。
「私ね」
火を見つめながら言う。
「お父さんいなかったんだ。小さい頃に死んじゃったから」
男は黙って聞いている。
「戦争で」
風が吹く。
「写真でしか見たことない。だからよく分かんないんだ、どんな人だったのか」
少女は笑おうとした。だがうまく笑えなかった。
「ママは優しかったって言う。でもそれだけ」
男は火を見つめる。
優しい人。戦争で死んだ人間は、いつもそう語られる。優しかった。真面目だった。家族思いだった。残された人はそうやって記憶を守る。だが死んだ人間は何も語れない。
男は戦場でたくさんの死を見た。優しい人も死んだ。卑怯な人も死んだ。勇敢な人も、臆病な人も死んだ。死は平等だった。だからこそ腹が立つ。どんな人間だったかなんて関係なく奪っていく。それが戦争だった。
「お母さんは?」
男は初めて自分から聞いた。少女は少し驚いた顔をする。男が質問するとは思わなかったのだろう。
「元気だったよ。よく怒るし」
「そうか」
「でも優しかった。料理も上手だったし」
少し誇らしそうだった。
それから少女は話し続けた。母親のこと。学校のこと。友達のこと。飼っていた犬のこと。戦争が始まる前のこと。男は相槌を打たない。だが聞いていた。ちゃんと。最後まで。
少女は話し終えると少し恥ずかしそうに笑った。
「ごめん、いっぱい話しちゃった」
「別にいい」
少女は少しだけ驚く。
男は焚火を見つめた。昔、娘もよく話していた。学校であったこと、友達のこと、好きな給食のこと。男にはどうでもいいような話ばかりだった。だが妻はいつも楽しそうに聞いていた。今なら分かる。内容なんてどうでもよかったのだ。話したい相手がいること。聞いてくれる相手がいること。それが嬉しかったのだろう。
少女は眠そうに目を擦った。
「寝ろ」
「うん」
少女は横になり、しばらくして寝息が聞こえ始めた。
男は火を見つめ続ける。夜空には星が出ていた。昔と同じ星だ。世界が壊れても、人が死んでも、何も知らない顔で輝いている。
男はふと少女を見る。昨日より、その前の日より、ほんの少しだけ安心した顔で眠っていた。
自分は何をしているのだろう。少女を助けているつもりなのか。娘の代わりを求めているのか。贖罪なのか。分からない。分からないまま歩いている。
だが一つだけ確かなことがあった。数日前まで、自分は一人だった。そして今は違う。焚火の向こうで眠る少女がいる。
その事実だけが、妙に心に残った。
男は火が消えないよう薪を足した。ぱちり、と小さな火の粉が夜空へ舞い上がった。




