第四話 雨
空模様がおかしいと気付いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
朝から吹いていた風が変わった。冷たくなったのだ。男は足を止め、空を見上げる。西の空に重い雲が広がっている。焼け跡も空も何もかも灰色のこの世界では珍しくもない色だ。だがあれは違う。雨雲だ。
男は小さく舌打ちした。
「どうしたの?」
「急ぐぞ」
「え?」
「雨が来る」
少女も空を見上げた。理解した頃には、もう遅かった。ぽつり、と頬に雨粒が落ちる。次の瞬間には二粒、三粒と増えていく。
男は歩調を速めた。左足が痛む。だが止まるわけにはいかない。濡れたまま夜を迎えれば命に関わる。
「走れるか」
少女は頷く。
二人は荒野を進んだ。雨脚はどんどん強くなる。砂埃の舞っていた大地が濡れ始め、風も強い。視界の先に黒い影が見えた。建物だ。
近づくにつれ、それが古い民家の残骸だと分かった。屋根は半分崩れ、窓ガラスもない。だが壁は残っていた。
「入れ」
二人は駆け込んだ。直後、激しい雨音が屋根を叩く。間一髪だった。
少女は息を切らしながら壁にもたれた。男は入口付近を確認する。誰かが住んでいた形跡はない。最近使われた様子もない。安全だろう。
男は荷物を下ろした。濡れた服が重い。少女も同じだった。前髪から雫が垂れている。
しばらくして少女が苦笑した。
「びしょびしょ」
「そうだな」
男が返事をしたことに、少女は少し驚いた顔をした。男自身も少し驚いていた。必要以上に話さないようにしていたつもりだったからだ。だが別に構わないと思った。ただの事実だ。びしょびしょだった。
少女は少しだけ笑う。その顔を見て、男は視線を逸らした。
雨音が響く。今日は動けそうにない。
男は壁際へ腰を下ろした。少女も少し離れた場所へ座る。近くもない、遠くもない、曖昧な距離。時間だけが過ぎていく。
男は窓の外を眺めた。灰色の世界。雨に煙る荒野。昔は雨が嫌いではなかった。休日なら家にいる理由になった。妻がコーヒーを淹れ、娘が退屈そうにテレビを見る。そんな日があった。
今は思い出したくない。だが思い出してしまう。記憶というのは勝手だった。
夕方になる頃には冷え込んできた。男は集めておいた木片を取り出し、火を起こす。小さな炎が生まれる。少女の表情が少し和らいだ。
男は何も言わない。火を見つめる。少女も見つめる。そのまま夜になった。
雨は弱くなったが止まない。屋根を叩く音が続いている。少女はいつの間にか横になっていた。男は火の番をしていた。薪は少ない。だが完全に消すわけにもいかない。
すると。
「……ママ」
声が聞こえた。
少女だった。寝言だ。眉を寄せ、苦しそうな顔をしている。
「待って」
小さな声。
「置いていかないで」
男は動かなかった。少女の肩が震えている。
「ママ」
眠ったまま泣いていた。
男は視線を落とした。慰める言葉など知らない。大丈夫だと言う資格もない。母親が生きている保証などどこにもないのだから。
もし期待だけ持たせて、最後に見つからなかったら。
その絶望を男は知っていた。帰れば家族に会えると思っていた。必死に生き延びた。帰りたいと思った。だが待っていたのは焼け野原だった。誰もいなかった。あの日の絶望は今も胸の奥に残っている。
だから安易なことは言えない。
少女の涙を見ながら、男は拳を握った。そして立ち上がる。荷物から古びた毛布を取り出した。大して暖かくもない。だが無いよりはましだ。
男は少女のそばへ歩く。一瞬だけ迷い、何も言わず毛布を掛けた。
少女は起きない。ただ少しだけ表情が和らぐ。
男はその様子を見ていた。娘も昔、よくこんな顔で眠っていた。熱を出した時。遠足の前の日。雷が怖くて妻の布団へ潜り込んだ夜。
男は目を閉じる。思い出すな。何度そう言い聞かせても無駄だった。忘れられるなら、とっくに忘れている。
男は少女から離れ、再び壁にもたれた。雨音が続く。火が揺れる。少女は眠っている。
静かな夜だった。
もし娘が生きていたら、今頃どれくらい大きくなっていただろう。どんな顔で笑っていただろう。考えたところで意味はない。それでも考えてしまう。
目を閉じる。雨音が遠くなる。眠りへ落ちる直前、男は気付かなかった。
毛布の端を、少女が眠ったまま小さく握っていたことに。




