第三話 小さな足音
翌朝、男は目を覚ました。まだ薄暗い。空は白み始め、風は冷たかった。
隣を見ると、少女は毛布にくるまったまま眠っていた。昨夜、自分が掛けた毛布だ。
男は無言で立ち上がる。火はすでに消えていた。残った灰を踏み消し、荷物を背負う。少女もその気配で目を覚ました。少し寝ぼけた顔で辺りを見回し、それから男を見る。
「……おはよう」
男は答えない。いつも通りだ。少女もそれ以上は何も言わない。黙って立ち上がり、荷物を持つ。
二人は再び歩き始めた。
朝日が地平線から顔を出す。荒野はどこまでも続いていた。焼けた街も、人の暮らしも、もう見えない。あるのは土と岩と風だけだ。
男は前を歩く。少女は少し後ろを歩く。近くもなく遠くもない、不思議な距離だった。
足を前へ出す。砂を踏む。また一歩。また一歩。その後ろから、小さな足音が聞こえる。
ざっ。ざっ。ざっ。
規則正しい音。男は聞こうと思ったわけではない。荒野は静かだから、聞こえてしまうのだ。風の音と、自分たちの足音しかない。
その音を聞いているうちに、ふと記憶が浮かんだ。
⸻
娘が七歳になった日のことだった。
誕生日プレゼントは何がいいかと聞いた時、娘は珍しく即答した。
「靴!」
男も妻も意外だった。もっと別の物を欲しがると思っていたからだ。ゲームとか、おもちゃとか、ぬいぐるみとか。だが娘は真剣だった。
「友達が新しいの履いてるんだもん」
休日に三人で買い物へ出掛けた。靴屋で娘は目を輝かせ、あれでもないこれでもないと店中を歩き回る。結局、薄い水色の運動靴を選んだ。
家に帰ってからも嬉しそうだった。夕飯の前、玄関で何度も履いては脱ぎを繰り返している。妻は呆れて笑う。
「明日まで待ちなさい」
「やだ」
「汚れるでしょ」
「やだ」
結局、そのまま家の中を歩き回り始めた。
ぱたぱた。ぱたぱた。
男は新聞を読みながら、その音を聞いていた。何がそんなに嬉しいのか分からない。だが娘は幸せそうだった。新しい靴を履いただけで、世界が少し違って見えているようだった。
⸻
男は現実へ戻る。
目の前には荒野。後ろから聞こえる足音。ぱたぱたではない。砂を踏む、乾いた音だ。
振り返ると、少女が歩いていた。疲れた顔。汚れた服。俯き加減の視線。
娘ではない。当然だ。分かっている。それでも一瞬だけ重なって見えてしまう。
男はすぐ前を向いた。思い出しても何も戻らない。そう自分に言い聞かせる。だが記憶は勝手に浮かんでくる。忘れたくても、忘れられなくても、関係なく。
昼近くになる頃、少女が声を掛けてきた。
「あとどれくらい?」
「分からない」
「だいたい」
「分からない」
本当に分からなかった。海へ行ったことなどない。噂を頼りに歩いているだけだ。少女は小さく息を吐く。
「そっか」
不満そうでもなかった。期待していたわけでもないのだろう。
再び沈黙。歩く。歩く。歩く。
その時、少女が小さく呟いた。
「私ね」
男は返事をしない。だが少女は続けた。
「歩くの嫌いだった。すぐ疲れるし」
少女は苦笑した。
「お母さんによく怒られてた。少しくらい歩きなさいって」
男は黙って聞いている。
「今なら歩くよって言えるのにな」
少女は遠い空を見ていた。もういないかもしれない母親を思いながら。
男は何も言わなかった。慰める言葉など持っていない。だが少女もそれを求めてはいないようだった。ただ話したかっただけなのだろう。母親のことを。忘れたくなかっただけなのだろう。
男は歩き続ける。後ろから足音が聞こえる。小さい。頼りない。それでも止まらない。
また一歩。次の一歩。
その音を聞いているうちに、男はふと思った。人間はこういう音で生きているのかもしれない。誰かの足音で。誰かが隣を歩いているという事実で。だから前へ進めるのかもしれない。
そんなことを考えて、男は自分で驚いた。いつからこんなことを考えるようになったのだろう。つい昨日までなら、他人のことなどどうでもよかったはずなのに。
男は無意識に歩幅を少し緩めた。少女が追いつきやすいように。自分でも気付かないほど僅かに。少女も気付かなかっただろう。
ただ、二人の距離だけが少し縮まった。
荒野を吹き抜ける風の中、足音は変わらず続いていた。




